第30話 竜が頭を下げない夫との結婚は、無効です
◇ルドヴィク◇
何が起きたのか、わからなかった。
手首に、縄。きつく、二重に巻かれている。ブランシュの手が、縄の端を握っていた。
ただの縄ではなかった。
白銀色に、ぼうっと光っている。よく見ると、細い糸が何百本も編みこまれていた。竜のたてがみだ。編み目のすきまに、青い魔紋が、脈を打つように浮かんでは消える。
振りほどこうと、腕に力をこめた。
その瞬間、縄がぎゅっと締まった。もがけばもがくほど、食いこんでくる。指先から、すうっと力が抜けていく。腕が、自分のものでないように重い。
竜騎士団が、罪人を捕らえるときに使う「竜縛りの縄」。話には聞いたことがあった。竜の力で編まれた縄は、どんな剛力の男も、どんな魔法使いも、ほどくことができない、と。
「何の真似だ、ブランシュ」
声が出た。思ったより、かすれていた。
「殿下は、竜騎士の誓いをご存じないのですね」
ブランシュは、静かだった。
笑っていない。怒ってもいない。剣の手入れでもするように、淡々としている。
「竜が頭を下げぬ者を、私たちは夫とは呼びません。婚礼の日、ネージュは殿下に頭を下げませんでした。竜騎士団の掟では、この結婚は、最初から無効です」
「無効……?」
「はい。私は殿下の妻ではございません」
耳の奥が、ぐわんと鳴った。
「何を言っている。あの日、竜は私を見極めたと、将軍が」
「見極めた結果、頭を下げなかった、ということです」
背筋に、冷たいものが走る。
「私は陛下の命で、殿下を見張るために嫁ぎました。殿下の動きは、すべて陛下にお伝えしてあります」
「見張る……? 裏切ったのか!」
「裏切りではありません。私の主は、最初から陛下です」
ブランシュは、一歩近づいた。
「それに、殿下。側妃のお二人を、荷物のように貸し出されたと聞きました。竜は、人を物のように扱う者に、頭を下げません」
「あいつらは俺のものだ! 俺の妃だ! 俺がどう使おうと」
「いいえ。陛下の臣民です」
淡々とした声が、刃のように刺さった。
目の前が赤くなった。
かっと頭に血がのぼった。母上が選んだ女。竜騎士団の長の孫。いちばん使える駒のはずだったのに。
「竜騎士ども! 何をしている! この女を捕らえろ!」
庭に並ぶ竜騎士たちに向かって叫んだ。
誰も、動かなかった。
隊長が、一歩、前に出る。そして、ブランシュに向かって深く礼をした。
「ブランシュ様」
ブランシュは軽くうなずいた。
「殿下に従う竜騎士は、一人もおりません。我らは、竜が頭を下げる方にだけ従うのです」
竜たちが、いっせいに首を巡らせた。
背中を向けた。
巨大な尾が、庭の砂利を一斉になぎ払う。その音が、嘲笑のように響いた。
「そ、そんな。嘘だ」
「ルドヴィク!」
母上が悲鳴を上げた。
「何を、何をしているの! 衛兵! わたくしの兵はどこ!」
母上の連れてきた私兵が、庭の外で剣を投げ出す音がした。
ならば、まだ手はある。
口が勝手に動いた。
「ミレイユ! カティア! 出てこい! お前たちを人質に」
屋敷の中はしんとして、返事はなかった。
そうだ。
あの二人は、いない。
俺が、バルテン卿に貸し出したのだ。
「バルテン卿の兵が来る! 三千だぞ! まもなく」
「バルテン卿は、昨夜、陛下に使いを出しておられます」
ブランシュは冷たく告げた。
「兵は一人も動いておりません。王弟邸へ向かわせた二頭の竜も、すでに私の部下が押さえました。王弟妃殿下は、無事です」
足から力が抜けて、膝から崩れ落ちた。冷たい石の粒が、礼服を通して肌に食いこむ。歯の根が合わず、かちかちと音が鳴る。誰も、笑わなかった。笑われるより、ずっとみじめだった。
ざあっと、正門が開く音がした。
