第33話 地下牢の三人
◇ミレイユ◇
地下牢は、水の匂いがした。
壁を伝う水滴が、石の床に落ちる。ぽたり、ぽたり。その音を数えているうちに、辺境の館で数えていた別の音を思い出しそうになって、私は数えるのをやめた。
鉄の扉は閉まった。三日ぶりに、怒鳴る声も、笑う声も聞こえない場所に来た。鍵の音も、足音が遠ざかる音も、全部聞いた。
牢は思ったより広い。壁に鎖で縛られたルドヴィク殿下が、向こうの端に座っている。上等だった上着は破れ、髪は汗で額に張りついている。手の届かない場所に、水差しがひとつ置いてあった。
私とカティアは、反対側の壁にもたれた。
牢番が残した小さなろうそくが、石の台の上で、細い火を揺らしている。
「……お前たちか」
殿下が、ようやく口を開いた。
「生きて戻ったのか。辺境の連中は、役立たずばかりだ。ひと晩も面倒を見られなかったのか」
カティアの指が、ぴくりと動いた。
私は何も言わなかった。言うことが、もう何もなかったから。
かわりに、石の床を見た。ここに来るまでの馬車の揺れも、館の扉の音も、全部この冷たさに吸われて消えていく。怖いという気持ちさえ、どこかに置いてきてしまった。
「お前たちが悪いんだ」
殿下は鎖を引いて、こちらへ身を乗り出した。
殿下の声が、牢の壁に反響する。
「そもそも、お前たちがつきまとってこなければ、俺は叔父上に足を掬われることもなかった。ミレイユ、お前が正妃になりたいと泣くから、俺はアマリアを手放すしかなかった。カティア、お前が俺の部屋に勝手に入ってきたから、あの夜の計画が」
「勝手に、ですって」
カティアが、小さく笑った。
「殿下が、私を呼んだのではありませんか。『側妃にしてやる』と」
「黙れ。使用人の分際で」
殿下は唾を吐くように言い、今度は私に顔を向けた。
「ミレイユ。そもそもお前は、妾の子だ。母親が妾なら、娘も同じ。最初から、正妃などの器ではなかった。拾ってやっただけ、ありがたいと思え」
辺境の館で、同じことを言われた気がする。あの扉の向こうで。誰の声だったかは、もう思い出せない。
「聞いているのか。お前たちは、俺の持ち物だ。持ち物が主人に口答えするな。まったく、どいつもこいつも、アマリアの半分も使えん」
その名を口にした途端、殿下は自分で舌打ちをした。
「あいつだけは、よく働いた。俺が何も言わずとも、先回りして整えておいた。あれほど便利な女は、ほかにいなかった」
「便利」
カティアが、ぽつりと繰り返す。
「ああ。妻にするなら、あれだった。お前たちは、ただの飾りだ」
飾り。便利。持ち物。
この人は、ひとりの女を呼ぶ言葉を、それしか持っていない。私は、可笑しくなってきた。こんな人のために、私は、お姉さまを。
「その使用人の子を、殿下は、お腹に宿させました」
牢の中が、しんと静まった。
「私の子は、殿下の初めての子でした。あのとき、殿下は一度でも、顔を見に来てくださいましたか。階段から落ちた私の枕もとに、一度でも」
「……あれは、ミレイユが突き飛ばしたんだろう。俺のせいじゃない」
「そうですね。殿下のせいじゃ、ありませんね。階段も、毒も、辺境へ出された馬車も、全部、誰かのせいですものね」
カティアは壁から背を離した。裸足の足が、床の水たまりを踏む。
「殿下のせいじゃないことなんて、この世に、ひとつも、ありませんでしたのにね」
声は静かだった。叫ぶより、ずっとぞっとした。
「毎朝、雲苺の茶が苦かったのです。腹の子に障る薬草が混ぜてあると、のちに知りました。混ぜたのは、そこの奥様」
カティアの目が、一瞬だけ私に向いた。私は、否定しなかった。事実だったから。
「それでも私は、殿下の子を守りたくて、その茶を飲み続けました。殿下は、そんな私の顔色の悪さに、一度でも気づいてくださいましたか」
「女の顔色など、見ているものか」
殿下は、心底から不思議そうに言った。
牢の中の空気が、すとんと冷えた。この人は今も、自分が何を言ったのかわかっていない。
私も、顔を上げた。
「殿下」
「なんだ、ミレイユ。お前も何か言うのか。泣いて謝れば許されると」
「あなたのために、お姉さまを殺したのに」
ろうそくの火が、一瞬、横に揺れた。
「……何の話だ」
殿下の目は、本気で戸惑っていた。
「お姉さま? アマリアのことか? お前、何を言っている。俺はあいつを殺してなどいない。あいつは叔父上のところで、のうのうと」
ああ、そうか。
胸の奥で、何かがことりと外れた。長いあいだ嵌まっていた、錆びた留め金のようなものが。
殿下は、覚えていないのだ。
私の記憶は断片だった。「王子が王になる」「自分が王妃になる」。結果の欠片だけ。けれど、あの即位前夜の、お姉さまの胸から噴き出した血の熱さは、頬に残っている。この男の剣が、何を貫いたかも。
この男は、それを知らない。知らないまま、私を捨てようとした。
「そう。そうよね」
私の口から、乾いた笑いが漏れた。
「ねえ、殿下。牢番が噂していたわ。玉座の前で、あなた、『叔母上、取りなしてくれ』って泣きついたんですってね。お姉さまに」
「それがどうした」
「お姉さまに、命乞いをしたのね。お姉さまを『お前は死ね』と言って殺した人が」
「なんだと」
「あなたは、そう言ったのよ。私は、聞いたの。血を浴びながら。『お前は、死ね』って」
殿下の顔が、ひきつった。
意味がわからないのだろう。わからなくていい。この男は、それでも、何かを察したように唇を震わせた。
「ミレイユ。お前、気が触れたのか。誰か、牢番を」
「呼べば? 誰も来ないわ。側妃は全員殺してもいい、って、自分で言ったじゃない」
殿下の喉が、ひゅっと鳴った。
「あれは、ブランシュに向けた言葉で」
「私も、側妃よ」
私は立ち上がった。
「殿下。私の中ではね、あなたはもうとっくに、お姉さまを殺した夜に死んでいたの」
カティアも、隣に立った。
二人の影が、石の壁に長く伸びた。ろうそくが一本きりだから、影はひとつに重なって見えた。
「カティア」
「はい、奥様」
カティアは、笑った。こんなふうに笑う人だったのかと思うほど、穏やかに。
「もう奥様ではありませんね。でも、今だけは、ミレイユ様と呼ばせてください」
「ええ」
「私の子を、返してください」
カティアが、殿下に向かって、まっすぐに言った。
「殿下。私の子を、返して」
殿下が、鎖を鳴らして後ずさろうとする。背中が、壁にぶつかった。
「来るな。やめろ。お前たち、何をする気だ。父上が」
私とカティアは、同じ方を向いた。
長いあいだ、いがみ合ってきた主と従は、初めて、同じ一人に向かって歩いた。
ろうそくの火が、ふっと細くなる。
誰かが、長く、息を吐いた。それが私だったのか、カティアだったのか、殿下だったのか、わからない。
牢のろうそくが、消えた。




