閑話 姉上がいなくなる夢(ユリウス視点)
朝のうちに、百回、素振りをした。
それでも、気持ちが落ち着かない。王弟邸の訓練場は、いつもどおり霜の匂いがする。義兄上が剣の稽古をつけるとき、足もとの土が薄く凍るからだ。
木剣を振りながら、俺は考えていた。
ルドヴィクが、死んだ。
あの男は、姉上に「お前は要らない」と言った男だ。ミレイユと組んで、姉上を笑った男だ。ざまあみろ、と思うはずだった。思おうとした。
でも、出てこなかった。
「ふん」
最後の一振りで、木剣が空気を裂いた。
別に、同情なんてしていない。ただ、なんだか、胸のあたりに穴が空いたようだ。
俺には、誰にも言っていない秘密がある。
夢の話だ。
*
十五の春ごろから、俺は同じ夢を見る。
暗い廊下だ。足もとの絨毯が、赤い。ずっと向こうに、白い夜着の背中が見える。長い栗色の髪。姉上だ。
扉の前に、立っている。
その扉の向こうから、誰かが入ってくる。俺は剣を握って、前に出る。姉上の前に、立つ。
冷たいものが、胸に入る。
痛みはない。ただ、熱くて、冷たい。
姉上が、何か言っている。泣いている。俺は、姉上の顔が見たくて振り返ろうとするけれど、体が動かない。
そして、いつも同じ言葉が、口から出る。
『姉上、逃げ……』
そこで、目が覚める。
胸に手を当てると、いつも、汗でびっしょりだ。心臓が、早鐘を打っている。
誰にも言えなかった。姉上は、母上のことで大変な時期だったし、騎士が夢で弱音を吐くなんて、みっともない。
夢には、ときどき、別の景色も混じる。
雪の積もった、古い城だ。灰色の石壁も、凍った中庭も、俺は見たことがない。そのくせ、門の前に立つと、胸の底が重くなる。
誰に向けたのかもわからない言葉が、喉の奥に浮かぶ。
『前は、間に合わなかった』
目が覚めると、理由のわからない悔しさだけが、朝まで残っている。
一度だけ、義兄上に話したことがある。
訓練のあと、汗を拭きながら、ぽつりと。「変な夢を見るんです」と。
義兄上は、黙って最後まで聞いた。それから、短く言った。
「夢で守れなかったのなら、今、守れ」
それだけだった。
けれど、その一言で、俺は剣を握り直せた。
*
義兄上のことは、最初は怖かった。
氷の大公。笑わない男。屋敷に入った日、俺は剣を握る手が汗で滑った。
それが変わったのは、姉上の結婚から少しあとだ。義兄上は、俺を中庭に呼んだ。そこに、銀色の天馬車が降りていた。翼のある白馬が四頭、車体の氷の紋章が朝日にまぶしい。
「乗れ」
「え」
「王弟妃の護衛が、空を知らんでは困る」
扉が閉まり、体がふわりと浮いた。窓の下で、屋敷がどんどん小さくなる。王都の屋根が、積み木みたいに並んでいた。
俺は窓にへばりついて、声も出なかった。
「怖いか」
「いいえ!」
「震えているぞ」
「武者震いです!」
義兄上の口の端が、ほんのわずか上がった。
「ユリウス。お前の剣は、姉の盾だ。胸を張れ。私が背中を預けるに足る」
背中を預ける。氷の大公が、十五の俺に。
そのとき決めた。この人の下で、騎士になる。姉上を守るのは、俺の誇りで、俺の仕事だ。
夢の中でどうだったかなんて、関係ない。今の俺は、守れる。
*
あの反逆の夜も、そうだった。
刺客が窓を破って飛びこんできた。黒装束の影が、姉上のお腹を狙って走る。俺は、姉上の前に立った。
口が、勝手に動いた。
「姉上には、指一本触れさせない。今度こそ」
言ってから、首をかしげた。今度こそ、とは何だ。俺は、これまで姉上を守り損ねたことなんてないのに。
でも、あの言葉は、体の奥から出てきた。
百年も前から決まっていたみたいに。
*
騎士になる、と決めたのは、いつだったか。
父上は、公爵家の跡取りなのだから剣など、と言った。母上は、ただ黙って、俺の木剣の手の豆に薬を塗ってくれた。姉上は、毎晩、俺の稽古の話を聞いてくれた。「ユリウスは強くなるわ」と、いつも言ってくれた。