いや、開いたのではない。鉄の門が一瞬で白く凍りつき、次の瞬間、砕け散った。氷の欠片が月明かりに舞う。蹄の音が地面を揺らした。松明の群れがなだれこんでくる。第一王子派の騎士たち。その先頭に、黒い鎧の男。
シルヴェスター。
叔父上だ。
「叔父上!」
俺は叫んだ。
「叔父上、これは誤解です! ブランシュが俺を陥れた! 竜騎士どもが勝手に」
叔父上の肩に、手のひらほどの小竜がとまっていた。伝書の小竜だ。口にくわえた小さな筒を、叔父上が受け取って、開く。
読み終えた叔父上の手が、わずかに震えた。足もとの砂利が、ぱきぱきと凍っていく。
「アマリアは無事だ。刺客が六人、屋敷に入ったそうだ」
刺客。
母上の肩が、びくりと跳ねた。
「全員、妻の機転で眠らされ、ユリウスが捕らえた。腹の子も、無事だと」
叔父上の声は静かだった。静かなほど、庭の空気が冷えていく。俺の吐く息が、白くなった。
「刺客の短刀には、イゾルデ殿の宮の紋が入っているそうだな」
「し、知らない! わたくしは何も知らない!」
「まだ何も聞いていない」
母上の口が、ぱくぱくと動いた。
「甥よ」
叔父上は、剣を抜かなかった。ただ、俺の前に立った。
「私の妻を、叔母上と呼んだ口で、よく謀反を語ったな」
「あれは、あの女が勝手に、家の力を」
「黙れ」
叔父上は、一歩、俺に近づいた。
「ひとつだけ教えてやる。お前が『お前』と呼んだ娘は、国ひとつを動かせる頭を持っていた。お前は、それを手に入れそこなったのではない。自分で手放したのだ」
「何の話だ。わけがわからん」
「わからなくていい。わからぬまま、縄を受けろ」
叔父上の目は、氷だった。声は低く、静かだった。氷の大公。その名が、初めて背筋に染みた。
「お前が私の妻を軽んじるたびに、私は、手を出さずにいた。甥だからだ。だが今夜、その必要はない」
叔父上が手を挙げた。
騎士たちが俺の両脇をつかむ。鎧の金具が、ぎしりと鳴った。
「放せ! 俺は王になるんだ! 放せ!」
「母上!」
母上の黒いバイコーンの馬車は、庭のすみで横倒しになっていた。御者が逃げ、獣は暴れて、気づけば誰も手綱を握っていない。あの獣さえ、主人を見捨てたのだ。
母上は、四人の騎士に囲まれていた。髪を振り乱し、赤いドレスを破られ、髪飾りが地面に落ちた。
「いやあ! 触らないで! わたくしは、王の側妃よ!」
「イゾルデ殿」
叔父上が言った。
「兄上の御子、第一王子に毒を盛った罪は、すでに明るみに出ている」
「違う! わたくしは、何もしていない! ヨランダよ! あの女が勝手に毒を!」
「ほう」
叔父上の眉が、ほんのわずか動いた。
「ヨランダの毒の出どころが、あなたの宮の薬師であることは、すでに口を割った者がおります。お手数ですが、玉座の前で、もう一度」
「やめて、触らないで、ルドヴィク、ルドヴィク!」
母上の悲鳴が、庭の夜気を裂いた。
俺は唇を噛んだ。
母上は、いつもそうだった。俺のために、と言いながら、いつも自分のために動く人だった。それを、今になって気づくなんて。
母上の目が、俺を見た。助けを求めて。
俺には、何もできなかった。
縄を引かれて、庭を歩かされる。ふと振り返ると、ネージュが首をもたげて、俺をじっと見ていた。金色の目に、憐れみすら浮かんでいない。ただの、足もとの石ころを見る目だった。
踏み荒らされた花壇の花が、足の下で潰れた。竜たちが両側に並び、俺たちを見下ろしていた。
金色の目。誰も、頭を下げなかった。
「歩け、甥よ」
叔父上が背中で言った。
「妻が、待っている。手短にしたい」
屋敷の門が、遠ざかっていく。
夜空の星が、やけに近かった。
昨日まで、この庭は俺のものだった。この屋敷も、竜も、女たちも。
いま俺の手元に残っているのは、手首の縄一本だけだ。
俺は、王になる夜を迎えたはずだった。
縄をかけられたまま、俺と母上は、夜明け前の王宮へ引かれていく。玉座の前へ。




