第2話 女神様のうそつき
冷たい。
床の石の冷たさが、頬から伝わってくる。胸の熱さは、もう遠かった。自分の体が、どんどん軽くなっていく。
ミレイユの笑い声と、ルドヴィクの笑い声。その二つが、水の底から聞くみたいにくぐもっている。
声は出ない。出せる息が、もう残っていない。
だから、心の中で言った。
この世では、幸せにしてくれるって言ったのに。
生まれる前、白い場所で、確かに聞いた。次は幸せになれる世界だ、と。あの約束だけは、ぼんやりしか覚えていないほかのことよりも、ずっとはっきり残っていた。
女神様の、うそつき。
そう思った瞬間だった。
音が、消えた。
笑い声も、衣ずれも、魔石灯の小さな唸りも、全部。
目を開ける。床に倒れたままの私の視界の中で、ミレイユが、笑った顔のまま止まっていた。頬に散った私の血が、ぽたりと落ちる途中で、宙に浮いている。ルドヴィクの剣先からしたたる赤も同じ。
時間が、止まっている。
白い光が、天井からゆっくり降りてきた。光は人の形になる。長い髪、ゆったりした衣。そして、にこにこと、やけに明るい顔。
「やっほー。見てたわよ、全部」
女神様だった。
前の世でも、こんな顔して見送ったっけ。そんな考えが、ふっと浮かんだ。前の世のことなんて、雪の白さと、遠い鈴の音くらいしか思い出せないのに。
「女神様」
声が出た。体は動かないのに、声だけが、白い光の中でちゃんと響く。
「うそつき」
「あー、言われると思った」
女神様は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「ごめんごめん。でもね、私、ちゃんと幸せになれる世に送ったのよ? 王子様の婚約者、公爵家の長女、顔もいい、頭もいい。条件は完璧だったの」
「幸せに、なれませんでした」
「うん。そこがすごいわよね」
女神様は腕を組んで、うーん、とうなった。
「幸せになれる世に生まれても不幸になるなんて、とんだ体質ね」
「体質で片づけないでください!」
思わず叫んでいた。叫んでから、自分でおかしくなる。死んだばかりなのに、怒鳴っている。
「五年です」
声が震えた。止まらなかった。
「五年、私は、あの人を王にするためだけに生きてきました。干ばつの年は、眠らずに穀物の蓄えを計算して、疫病の年は、お祖父さまに頭を下げて治癒師を集めて。父に頼みこんで、公爵家の兵も財も、全部あの人の陣営に差し出しました。あの人の名で陛下に出した策は、ひとつ残らず、私が夜通し書いたものです」
「うん」
「婚礼をのばされても、文句ひとつ言いませんでした。『今は大事なときだから』と言われれば、笑ってうなずいて、婚礼衣装を四度も縫い直して。ほかの令嬢に陰で『売れ残りの婚約者』と笑われても、あの人の評判に傷がつかないように、黙って頭を下げて」
息が続かない。それでも、言葉は勝手にあふれた。
「それなのに、あの人は、私を『小賢しい』と言って。ミレイユの手を取って。ユリウスまで」
「うんうん、全部、見てた。ひどい夜だったわね。あのミレイユちゃんの、かかとでぐりっ、は、さすがに私もひいたもの」
女神様は、ぱちぱちと手を叩いた。
「でもいいじゃない、その調子。さっきまで『ユリウス、ユリウス』って泣きそうだったから、心配してたの。元気、出るもんね。怒ると」
ユリウス。
弟の名前を聞いた途端、喉の奥が焼けた。
「ユリウスは。ユリウスは、どうなったんですか」
「あの子も、あなたのあとに来るわ。今ごろ、別の白い場所にいる。そんな顔しないの。ちゃんと迎えてあげるから。『姉上は無事ですか』って、そればっかり聞くのよ、あの子」
女神様の声が、少しだけ低くなった。ほんの少し。それが優しさだと、わかった。
鼻の奥が、つんとした。泣いてはいけない。泣いたら、そのまま消えてしまう気がした。
「ねえ、アマリア。あなた、ずっと知らなかったことがあるでしょう。なぜこうなったのか」
「知らなかった、こと」
「見せてあげる。目を閉じてごらん」
言われるまま、まぶたを下ろす。
暗闇の中に、ぽっと光が灯った。絵だ。光でできた絵が、一枚、また一枚と、まぶたの裏に浮かんでくる。
一枚目。夜の庭。
ルドヴィクとミレイユが、東屋の中で抱き合っている。ミレイユは、私よりずっと幼い。まだ十四か、十五。
「お姉さまは、殿下を愛していらっしゃるわ。お気の毒に」
「愛? くだらない。あいつは、使える女だ。それだけだ」
ルドヴィクは、ミレイユの髪をもてあそびながら笑った。
「王への道を切り開くには、あいつの父親の兵と金、それに祖父の人脈がいる。あいつと婚約すれば、全部ついてくる。王冠を手に入れるまでの、便利な鍵だよ」
二人の笑い声。日付が、光の端に小さく浮いた。私が王子妃に選ばれる、半年も前だった。
二枚目。公爵家の厨房の裏。
薬湯の碗を前に、ヨランダが小さな瓶を傾けている。指は、少しも震えていない。鼻歌まじりだった。透明なしずくが、碗の中に落ちて、溶けた。
「ほうら、奥様。今日もお体にいいお薬ですよ」
その碗は、母の部屋へ運ばれていく。母は、毎晩それを飲んでいた。病弱な体に効くと言って、ヨランダに「ありがとう」とまで言って。
「女神様。あの瓶は……まさか、毒、ですか」
声が、かすれた。
「そうよ」
女神様は、軽い調子を少しだけ引っこめて答えた。
