第3話 十七歳の朝、母はまだ生きている
庭から、木剣のぶつかる乾いた音が聞こえた。
寝間着のまま、私は階段を駆け下りた。侍女のイレーネが後ろで何か叫んでいる。聞こえない。
裏庭に飛び出す。朝の光の中で、少年が一人、藁人形に木剣を打ちこんでいた。
まだ背が伸びきっていない。肩も薄い。けれど、踏みこみの鋭さは、私の知っているあの子のものだった。
「ユリウス」
「あれ、姉上。珍しいね、こんな早くに。寝ぐせ、すごいよ」
振り向いたユリウスが、にっと笑う。
泥のついた頬。汗で額に貼りついた前髪。目を開けて、床に倒れていた弟とは、まるで違う。
違わない。同じ子だ。生きている。
気づいたら、私はユリウスに抱きついていた。
「うわっ、ちょっ、姉上? 汗くさいって!」
「いいの」
「よくないよ! どうしたの、怖い夢でも見たの?」
「そうね。怖い夢を見たの。とても長い夢」
ユリウスの背中は、あたたかかった。胸が上下している。とくとくと、鼓動が伝わってくる。
ユリウスは困ったように笑って、おそるおそる、私の背中をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だって。姉上のことは、俺が守るから」
その一言で、私は唇をかんだ。泣くのは、まだ早い。まだ、会わなければいけない人がいる。
ユリウスの腕をほどいて、私は走り出した。
母の居間は、日当たりのいい東の端にある。扉の前で、一度だけ息を整えた。
開けた。
窓辺の長椅子に、母が座っていた。
ドロテア。ロートリンゲン公爵夫人。薄い青のショールを肩にかけて、膝の上に刺繍の枠を置いている。私と同じ栗色の髪が、朝の光に透けていた。
顔色は悪くない。まだ。
「あら、アマリア。そんな格好で、どうしたの」
母の声だ。少しかすれた、やわらかな声。三年間、思い出すたびに胸が痛くなった声。
「お母さま」
「ごめんなさいね、最近疲れやすくて。これを飲んだら、庭に出るわ。ちょうどヨランダが薬湯を届けてくれたの」
母は小卓の上の碗に、手を伸ばした。
湯気が立っている。ほのかに甘い匂い。
あの匂いだ。
考える前に、体が動いていた。
私は母の手から碗をはたき落とした。
陶器が床で砕ける。薬湯が絨毯に広がって、じわりと色を変えた。
「アマリア!?」
母が目を見開く。刺繍の枠が、ぱたんと膝から落ちた。
「何をするの。あなた、どうしたというの」
「飲まないで。それは、飲んではだめ」
「ただの薬湯よ。ヨランダが毎日、私のために」
「だから、だめなの!」
声が震えた。母の手を、両手で握りしめる。細い指。あたたかい指。
この手が、冷たくなっていくのを、私は何も知らずに、ただ、見ていた。
「お願い、お母さま。今日だけでいいから。私を信じて」
「アマリア」
母の瞳が、揺れた。私の顔を、じっと見つめる。
その目の前で、私の頬を涙が伝った。ぽたり、ぽたりと、母の手の甲に落ちる。
止められなかった。
生きている。お母さまが、生きている。呼べば返事をしてくれる。私の手を握り返してくれる。
嗚咽が、喉からあふれた。私は子どものように、母の膝に顔を埋めた。
「お母さま、お母さま、お母さま」
「まあまあ、どうしたの、こんなに泣いて」
母の手が、私の髪をゆっくり撫でた。
それが、いけなかった。もっと泣けてきて、私はしばらく、母の膝から顔を上げられなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
「失礼いたします。碗の割れる音がいたしましたが」
扉の外から、女の声がした。薬湯を運んできた、ヨランダ付きの侍女だった。
目を上げる。侍女は戸口で、割れた碗と絨毯の染みを見て、一瞬、顔をこわばらせた。
その後ろから、もう一人。
ヨランダが、扇を手に立っていた。
艶のある黒髪、柔らかな笑み。誰にでも優しいと評判の、公爵の妾。
「まあ、奥様。お怪我はございませんか? お嬢様も、どうなさったの」
優しい声だった。けれど、絨毯の染みに視線が落ちた、ほんの一瞬。
ヨランダの目から、笑いが消えた。
氷のように、冷たい。
私は涙をぬぐって、にっこり笑った。
「ごめんなさい、ヨランダ。私が転んで、碗にぶつかってしまったの。せっかくの薬湯をこぼしてしまって」
「まあ、お嬢様ったら。お気になさらず」
ヨランダは笑顔に戻った。完璧な笑顔だった。
母が侍女に片づけを命じ、二人が絨毯の前にかがんだ隙に、ヨランダは私の横をすれ違った。
扇で口もとを隠したまま、耳もとへ、ささやきが落ちる。
「お優しいこと、お嬢様。でもね、お優しい人から先に、いなくなるものですよ」
甘い声だった。金花蜜のように。
背筋を、冷たいものが這い上がる。私は笑顔を崩さずに、小さく首をかしげてみせた。
