第29話 竜が舞い降りる夜
反逆の夜。
私は、王弟邸の居間の暖炉の前に座らされていた。
「ここから出てはいけない」
鎧に身を包んだシルヴェスターが、跪いて私の両手を握った。
「第一王子殿下の騎士たちと、王子邸の外で待つ。ブランシュが合図を出したら、突入する。お前は、ここで待て」
「私も行きたいのですけれど」
「身重だ」
「わかっています。ですから、こうして座っています」
「アマリア」
シルヴェスターの額が、私の額に重なった。
「お前と腹の子が無事なら、私はそれだけでいい。頼む、約束してくれ」
「約束します。ただし、お帰りになったら、怪我の手当ては私がします」
「それは約束できない」
「どうして」
「怪我をするつもりがない」
思わず笑ってしまった。
シルヴェスターは私の額に口づけを落とし、立ち上がる。扉の前で、振り向いた。
「ユリウス、イレーネ。頼んだぞ」
「お任せを、義兄上。この屋敷には、ネズミ一匹入れません」
ユリウスが胸を叩いた。腰の剣が、頼もしく鳴った。
窓の外には、シルヴェスターの騎士が十人、門と庭に立っている。屋根の上では、氷の紋章を刻んだ見張りの小竜が丸まって、ちりりと鈴を鳴らした。この屋敷を守る目は、数えきれない。それでも、私は小さな巾着を、膝の上に置いた。
祖父からの懐妊祝い。中には、黒い小さな丸薬が入っている。眠り薬の香だ。
「火にくべれば、吸った者は半刻、起きられなくなる。ただし、わしの孫は先に濡れ布で鼻と口をおおいなさい。でないと、自分まで寝てしまうでな」
祖父はそう言って、にやりと笑っていた。
「イレーネ。水に浸した布を、三枚、用意してくれる?」
「布、でございますか」
「念のために」
足音が遠ざかる。庭から馬のいななきが響き、やがて静かになった。
居間に、暖炉の火の音だけが残る。
イレーネが、膝掛けを私の足にかけてくれた。
「奥様。手が冷たいです」
「そうかしら」
「震えていらっしゃいます」
言われて、初めて気づいた。膝の上で、指が小さく震えている。
怖いのだ。あの夜の、ルドヴィク殿下の剣が。胸の熱さが。
そのとき、お腹の中で、とん、と小さく何かが蹴った。
「あ」
「奥様?」
「蹴ったわ。今夜は、いつもより強く」
イレーネが目を丸くして、それから、ぱっと顔を輝かせた。
「きっと、お父上を応援しているんですよ!」
「ふふ。気の早い子ね」
お腹に手を当てる。もう一度、とん。力強い。
大丈夫。前の私は、ひとりだった。今の私には、この子がいる。弟がいる。侍女がいる。帰ってくると言った人がいる。
震えは、いつのまにか止まっていた。
「姉上、雲苺の茶でも飲む?」
「いただくわ。薄めにして」
「ねえ、姉上」
ユリウスが、湯をわかしながら言った。
「姉上ってさ、ときどき、すごく遠いところを見てるよね。俺には何も話してくれないけど」
「ユリウス」
「でも今は、暖炉の前にいる。それだけで、俺は十分」
言葉が詰まって、私は膝の上の手を握りしめた。
窓の外、遠い空のほうから、低い羽音が響いてくる。竜騎士団が、王子邸へ向かう音だ。
それが遠ざかったあとの静けさに、別の音が混じった。
屋根の上で、見張りの小竜が、ぴいっと鋭く鳴いた。
鈴が、ちりりと止まる。
「ユリウス」
「聞こえた。姉上、暖炉の後ろへ」
ユリウスが剣を抜いたと同時に、窓のガラスが砕け散った。
黒い影が三つ、床に転がり込む。覆面に黒装束。手には短い刃物。その後ろから、扉を蹴破って、さらに二人。
「奥方様、お命ちょうだいする」
先頭の男が、低くつぶやいた。目が、まっすぐ私のお腹を見ている。
「腹の子ごと、静かにさせろと、命じられている」
誰に、とは聞かなくてもわかった。茶会の天幕で、銀の皿を差し出した、あの赤い扇の持ち主だ。
背筋が凍った。前の人生で、胸に剣が入った熱さが、一瞬よみがえる。
けれど、体は動いた。
「ユリウス! 濡れ布を!」
私は巾着の丸薬を、暖炉の火へ放り込み、同時に布で鼻と口をおおった。イレーネも布を押さえて、私の前に飛び出す。暖炉の火が、ぼうっと白い煙を吐いた。
甘い、眠たくなる匂いが、一気に広がる。
「何だ、この煙は」
「息を止めろ!」
遅い。
先頭の男の膝が、がくんと折れた。次の男は、短刃を握ったまま壁に頭をもたせ、そのままずるりと座り込む。三人目は、四歩進んだところで、床に倒れた。扉口の二人も、ふらつきながら崩れていく。
最後の一人だけが、煙の外にいた。窓の外から、屋根づたいに回ってきたらしい。
「その腹を、よこせえっ」
刃が、私に向かって振り下ろされる。
金属の音が、鼓膜を叩いた。
