第32話 返品された妃たち
大扉の向こうから現れたのは、見るも無惨な姿の二人だった。
ひとりは、栗色の髪をほどかれたまま、ばさばさに乱れさせている。もうひとりは、うつむいて、裸足の指先から血を滲ませていた。かつて絹だったドレスは泥と裂け目だらけで、袖口は黒ずんでいる。
ミレイユと、カティア。
二人の後ろから、恰幅のいい辺境の貴族が、汗を拭きながら進み出た。
「陛下に申し上げます。第四王子殿下より、『味方の礼』として預かりましたお二人、確かにお返しに参りました。我が一族は、謀反などには一切関わりございません。昨夜のうちに、その旨を使いも出しております。竜の群れが王都へ向かうのを見て、角鹿の馬車を夜通し駆ってまいりました」
早口だった。逃げ腰、というより、一刻も早く厄介ごとを手放したい顔だ。
「預かった、とな」
陛下の声が低くなった。
「余の甥は、己の妃を、物のように貸し出したか」
「い、いえ、私どもは何も、その」
「下がってよい。そなたの領地には、改めて沙汰を出す」
貴族は青ざめて平伏し、後ずさりするように広間を出ていった。
広間の貴族たちが、またひそひそと囁きはじめる。「貸し出した、ですって」「妃を、荷物のように」「そんな方に、我が家の娘を嫁がせようとしていたとは」。さきほどまで第四王子の機嫌をうかがっていた顔が、いっせいに「最初から怪しいと思っておりました」という顔に変わっていた。人の手のひらは、こうも早く返るものらしい。
前の私は、その手のひらの上で五年を過ごした。今の私は、ただ眺めている。
ふと、肩にやわらかいものが掛かった。シルヴェスターの上着だった。
「顔色が悪い。冷える」
「大丈夫です」
「大丈夫ではない」
上着の内側から、小さな紙包みが出てきた。開くと、星蜜漬けの干し月林檎が三粒。私の好物だ。
「夜明け前、厨房から持ってきた。食べろ。腹の子が空かせているはずだ」
「いつの間に」
「昨夜、眠れなかったので、厨房で星蜜の鍋を見張っていた」
それは見張りではなくて、つまみ食いの待ち伏せでは。そう思ったけれど、口に入れた月林檎は、泣きたくなるほど甘かった。
「陛下の御前ですよ」
「構わん。私の妻だ」
陛下が、玉座の上で、咳払いをして目をそらした。
残されたミレイユとカティアは、膝をついたまま動かない。
陛下は、玉座から二人を見下ろした。
「顔を上げよ」
誰も、顔を上げなかった。
「謀反人の妃だ。夫の罪は、妃も負う。ルドヴィクと同じ地下牢へ連れていけ」
その一言で、カティアの肩が小さく跳ねた。けれど声はなかった。涙も出ない。つい三日前まで、第四王子の側妃として屋敷にいた人とは思えない。
騎士が二人の腕を取った。
引かれていく通路は、私の立っている場所のすぐ脇を通る。
シルヴェスターが、そっと私の背に手を添えた。
「下がるか」
「いいえ」
私は首を振った。
「ここで、見ます」
足音が近づく。鎖の擦れる音。そして、血のにじんだ素足が石の床を打つ、湿った音。
ミレイユが、私の前で足を止めた。
騎士が引こうとしたけれど、ミレイユはその手に逆らって、顔を上げた。
頬がこけていた。唇は乾いて割れている。ついこのあいだまで、人前では「お姉さま♪」と甘く笑っていた妹の顔だった。今は、十六の少女の面影も、戻ってきた人の冷たさもない。ただ、疲れ果てた女が、そこにいた。
「お姉さま……」
掠れた声だった。
何か、言うべきだった。罵ってもよかった。「いい気味」と言ってもよかった。前の私が殺された夜を、数えあげてもよかった。
けれど、唇が動かない。
目の前にいるのは、前の私を笑って見下ろした妹だ。同時に、辺境の館の扉の向こうで何があったかを、私は知らない。知りたくもない。
ミレイユは、私の沈黙を見て、小さく口の端を持ち上げた。
「何も言わないのね。お姉さまらしいわ」
ミレイユは、泥だらけの懐に手を入れた。騎士が剣に手をかけたのを、私は目で制した。
出てきたのは、手のひらほどの小さな布包みだった。ぐしゃりと潰れた焼き菓子が、半分だけ入っている。甘い匂いに混じって、かすかに薬草の苦みが鼻を刺した。
茶会の日、イゾルデ様がこの手で私に勧めた菓子だ。
「約束の、証拠よ」
ミレイユは、それを私の手のひらにのせた。指先が、氷のように冷たい。
「ずっと、持っていたの。辺境でも、あの館でも、取り上げられそうになっても、離さなかった」
「どうして」
「約束は、約束でしょう。私が持っているものなんて、もうこれしかなかったのよ」
ミレイユは薄く笑った。
「私、お姉さまとは違うけれど。それだけは、守ったわ」
シルヴェスターが、私の手から菓子の包みを受け取り、近衛の長に渡した。
「これを鑑定に回せ。最後の証拠だ」
「はっ」
騎士が頷く。ミレイユは、それを見届けて、ふっと肩の力を抜いた。
その横で、カティアが顔を伏せたまま、小さく呟いた。
「奥様に、お仕えしていたころに戻りたい」
誰に向けた言葉でもなかった。ミレイユが、横目でカティアを見る。二人の視線はぶつからず、すれ違った。
「行け」
騎士の声に押されて、二人の足がまた動きだす。
廊下の両側で、貴族たちが小声で囁きあう。「あれが、王子妃になるはずだった」「あの泥のドレスを見ろ」。憐れみより先に、好奇の目が二人に刺さる。ミレイユは、かつてなら顔を真っ赤にして言い返しただろう。今は何も聞こえないふりで、ただ前だけを見ていた。
私は、その後ろ姿を見送った。ミレイユの肩が、思っていたよりずっと細いことに、今になって気づく。
「アマリア」
シルヴェスターが、私の手を握った。
「お前が背負うことではない」
「はい。わかっています」
お腹の子が、内側からとん、と私を蹴った。まるで、いってらっしゃい、と言うように。
わかっている。わかっているのに、足が勝手に動いた。私は、陛下に深く礼をして、地下へ続く階段の入口まで、二人の後を追った。
石段は、らせんを描いて地の底へ続いていた。壁に掛かるたいまつが、ひとつ、またひとつと数えるほど心もとない。すぐ後ろから、シルヴェスターの足音がついてくる。私が止まれば止まり、進めば進む。何も言わない。それがありがたかった。
湿った風が、石段の下から吹き上げてくる。
その底に、鉄格子の扉が見えた。奥には、鎖につながれたルドヴィク殿下の影がある。
殿下の顔が、こちらを向いた。
「ミレイユ。カティア。お前たち、なぜここに」
声がして、ミレイユとカティアは、背中を押されるまま、その中へ入っていく。
殿下は、二人を見るなり、顔を歪めた。助けに来たとでも思ったのだろうか。それとも、何か文句を言うつもりだったのか。口を開いたまま、言葉は出てこなかった。
騎士の手が、重い鉄の扉に掛かった。
ぎい、と蝶番が鳴る。
がちゃん。
三人の姿が、闇に呑まれた。
鉄の扉の閉まる音が、いつまでも耳に残った。