「黒鈴草っていう魔草の根から絞った毒。色もない、匂いもない。甘い薬草の香りに混ぜたら、誰にもわからないわ」
「どんな、毒なのですか」
「ゆっくり、ゆっくり、心の臓を弱らせるの。一滴じゃ何も起きない。でも毎晩飲み続けると、少しずつ体が重くなって、息が切れて、顔色が悪くなっていく。はたから見たら、もともと体の弱い人が、病で弱っていくようにしか見えないの。治癒師が診ても、たいていは『お疲れですね』で終わり」
「そんな」
「一番いやらしいのはね、飲むのをやめれば、まだ間に合うってところ。ヨランダは、それを知ってて、何年も一日も欠かさなかったのよ。あなたのお母さまが、ありがとうって言うたびに」
晩年の母の顔が、浮かんだ。痩せた手で碗を持ち、ヨランダに微笑みかける顔。
私は、そばにいた。毎晩、同じ屋敷にいたのに。
三枚目。王宮の奥、側妃の宮。
イゾルデ様が、ヨランダに小さな瓶を渡している。同じ形の瓶。ルドヴィクの母であるイゾルデ様は、艶やかに微笑んで、人差し指をそっと唇に当てた。
「あの女には、ゆっくり効くものを。急ぐことはないのよ。娘は、息子の役に立つあいだは、生かしておくの」
四枚目。騎士団の厩舎。
馬の鞍帯に、誰かが細工をしている。ミレイユの手だった。ナイフで革に、浅く切れ目を入れていく。楽しそうに、舌を出して。
数日後、その馬に乗ったユリウスが落ち、足を痛めて、二度と全力で走れなくなる。
「お姉さまの大事な弟さん。ちょっとだけ、お姉さまを悲しませたいの。ね?」
私は、ぎゅっと目を閉じたまま、光の絵を見続けた。
母は病で亡くなったのだと思っていた。ユリウスの足は、不運な事故だと思っていた。
私は、毒を飲ませた人と、同じ食卓についていたのだ。
ヨランダのことも、ミレイユのことも、私は一度も嫌ったことがなかった。父の妾と、その娘。立場を思えば、恨んでもおかしくなかったのかもしれない。けれど私は、恨むことも、妬むこともしなかった。同じ屋根の下に暮らす家族だと思っていた。
母の葬儀の日、ヨランダは私の肩を抱いて泣いた。ミレイユは私の手を握って、「お姉さま、ひとりじゃないわ」と言った。二人が母の死を一緒に悼んでくれている。その姿を、私は真実だと信じた。
あれは、全部、芝居だったのだ。
母を毒で殺した手で、私の肩を抱いていた。あんなにも悪辣で、邪悪な母子だったなんて。
「全部、知らなかった」
「そう。全部」
女神様の声が、すぐ横で聞こえた。目を開けると、光の絵は消えている。
胸の中に、冷たくて重いものが、ことりと落ちた。悲しみではなかった。それは、怒りという名前をしていた。
五年。私が差し出したものを、全部、踏みつけにして。笑いながら。
「女神様」
「うん」
「あんまりでは、ありませんか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「公爵家の令嬢に生まれて、家柄も、お金も、何ひとつ不自由はなかったはずなのに。あんなに卑劣で邪悪な人たちが、いちばん近くにいたなんて。これでは、どう生きても、幸せになんてなれませんでした」
「うん」
女神様は、じっと私を見た。にこにこ顔が、ほんの少しだけ、真剣になる。
「そうね。正直に言うわ。これは、ハードモードすぎた。条件ばかり見て、まわりの人間の腹の中まで見てなかった。私の見落とし」
「ハード……?」
「とっても難しい、ってこと。ごめんね」
女神様は、ぺこりと頭を下げた。神様に頭を下げられたのは、生まれて初めてだった。
「だからね。本当はルール違反なんだけど、同じ世を、もう一度だけやり直させてあげる。今度は、あの人たちの腹の中を、ぜんぶ知ったうえで」
「同じ世を、もう一度」
「一回だけ。やり直せるのは、たった一回きり。次に死んだら、もう戻れない。それでもいい?」
「かまいません」
「即答ね」
女神様は、ふふっと笑った。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないのよね。じゃあ、ひとつ約束。今度の私は、うそつきじゃないから。ちゃんと、幸せになれる道、用意しておくわ。ただし、その道を歩くのは、あなた自身よ」
「歩きます。這ってでも」
「うん、そのくらいの気合がいるかもね」
白い光が、渦を巻いた。
体が、ふわりと持ち上がる。重たかった胸が軽くなって、遠くで、鈴の音が鳴った気がした。
「仕方ないから、もう一回だけチャンスをあげるわ。一回だけよ?」
「ありがとうございます、女神様」
「お礼は、幸せになってから聞くわ。いってらっしゃい、アマリア。今度は、うそつきって言わせないからね」
光が、はじけた。
はっと目を開ける。
見慣れた天井だった。薄い水色のカーテン、窓辺の小さな書き物机。公爵家の、私の部屋。
手を持ち上げる。ほっそりして、少し小さい。傷ひとつない、若い手。ミレイユに踏まれた指も、ちゃんと全部、動く。
胸に触れた。穴は、どこにもない。心臓が、とくとくと打っている。
窓の外で、馬のいななきがした。
寝台から滑り降りて、窓辺に走る。裸足の足裏に、朝の床の冷たさが気持ちいい。
門の前に、王家の紋章をつけた使者が立っていた。手には、金の縁取りのある白い封書。
見覚えがある。
王子妃選びの宴の、招待状だった。




