第34話 夜明けの知らせ
その夜、私はほとんど眠れなかった。
王弟の屋敷の寝室で、寝台に横たわったまま、天井の梁を数えていた。隣ではシルヴェスターが、眠ったふりをしている。ふりだとわかるのは、私の手を握る指に、ずっと力が入っているから。
「眠れないのか」
「シルヴェスター様こそ」
「私は、眠る必要がない。お前が起きているあいだは」
ぶっきらぼうな言い方に、少し笑ってしまった。
「それは、眠れないのとどう違うのです」
「違わん」
くすくすと笑っているうちに、窓の外が白んできた。枕もとの魔石灯の光が、朝の色に負けて薄れていく。
扉が叩かれたのは、鳥が鳴きはじめたころだった。
入ってきたのは、近衛の長だった。シルヴェスターが起き上がる。短い耳打ちがあって、近衛の長は一礼して下がった。
シルヴェスターは、しばらく黙っていた。
それから、寝台の端に腰かけて、私の手を両手で包んだ。
「アマリア。聞く覚悟はあるか」
「はい」
「地下牢で、ルドヴィクが死んだ。牢番が朝の見回りで見つけたときには、もう冷たくなっていたそうだ」
窓の外で、鳥が鳴き続けている。
言葉が、すぐには胸に落ちてこなかった。
「死因は」
「首に、鎖が巻かれていた。ほかには、手で押さえられた痕。ミレイユとカティアが、その場で取り押さえられた。二人は、抵抗しなかったそうだ」
「そう、ですか」
廊下から、慌ただしい足音が近づいてきた。扉が開いて、ユリウスが顔をのぞかせる。目が赤い。後ろにイレーネも立っていて、エプロンの端を握りしめていた。
「姉上。聞いた?」
「ええ。今、聞いたところ」
「俺さ。ざまあみろって思うはずだったんだ。でも、変な気分だ。姉上の前で、泣くのも違う気がして」
「泣いていいのよ、ユリウス」
「……いや、いい。姉上が泣かないなら、俺も我慢する」
ユリウスはそう言って、唇を噛みしめた。前の世で、私の足もとで目を開けたまま動かなかった弟が、今、目の前で生きて、涙をこらえている。それだけで、胸がいっぱいになった。
「イレーネ。熱い雲苺の茶を、人数分」
「はい、奥様。すぐに」
イレーネは鼻をすすり上げて、廊下を駆けていった。
「牢番は、ろうそくが消えていて、何も見ていないと言っている。二人は聞かれたことに、ただ頷いたと」
私は、ゆっくりと身を起こした。
シルヴェスターが背に枕を当ててくれる。窓のほうへ顔を向けると、薄い朝の光が、カーテンの隙間から細く射しこんでいた。
前の私が最後に見た天井は、金の飾りが磨かれた、王妃になるはずの者のための天井だった。
あの夜の天井が、今朝の空とつながったような気がした。
「……そうですか」
それしか、言えなかった。
喜びではなかった。悲しみでも、なかった。ただ、長いあいだ、どこかで握りしめていた拳が、ほどけた。
前の私が、ようやく、眠れたのだと思った。
涙が一筋だけ、頬をすべった。シルヴェスターは何も言わず、親指でそっとぬぐった。
「私が泣いたのは、あの人のためではありません」
「ああ」
「前の私と、ユリウスのためです」
「わかっている」
シルヴェスターの声は、いつもより低く、やわらかかった。
しばらくして、私は言った。
「シルヴェスター様。お願いがあります」
「言え」
「ミレイユに、会いたいのです。一度だけ」
シルヴェスターの眉が、ほんのわずか動いた。
「会って、どうする」
「わかりません。何も言わないかもしれません。ただ、会わないまま終わらせると、前の私が、また立ち止まってしまう気がして」
シルヴェスターは、長く息を吐いた。
「私も同行する」
「牢の前までで結構です」
「入口までだ。それ以上は譲らん」
「はい」
私は、ようやく微笑んだ。
イレーネの運んできた熱い雲苺の茶を、四人で飲んだ。寝室の床に直接座って、パンを割り、星蜜焼きの月林檎をのせて。
「姉上、お行儀が悪い」
「ユリウスこそ、口のまわりが星蜜だらけよ」
「殿下、その一切れは奥様の分です! 先に召し上がってはいけません」
イレーネに叱られて、シルヴェスターは手にしたパンを、無言で私の皿へ移した。氷の大公が、侍女に叱られて、しゅんとしている。
ユリウスが吹き出して、イレーネが「笑い事ではありません」と言いながら自分も笑って、私も笑った。人が一人亡くなった朝に、笑うのは不謹慎かもしれない。けれど、この朝食の笑い声は、前の私が最後まで手に入れられなかったものだった。
「いただきます、は、私が言うわ」
私が手を合わせると、三人も手を合わせた。
*
地下牢は、昨日よりも冷え切っていた。壁に染みこんだ水の匂いに混じって、鉄と、消えたろうそくの蝋の匂いがする。私は階段の途中で一度だけ足を止め、お腹に手を当てた。子が、静かにそこにいた。そのことが、私を前へ進ませた。
鉄格子の奥は、三つの房に分けられていた。中央の房は空。昨夜の出来事のあと、ミレイユとカティアは別々の房に移されたのだと、近衛の長が小声で教えてくれた。
右の房で、カティアが壁を向いて座っている。膝を抱え、微動だにしない。
左の房に、ミレイユがいた。
両手の手首に、枷。泥だらけだったドレスは取り替えられ、粗末な灰色の囚人服になっている。髪はおろされたまま、顔の半分を隠していた。
鉄格子の前に立つと、ミレイユは顔を上げずに言った。
「来ると思っていたわ。お姉さまのことだもの。足音でわかる」
カティアは動かない。壁に向いた背中が、ひどく小さく見えた。
「そう」
「お姉さまなら、来る。昔からそう」
ミレイユの目が、ちらりと私の後ろへ流れた。
「大公殿下も、ご一緒なのね。毎日、そんなふうに、そばにいてくださるの」
「ええ。毎日」
「いいわね、お姉さまは。前の人生では、一度もなかったのに。私にも、そんな人が、ひとりくらい」
言いかけて、ミレイユは口を閉じた。ルドヴィクの顔が浮かんだのだろう。長い睫毛が、小さく震えた。
けれど、同情はしない。母の薬湯に毒を入れた手が、その睫毛の下で笑っていたことを、私は忘れない。
私は、鉄格子の前に立ったまま、ミレイユを見下ろした。
「怪我はない? 食事は、出ている?」
「怪我なら、いくらでも。でも、お姉さまを殺した夜に比べたら、何でもないわ」
その言葉に、背後でシルヴェスターが一歩踏み出した。私は手を上げて、止めた。
「殺されたのは、私よ。あなたに笑われながら」
ミレイユは、否定しなかった。ただ、手首の枷を見下ろして、指を握ったり開いたりしている。
「知ってるわ。血を浴びたもの」
ミレイユは、薄く笑った。
「あのね、お姉さま。殿下を殺したこと、私は少しも後悔していないの。それは本当。でもね」
ミレイユが、ゆっくり顔を上げた。
牢の高窓から落ちる光が、ミレイユの頬の汚れを白く浮かび上がらせていた。目の下に隈がある。けれどその瞳は、怯えも怒りもなく、ただ純粋に、不思議そうだった。
「勝ったのは、お姉さまよ。認める。私も殿下も負けた。でも」
ミレイユは、首をかしげた。
「どうして。前の人生では、私が勝ったのに」




