第4話 毒の正体
祖父が公爵邸に着いたのは、手紙を出した翌日の昼だった。
角鹿の引く小さな馬車が、門の前で止まる。大きな枝角を持つ鹿の魔獣で、一般の貴族や商人が好んで使う。その馬車から、白いひげを胸まで伸ばした小柄な老人が飛び降りた。
アンブロス。前の宮廷医師長だ。杖を突いているくせに、歩く速さは若い騎士より速い。
「アマリア!」
玄関で待っていた私を見るなり、祖父は杖を放り出して両腕を広げた。
「おお、おお、わしの可愛い孫娘。顔色が悪いではないか。ちゃんと食べておるか」
「お祖父さま、お久しぶりです」
「手紙の字が震えておったぞ。誰かにいじめられたか」
「あとで。まず、お母さまを」
祖父の顔から、孫に甘い好々爺の笑みがすっと消えた。医師の顔になる。
「案内せい」
母の居間で、祖父は脈をとり、まぶたの裏を見て、爪の色を確かめた。それから、私が渡した小瓶の薬湯を、指先で少しだけなめて、舌の上で転がす。
祖父の両手に、淡い光が灯った。治癒師の光だ。その手を母の胸にかざすと、光は薄い膜のように母の体を包み、すぐに消えた。
長い沈黙のあと、祖父は小瓶を卓に置いた。その手が、わずかに震えている。
「毒じゃ」
母が息をのむ音が聞こえた。
「黒鈴草の根の毒じゃ。ゆっくり心の臓を弱らせる。甘い薬草の匂いに紛らせてある。このまま飲み続ければ」
黒鈴草。白い光の中で、女神様が口にしたのと同じ名だった。
祖父は母の手を握りしめた。
「このまま飲み続けておったら、二年ともたずに、心の臓が止まっていた」
母の顔から、血の気が引いていく。
私は黙ってうつむいた。まだ、証拠がない。
その日の夕方、私は祖父と一緒に、父ヘルムートの書斎を訪ねた。
父は羽ペンを置いて、うんざりした顔で私たちを見た。
「毒だと? 馬鹿を言うな」
「ヘルムート。わしが調べたのじゃ。間違いない」
「薬湯を用意したのはヨランダです。毎日心を尽くしてくれている女が、なぜ毒など」
「お父さま。薬湯を運んだのは、いつもヨランダの侍女だけです」
「アマリア。お前まで、ヨランダを疑うのか。ドロテアは昔から体が弱かった。薬湯が合わなかっただけだ」
ああ、そうだ。この人は、こういう人だった。
悪人ではない。ただ、自分に都合のいい話だけを信じる人だ。
「わかりました」
私は、にこやかに頭を下げた。
「では、お母さまの体を治すため、お祖父さまの屋敷で療養させてください。お父さまは、お忙しいでしょう」
「療養?」
「勝手にしろ。ただし、おかしな噂を流すなよ」
扉を閉めたあと、祖父が小声で言った。
「よい手じゃ。ドロテアを屋敷から出してしまえば、毒はもう届かん。あとは、わしに任せておけ」
その夜、母の荷造りが始まった。魔石灯の青白い光が、廊下で揺れている。
◇ヨランダ◇
あの小娘が碗を叩き落とし、そこへ老いぼれの医者が来て、薬湯を舐めたという。
私は、鏡の前で髪をほどきながら、くすくすと笑った。
「そう。あの老人は、賢いのね」
「毒の瓶が見つかれば、私の首が飛ぶわ。だから、先に、誰かの首にしましょう」
引き出しの奥から、小さな瓶を取り出す。透明な、細い瓶。底に、わずかに黄色い澱が残っている。
私は、それを侍女の手に握らせた。
「お嬢様付きの侍女がいたわね。イレーネ。あの子の部屋の、寝台の藁の下に入れておいで。朝、旦那様をお連れするわ」
「あの、イレーネは、お嬢様が幼いころから」
「だからいいのよ。お嬢様が、いちばん大事にしている子だもの。鞭で打たれた侍女は、何でも吐くわ。三十も打てば、口が軽くなる。『お嬢様のご指図で』ってね。そうしたら、奥様に毒を盛ろうとしたのは、あの生意気な小娘ということになる」
楽しみだわ。血のにじむ背中を見て、あの小娘が、どんな顔をするのか。
◇アマリア◇
翌朝。母が祖父の馬車に乗る少し前のことだった。