「あら。何のお話かしら、ヨランダ」
「いいえ。ただの、独り言でございます」
ヨランダは優雅に膝を折って、去っていった。
昼になって、母は手ずから淹れた白湯と、月林檎の星蜜焼きを食卓に並べた。夜になると淡く光る月林檎に、星花の蜜をかけて焼いたもの。母の得意料理で、私の好物だった。薬湯は飲まない約束をしている。
「お母さまの白湯、味がしないわ」
「当たり前でしょう、白湯なんだもの」
母が笑った。ほんとうに久しぶりに聞く、声を立てて笑う母の声だった。ユリウスが窓から顔を突っこんで、焼き菓子の端をひとつ盗んでいく。
「こら、ユリウス!」
「ごちそうさまー!」
三人分の笑い声が、昼の居間に広がった。
三年間、思い出すたびに胸が痛んだ光景が、目の前にある。それだけで、この世に戻ってきた意味があると思った。
午後、中庭の車寄せに出ると、公爵家の馬車が引き出されていた。
引いているのは、二頭の一角獣だ。雪のように白い体に、額から一本、螺旋の角。ロートリンゲン家は代々、この一角獣を馬車に使ってきた。一角獣は、心の清い乙女にしかなつかない、と言われている。なつかない相手には、角を向ける。
先頭の一頭、リリは私の姿を見るなり、嬉しそうに鼻を鳴らして、頬にすり寄ってきた。
「ただいま、リリ。いい子ね」
温かい鼻息が、首筋をくすぐる。前の世では、王宮に上がってからは一度も会えなかった。
「お姉さま、ずいぶん仲良しですのね」
甘い声。振り向くと、ミレイユが日傘を差して立っていた。
「私にも、撫でさせて」
ミレイユは、リリへ手を伸ばした。
リリが、ぴたりと動きを止めた。耳が伏せられる。そして、ゆっくりと首を下げ、螺旋の角の先を、ミレイユの胸もとにまっすぐ向けた。
ぶるる、と低い鼻息。前脚が、石畳を一度、強く蹴る。
「きゃっ」
ミレイユが後ずさって、尻もちをつきかけた。日傘が転がる。
「な、何よ、この馬。畜生のくせに」
ミレイユは、笑顔のまま、リリに睨みを投げた。そして、御者に聞こえないほどの小声で言った。
「覚えておきなさい。お姉さまが後ろ盾を失ったら、真っ先に潰して、焼いて犬に食べさせてあげる」
リリの角は、微動だにしなかった。
私は黙って、リリの首筋を撫でた。この子には、ちゃんとわかるのだ。
その夜。
私は書き物机に向かい、ランプの下で手紙を書いた。宛先は、母方の祖父アンブロス。前の宮廷医師長で、国中に弟子を持つ人だ。
母の薬湯を一匙、小瓶に取り分けてある。今朝、碗が割れる前に、こっそり、指先でぬぐっておいたものだ。
『お祖父さま お母さまの薬湯を、調べていただきたいのです。理由は、お会いしたときに話します。誰にも知られぬよう、すぐにお越しください アマリア』
封をして、イレーネに渡す。
「夜明けまでに、お祖父さまの屋敷に届けて。ほかの誰にも、見られないで」
「お嬢様、いったい」
「あとで話すわ。お願い」
イレーネは何か言いかけて、のみこんだ。小さくうなずいて、手紙を胸に抱えて出ていく。
寝台に横になる。疲れ果てて、すぐに眠りが降りてきた。
夢の中で、声がした。
「あ、いたいた。夢の中なら、ちょっとだけ話せるのよね」
女神様の声だけだ。姿は見えない。
「ねえ、アマリア。ひとつ、報告があるの。ミレイユちゃんのことなんだけど」
ミレイユ。名前を聞いただけで、体が冷える。
「あの子ね、あなたが亡くなったとき、すぐそばにいたでしょう。あなたの返り血を、顔にばっちり浴びてたじゃない。それで、巻き戻しのとき、あなたの力にちょっと混ざっちゃったみたい。ごめんね、てへ」
「てへ、じゃありません!」
「だよね。でも大丈夫。記憶は、断片的よ。『王子が王になった』『自分が王妃になった』って結果だけ。なぜ勝てたかは、わからないはず」
結果だけ。
ということは、あの子は今、自分がどうすれば王妃になれるか、おおまかに知っている。
「そういうわけで、頑張ってね。おやすみー」
声が遠ざかり、夢は途切れた。
翌朝。
食堂には、父と、ヨランダと、ミレイユがすでに席についていた。母は体調がすぐれず、部屋で休んでいる。
ミレイユは桃色のドレスを着て、行儀よく背筋を伸ばしていた。栗色の巻き毛、白い頬。誰が見ても、愛らしい十五の少女。
「おはようございます、お姉さま」
にっこり笑ってくる。
「おはよう、ミレイユ」
私も笑い返して、席についた。パンをちぎりながら、ミレイユの視線を感じる。
ミレイユは、スープの匙を持つ手を止めた。そして、小首をかしげて、こう言った。
「お姉さま、今度は……いいえ、なんでもありませんわ」
今度は。
匙を持つ私の手が止まった。
顔を上げる。ミレイユは、笑っていた。
けれど、その目は。
十五の少女の目ではなかった。