ユリウスの剣が、刺客の刃を受け止めていた。
「姉上には、指一本触れさせない」
ユリウスの背中が、私の前に立っていた。
「今度こそ」
その言葉は、ユリウス自身の口から出たのに、ユリウス自身が驚いた顔をしていた。
「あれ。今度こそ、って。何でだろう。俺、何を言ってるんだ」
「ユリウス」
喉の奥が、熱くなる。前の人生で、ユリウスは私をかばって斬られた。覚えていないのに、体が覚えている。
刺客が、ユリウスの剣を押し返した。だが、ユリウスは動かない。力で押す相手を、足で払って、剣の柄で顎を打つ。刺客が壁に叩きつけられて、床に伸びた。
門の騎士たちがなだれこんでくるのと同時に、屋根の小竜が、勝ち誇ったように鳴いた。
「姉上、怪我は」
「ないわ。煙を吸わせた、お祖父さまの丸薬のおかげ」
六人の刺客は、全員、縄をかけられた。
私は、お腹に手を当てた。とん、とん、と、小さな足が、力強く蹴る。
「大丈夫。お母さまは、強いから」
イレーネが半泣きで私に抱きついた。濡れ布を握った手が、ぶるぶる震えている。
刺客の覆面を剥いだ騎士が、顔を上げた。
「ユリウス様。こいつら、イゾルデ様の宮の紋入りの短刀を持っています」
ユリウスが、拳を握りしめた。
窓の外に、竜の群れが、王子邸の空へ飛んでいく。あの先で、シルヴェスターが戦っている。
どうか、無事で。
◇ルドヴィク◇
見事だった。
夜空を黒く埋めて、竜が降りてくる。一頭、また一頭。俺の屋敷の庭に、巨大な翼が風を巻く。花壇が潰れ、噴水が割れる。構うものか。
これが竜騎士団。この国最強の軍。
俺の軍だ。
「殿下! 全員、整列を終えました!」
竜騎士の隊長が駆け寄ってくる。鱗のついた鎧が、月の光を弾いた。
「よし。夜明け前に王宮を囲む。父上には、退位を迫る」
父上。あの老いぼれは、兄を指名した。俺ではなく、病弱な兄を。
母上の言うとおりだった。この国は、正しい者が玉座に座るのではない。強い者が座るのだ。
勝てる。
勝って、俺は王になる。そうしたら、まず何をしようか。
叔父上を北の辺境へ飛ばす。あの生意気な叔母も一緒だ。いや、あの女は、一度ここに呼びつけて、膝をつかせてやろう。「叔母上」などと呼ばされた屈辱を、百倍にして返してやる。
あの女は、本来なら俺の妃になるはずだった。家柄も、頭の回転も、俺のものになるはずだった。それを叔父上に横取りされた。取り戻すだけだ。
ミレイユのような安い女とは、格が違う。あの女を妃に迎えれば、俺の治世は、金の百合のように咲き誇るだろう。
「ルドヴィク!」
母上の黒いバイコーンの馬車が、御者の鞭に追われて、門をくぐって入ってきた。
赤いドレスの裾を持ち上げて、母上が車から降りる。顔が輝いている。ここ数日で、見たことのない顔だ。
「見事だわ、ルドヴィク。母は、この日をずっと待っていました」
「母上。すべて、予定どおりです」
「ああ、わたくしの王。あなたがかぶる冠を、わたくしは見たいの」
母上が俺の頬を撫でた。冷たい指。それでも、うれしかった。
「それでね、ルドヴィク。叔父上の屋敷には、竜を二頭回してあるのでしょう?」
「はい。身重の叔母上を、保護するために」
「保護、ね。いい言葉だわ」
母上は、扇の影で、うっとりと笑った。
「あの小娘の腹の子が産声を上げる前に、わたくしの前に連れていらっしゃい。あの小娘にも、わたくしの茶菓子を、ぜひ食べていただかなくては」
背筋を、薄い寒気がなぞった。
母上の笑顔は、昔から変わらない。変わらないから、これまで考えたこともなかった。
母上は、いつから、こんなに楽しそうに人を殺せる人だったのだろう。
まあいい。勝てば、すべて許される。
後ろから、辺境のバルテン卿の使者が到着の知らせを持ってくるはずだ。三千の兵と一緒に。そのために、あの二人を送ったのだ。
ミレイユにも、カティアにも、少しは役に立ってもらった。
もう、顔も思い出せないが。
庭の最後に、ひときわ大きな風が吹いた。
月を背にして、白い竜が降りてくる。
ネージュ。ブランシュの竜。
鱗が、銀色に光っている。翼を折りたたんで着地すると、庭の砂利が音を立てて飛んだ。
ブランシュが鞍から降りた。青い外套を風になびかせて、まっすぐこちらへ歩いてくる。
背筋を、きれいに伸ばして。
美しい、と素直に思った。
あの女を妻にしたのは、正解だった。竜騎士団ごと手に入れた。俺の未来は、これで万全だ。
俺は右手を差し出した。
「来たか、我が王妃」
ブランシュは、俺の手を見た。
それから、にこりともせずに、自分の腰に手をやった。
取り出したのは、白い縄。
次の瞬間、俺の手首に、縄が巻きついていた。