廊下に、重い足音が響いた。
「アマリア!」父の怒鳴り声だった。続いて、ヨランダの泣き声。
扉を開けると、父がヨランダの肩を抱いて立っていた。後ろには、使用人が数人。ヨランダは、ハンカチで顔を覆っている。
「何事ですか、お父さま」
「お前の侍女の部屋から、これが出た」
父の手に、小さな瓶があった。透明な、細い瓶。底に黄色い澱。
イレーネが、使用人二人に両腕を取られて、廊下に引きずり出されてきた。顔が真っ白だ。
「お嬢様、私は、知りません」
「黙れ! 寝台の藁の下から出たのだぞ。薬湯に毒を混ぜていたのは、この侍女だったのだ」
「ああ、旦那様」
ヨランダが、わっと泣き伏した。
「お嬢様のご指図だったのでは、と思うと胸が痛くて。奥様がお亡くなりになってしまったら、私は、どうしたら」
涙は本物のようだった。上手い、と思った。
「庭で鞭打ちだ。口を割るまで、打て。連れて行け!」
使用人たちが、イレーネを引きずっていく。中庭の杭に縛りつけられ、背中の服が裂かれる。鞭を持った下男が、腕を振り上げた。
イレーネの悲鳴が、朝の庭に響く。
私は、足が震えるのを、止められなかった。
鞭が、風を切った。
「お待ちなさい」
私の声は、驚くほど通った。
鞭が、イレーネの背中の上で止まる。
「お父さま。その瓶、お祖父さまに見ていただいてから、打つかどうか決めても、遅くないはずです」
「何だと」
父が、苦々しげに杖の老人を振り返った。
祖父は、庭の隅の石に腰かけ、のんびりと杖に両手をのせていた。いつの間にか、そこにいた。
「ふむ。見せてみい」
祖父は父の手から瓶を取り上げ、鼻の先で振った。庭が、静まり返る。
「毒じゃな。わしが昨日調べた、ドロテアの薬湯の毒と、同じ種類じゃ」
「ただし」
祖父は、瓶を高く掲げた。陽の光で、黄色い澱が揺れる。
「この瓶には、毒のほかに、香の脂が混じっておる。夜香草と銀樹の樹脂と、眠り苔の根。三つを練った、特別な調合じゃ」
「それがどうした」
「昨夜、廊下を歩いたとき、奥の部屋から同じ香りが漂っておった。ヨランダ殿のお部屋じゃ」
ヨランダの肩が、ぴくりと動いた。
「侍女の寝台から出た瓶に、なぜ、ヨランダ殿の部屋の香の脂が溶けておるのかのう」
私は、一歩前に出た。
「お父さま。毒の瓶に、ヨランダの香の脂がついている。誰の手を経て、この瓶はイレーネの藁の下に置かれたのでしょう」
「ち、違います、旦那様」
ヨランダが、慌てて首を振った。
「あの、きっと、私の侍女の勘違いです!」
「勘違い?」
「そう、奥様のためによかれと思い、薬を足そうとして、間違えて。慌ててイレーネの部屋に置いてしまったのです。ね? お前、そうでしょう?」
ヨランダは、すぐ後ろに控えていた自分の侍女を振り向いた。侍女の顔が、紙のようになる。
「は、はい、奥様」
「私の管理が行き届かず、申し訳ございません。さあ、旦那様、イレーネを放してやってくださいな。可哀想に」
ヨランダは、目に涙をためて、父の腕にすがりついた。
父は、顔をしかめて、鞭を持つ下男に手を振った。
「やめろ。イレーネを下ろせ」
縄がほどかれる。イレーネは、石畳の上にへたりこんだ。
私はすぐに駆け寄って、イレーネの背に上着をかけた。背中には、まだ傷がない。間に合った。
「お嬢様」
「大丈夫よ。もう大丈夫」
イレーネは、私の袖にしがみついて、声を殺して泣いた。
ヨランダは、完璧な悲しみの顔でこちらを見ている。その目の奥だけが、笑っていなかった。決着には、まだ遠い。毒の瓶は、証拠として祖父が預かった。
昼前、母は祖父の馬車に乗り込んだ。
「イレーネ」
母は馬車の窓から身を乗り出して、イレーネの手を取った。
「私の大事な娘を、守ってくれてありがとう。次に会うときは、美味しいお菓子を持ってきてね」
「はい、必ず!」
馬車が門を出る。窓から、母が手を振る。祖父が杖を振り回している。