俺が強くなりたいのは、あの人が笑っていてほしいからだ。それだけだ。理由は、それだけで足りる。
今朝の知らせを聞いたとき、姉上は泣かなかった。一筋だけ、涙を流した。「前の私と、ユリウスのためです」と言った。
前の私。姉上は、ときどき、そんな言い方をする。意味はわからない。でも、わからなくても、いい気がする。
*
昼前に、廊下を歩いていると、庭から笑い声が聞こえた。
足が止まる。
窓の外、屋敷の庭の一角に、白い花が咲いている。
姉上が、花壇の前に座っていた。大きくなったお腹に片手を当てて、もう片方の手を、枯れかけた草にかざしている。指先から、淡い光がこぼれた。しおれていた花の蕾が、ふわりと開く。白い花が、ひとつ、またひとつ。姉上の「花の加護」だ。昔から、小さな花を咲かせるのが得意だった。
「ほら、咲いたわ」
「もう少し、手を貸してもよいか」
隣に立つ義兄上が、真顔で言った。氷の大公と呼ばれる、あの人が。
「花が凍ります」
「凍らさん。気をつける」
「さっきも、そうおっしゃいました」
「今度は、気をつける」
義兄上が、そっと手のひらをかざした。ぴきん、と小さな音がして、咲いたばかりの白い花に、薄い氷の膜が張った。花びらが、朝露のようにきらめく。
「氷の花になりました」
「綺麗だろう」
「ええ。綺麗です。でも、凍らせたら、咲いた意味がありません」
姉上が、くすくす笑った。
義兄上の口の端が、ゆっくりと上がった。
姉上は、その横顔を見上げて、ほんとうに幸せそうに笑った。窓ごしでも、わかった。目の奥まで、あたたかい顔だった。
その顔を見た途端に、視界がにじんだ。
「あれ」
頬に、何かが伝う。
袖でぬぐった。止まらない。
悲しいわけじゃない。ルドヴィクのことでもない。俺は、笑っている姉上を見て、ただ立っているだけなのに、涙が、次から次へと、こぼれてくる。
どうしてだ。意味がわからない。
「ユリウス様」
後ろから、イレーネが声をかけた。手に、ハンカチを持っている。
「また泣いておられますか」
「泣いてない。目にゴミが」
「はい。ゴミですね。たくさん入っておられます」
イレーネは、何も聞かずに、ハンカチを差し出した。俺は顔を伏せて、受け取る。
「男の子というものは、泣くとき、奥様に見つからないようにするものですものね」
「うるさい」
「はい。うるさいですね」
イレーネの肩が、小刻みに震えている。笑いをこらえているのか、泣いているのか、わからなかった。
ハンカチで顔を拭いて、深呼吸をした。
大丈夫だ。俺は、今、ここにいる。
姉上は、笑っている。義兄上は、隣にいる。お腹の子は、これから生まれる。
俺は、騎士だ。姉上の騎士で、義兄上の部下で、まだ生まれていない甥か姪の、叔父さんだ。
夢の中の俺は、いつも、最後まで言えない。
『姉上、逃げ』
でも、今の俺なら、続きが言える。
逃げなくていいです、姉上。俺が前に立ちますから。
俺は、窓を開けた。
「姉上ーっ! 義兄上ーっ! 俺も、混ぜてください!」
「ユリウス?」
姉上が振り向く。目が、まん丸になった。
「その顔、どうしたの。赤いわ」
「ゴミが入りました」
「ふたつの目に?」
「ふたつの目に!」
義兄上が、ぷっと息を漏らした。氷の大公が、笑った。
三人で笑った。庭の白い花が、風に揺れていた。
ふと、姉上のお腹から、ことん、と小さな音がした気がした。
「あ、今、蹴りました」
「本当か」
義兄上が、慌てて姉上の前に膝をついた。氷の大公が、庭の土に、膝を。
「ほら、また。元気な子です」
「男の子だろうか。いや、女の子でも構わん。いや、どちらでもだ」
「落ち着いてください、義兄上」
「落ち着いている」
全然、落ち着いていなかった。
俺は、笑いながら思った。この子が生まれたら、俺は一番に剣を教える。姉上に似て、眉をつり上げる子だといい。
夢の続きは、きっと、ここにある。




