第1話 即位前夜、婚約者は妹の手を取った
明日、私は王妃になる。
王宮の離れの一室で、魔石灯の青白い光の下、私は寝台の上に広げたドレスを撫でていた。金の糸で百合を縫いとった、白い絹の婚礼衣装。明日、殿下の戴冠式と同じ日に挙げる、私たちの婚礼で着るものだ。
指先が、少し震えている。嬉しくて、怖くて、胸がいっぱいで。
十七で第四王子ルドヴィク殿下の妃に選ばれて、五年。私はずっと、婚約者のままだった。
王家の婚約は、ふつう一年も置かずに婚礼を挙げる。それなのに殿下は「今は国が荒れているから」「兄上たちとの争いが片づいてから」と、そのたびに理由をつけて、婚礼を先へ先へとのばした。私は待った。待つことが、殿下のためになると信じていた。
そのあいだも、殿下を王にするために、私は持っているものをすべて差し出してきた。ロートリンゲン公爵家の財と兵。祖父が築いた医術の人脈。夜を徹して考えた、いくつもの策。
干ばつの年には、穀物を蓄える策を。疫病の年には、治癒師を送りこむ策を。殿下はそれを、ご自分の名で陛下に申し上げた。それでいいと思っていた。殿下が王になるなら、手柄なんて誰のものでもかまわない。
そして明日、殿下は王になる。
「姉上、まだ起きてるの?」
扉の外から、弟のユリウスの声がした。ユリウスは騎士で、今夜は私の護衛についている。
「ドレスを見ていたの」
「明日いやってほど着るんだから、早く寝なよ。目の下にくまを作った王妃なんて、絵にならないよ」
「失礼ね」
「ほんとのことじゃん。あ、そうだ。厨房の人にもらった。火栗の糖衣がけ。扉の下から入れるから、受け取って」
扉の隙間から、小さな紙包みがすべりこんできた。
開けると、ほんのり甘い匂いがした。割ると中がいつまでも温かい火栗に、砂糖の衣をかけた菓子。母が生きていたころ、三人でよく分けて食べた。
「覚えててくれたのね」
「姉上、昔これ見ると目が丸くなるもん。王妃になっても、丸くなるのかなって」
扉ごしに、ユリウスが笑う気配がした。つられて私も笑ってしまう。
母が亡くなって三年。父は、母が亡くなるとすぐに妾のヨランダを後妻のように扱いはじめた。家の中で、私の味方と言えるのは、もうユリウスだけだ。
けれど、明日からは殿下がいる。王妃になれば、殿下のそばに、ずっと。
そう思ったとき、廊下に足音が響いた。
「殿下」
ユリウスの声が改まる。扉が開いた。
ルドヴィク殿下が立っていた。明日、王冠をのせる金の髪。いつもより少し、頬が赤い。お酒を召しているのかもしれない。
「ルドヴィク様。こんな夜更けに、どうなさったの」
私は立ち上がって、殿下を迎えた。
殿下は答えなかった。半歩、横に身をずらす。
殿下の後ろに、もう一人いた。
淡い桃色のドレス。ゆるく巻いた栗色の髪。異母妹のミレイユだった。父とヨランダのあいだに生まれた、私の二つ下の妹。
「ミレイユ? あなた、どうしてここに」
ミレイユは答えず、恥ずかしそうに目を伏せた。そして、殿下の腕に、自分の腕をからめた。
殿下はその手を取った。私の目の前で、ゆっくりと。指と指を、からめるように。
「殿下?」
「アマリア。明日、王妃の冠をかぶるのは、ミレイユだ」
何を言われたのか、わからなかった。
「王妃にふさわしいのは、ミレイユのほうだ。お前と違って、俺を立てる。俺に笑いかける。お前みたいに、いちいち政のことに口を出してこない」
「口を出す? 殿下が、私に、策を考えてくれとおっしゃったのでは」
「それが鼻につくんだよ」
殿下は、汚いものを見る目で私を見た。
「王になる俺に、小賢しくて口うるさい王妃は要らない。王妃は、黙って俺の隣で笑っていればいいんだ」
「小賢しい……」
「五年、お前の家の力は役に立った。だがもう要らない。王になれば、公爵家の兵など、俺の兵だ。お前の父上も、明日からはヨランダ夫人を公爵夫人に迎えるそうだぞ。お前の居場所は、どこにもない」