「アマリアー! わしの孫を泣かせた奴は、わしが杖で叩くからなー!」
ユリウスが吹き出した。イレーネも、泣きながら笑った。小さな、でも確かな幸せだった。
その夕方。私は二階の廊下の窓から、庭の植え込みを見下ろしていた。
ヨランダが、自分の侍女を植え込みの陰へ引っぱっていく。窓が少し開いていて、風が声を運んでくる。
「役立たず」
乾いた音がした。頬を叩く音。
「お前のせいで、あの老いぼれに香を嗅ぎつけられたじゃないの。蔵で三日、反省なさい。あの子が何か知っているのか、探るのも忘れずに」
ヨランダは、私が何かに気づいたと、疑いはじめた。
私は窓をそっと閉めた。
母は、助けた。イレーネも、守れた。けれど、毒を作った人間がいる。ヨランダ一人に、そんなものが作れるはずがない。
十日足らずで、王子妃選びの日がやって来る。同じ道は、歩かない。ルドヴィクの妃にはならない。ルドヴィクを、王にもしない。
でも、それなら誰と組む。令嬢一人の言葉では、王宮には届かない。
その夜、客間で祖父と二人きりになってから、私は尋ねた。
「お祖父さま。母に毒を盛った人は、毒をどこから手に入れたのでしょう」
「うむ。この毒は、市井には出回っておらん。王宮の薬師が扱う、特別な調合じゃ。ふつうの者は手に入れられん」
祖父は髭をしごいて、声を落とした。
「もうひとつ、思い出したことがある。去年から気になっておったのじゃ。第一王子ニコラウス殿下の病な」
「第一王子殿下の」
「あの方は、昔から体が弱いと言われておる。じゃがな、アマリア。症状が、ドロテアのものと、よく似ておる」
息が止まった。
第一王子。前の世では、若くして亡くなった人。あれも、病ではなかったのか。
二つの毒が、同じ出どころなら。ルドヴィクの母、イゾルデ様。ルドヴィクが王になるために、いちばん邪魔なのは、第一王子。
私は椅子から下りて、祖父の前に膝をついた。
「アマリア?」
「お祖父さま。お力を、貸してください」
顔を上げて、まっすぐに祖父を見る。
「母を、助けてください。毒を抜いて、元の体に戻してください。そして、第一王子殿下も。殿下の毒も、お祖父さまなら見抜けるはずです」
「第一王子殿下まで、か」
「はい。殿下がお元気になれば、母に毒を盛った者たちの企みは、根もとから崩れます」
祖父は長いあいだ、黙って私を見ていた。それから、深く息を吐いた。
「わしはな、アマリア。ドロテアがやつれていくのを、ずっと『体の弱い子じゃから』と思うておった。宮廷医師長まで務めた男が、自分の娘の毒にも気づかんかった」
節くれだった手が、膝の上で握りしめられる。
「その借りは、返さねばならん」
祖父は杖を床について、背筋を伸ばした。孫に甘い好々爺の顔ではなかった。王国じゅうの治癒師が頭を下げる、前・宮廷医師長の顔だった。
「わしの弟子は、王宮の侍医にも、薬師の組合にも、国じゅうの治療院にもおる。毒消しの薬は、弟子に作らせる。ドロテアには、わしの屋敷で、わしの選んだ者しか近づけん。それから、王宮の薬師の帳簿じゃ。黒鈴草の根を誰がいつ受け取ったか、弟子に洗わせよう」
「お祖父さま」
「じゃが、第一王子殿下は、そう簡単にはいかん」
祖父の声が、低くなる。
「わしは引退した身じゃ。殿下のお部屋に入って脈をとるには、殿下の後ろ盾になっておる方のお許しがいる。毒を盛った者に気づかれずに、な。そして、毒の出どころを暴いたあとは、その者たちから殿下と、おぬしを守れる力がいる」
点と点が、一本の線につながっていく。この毒を暴くには、第一王子の後ろ盾になれるほどの、力のある味方が要る。
一人だけ、思い当たる名前があった。
国境を守った戦の英雄。冷酷で、笑わないと噂の人。人々は畏れをこめて、その人をこう呼ぶ。
氷の大公。
王弟、シルヴェスター殿下。