頭の中が、白くなる。
「ミレイユとは、いつから」
「いつからだと思う?」
答えたのはミレイユだった。殿下の肩に頬を寄せて、くすりと笑う。人前で見せる、甘くて健気な声ではなかった。軽くて、楽しそうで、ぞっとするほど冷たい声。
「お姉さまが王子妃に選ばれる、ずっと前からよ。殿下はね、お姉さまの家が欲しかっただけ。私のことは、最初から愛してくださっていたの」
「嘘」
「本当よ。ねえ、お姉さま。五年のあいだ、殿下が夜にどこへ行っていたか、一度でも考えたことがあって? お姉さまが策を練っている間、私は殿下の腕の中で、お姉さまのことを笑っていたの。毎晩、毎晩よ」
足が、床に縫いとめられたように動かない。扉の向こうで、金属の擦れる音がした。殿下の兵が、廊下に並んでいく音だ。
寝台の上の白い婚礼衣装が、急に、ひどく滑稽なものに見えた。
最初に仕立てたのは、十七の春だった。婚礼がのびるたびに、私の背はのび、肩も腰も娘らしく変わって、衣装は合わなくなった。そのたびに裾を下ろし、身ごろを縫い直し、とうとう一から仕立て直した。この五年で、四度。
何夜、眠らずに策を練っただろう。何度、針を持つお針子に「次こそは」と笑ってみせただろう。
殿下が婚礼をのばし続けたのは、国のためではなかった。私を妻にする気など、最初からなかったのだ。全部、笑いものだったのだ。
殿下が、腰の剣を抜いた。
明日の戴冠式のために用意された、儀式用の宝剣。柄に赤い宝石が光っている。
「アマリア。お前は……死ね」
「姉上!」
扉が激しく開いた。ユリウスが飛びこんでくる。私と殿下のあいだに、ユリウスの背中が割りこんだ。
「何をなさるんです、殿下! 姉上は、あなたの婚約者でしょう!」
「どけ、ユリウス。お前も一緒に死にたいか」
「どきません。姉上、逃げ」
ユリウスの言葉は、最後まで続かなかった。
殿下の剣が、ユリウスの胸を貫いていた。
ユリウスの体が、ゆっくりと前に崩れる。私は手を伸ばした。届かなかった。弟は私の足もとに倒れて、もう動かない。
「ユリウス、ユリウス!」
声が、自分のものではないみたいにかすれる。
十五の春、騎士見習いになったユリウスは、私の前で胸を張った。姉上は俺が守るから。そう言って、笑った。
その弟が、床の上で、目を開けたまま。手の中から、火栗の糖衣がけが一粒、転がっていった。
「さて」
殿下が、血のついた剣を、ハンカチで軽く拭った。
「弟の後を追わせてやる。優しいだろう? 一人で死ぬのは、寂しいだろうからな」
私は逃げなかった。逃げられなかった。
廊下には、殿下の兵が並んでいる。この部屋の扉は、とうに塞がれていたのだ。叫んでも、誰も来ない。
剣が、私の胸に入った。
熱い。痛いより先に、熱い。
膝が折れる。殿下の顔が遠ざかって、天井の金の飾りが見える。王妃になる人間のために、ていねいに磨かれた天井。
ミレイユが、私をのぞきこんできた。
私の胸から噴き出した血が、ミレイユの頬に、ぱっと散る。ミレイユは気にもせず、ハンカチでそれを拭いながら笑った。
ミレイユは、明日着るはずだった私のドレスを、寝台から拾い上げた。白い絹に、金の百合。
自分の体に当てて、殿下に見せる。
「似合います?」
「ああ。お前のほうが、ずっといい」
「この首飾りも、いただいていきますわね。お姉さま、もう、つけられないでしょう?」
ミレイユの指が、私の首から鎖を引きちぎった。小さな青い石の首飾り。亡くなった母が、最後の誕生日にくれた形見だった。
そして、床に伸びた私の手を、桃色の靴のかかとで、ぐり、と踏んだ。
「ほら、動かないで。お姉さま。最後くらい、おとなしく死んでちょうだい」
痛みは、もうほとんど遠かった。
それなのに、その言葉だけは、はっきり聞こえた。
「長いあいだ、殿下の椅子を温めてくださって、ありがとう」




