第28話 三日が、三年に思えた
◇ミレイユ◇
馬車の窓に、板が打ちつけてあった。
隙間から、光が細い糸のように入ってくる。揺れるたびに、糸が床の上で踊る。
引いているのは、六本足のトカゲ、地竜だ。鈍くて力だけは強い魔獣で、荷を運ぶのに使われる。私の乗り物が、天馬でも一角獣でもなく、荷物用の地竜。そのことが、もう答えだった。
向かいの席には、カティアが座っていた。
去年まで、私の侍女だった女。髪を結わせ、靴を揃えさせ、顔を見もせずに怒鳴りつけていた女。
「あなたの手紙は、届いたかしら」
カティアが言った。
「何の話」
「とぼけなくても。昨夜、ずっと書いていたでしょう。あの甘ったれの殿下から、逃げ出すために」
返事ができなかった。
今朝、廊下で出くわしたルドヴィク殿下は、こう言った。
「ああ、お前たち。今日から三日、辺境のバルテン卿の館へ行ってもらう。卿が兵三千を出してくれる条件だ。お前たちは、愛想よくしていればいい」
愛想よく。
その意味を、私が理解できないほど、愚かだと思われていたのだろうか。
「殿下、それは」
「何だ。不満か。これまで屋敷の飯を食わせてやったんだ。少しは役に立て」
「私は、あなたの妃です!」
「妃? お前は妾の娘だろう。母親そっくりに、人に取り入るのだけはうまい。その特技を、今度は国のために使えばいい」
殿下は、あくびまじりに笑った。
「ああ、帰ってこなくてもいいぞ。三日たって戻れたら、また飼ってやる」
あの目だった。用済みの物を見る目。
泣きわめいても、爪を立てても、見張りの兵に腕を取られた。引きずられるように、この馬車に押しこまれた。
「あなた、よく平気な顔をしていられるわね」
カティアが、窓の板のほうへ顔を向けたまま言った。
「私は平気じゃないわ。吐きそう」
「そう。でも私は、もっとひどい」
「あれは、あなたが勝手に落ちたのよ」
「それを言うの? 私の子を、階段から突き落とした人が」
カティアが振り向いた。
大きな目に、涙は浮かんでいない。かわりに、ひどく乾いた光があった。
「私ね、毎晩、壁ごしにあなたの泣き声を聞いていたの。いつか枕を押しつけてやろうと思いながら」
「……やればいいじゃない」
「やらないわ。もう、どうでもいいの」
カティアの唇が、ゆがんだ。
「あなたも、私も、殿下に売られた荷物よ。同じ荷物同士、喧嘩するのも馬鹿らしい」
「ねえ、ミレイユ様」
わざと「様」をつけて、カティアが呼ぶ。
「あなた、お姉さまに手紙を書いたでしょう」
「どうして知っているの」
「夜中じゅう、灯りがついていたもの。紙を破る音も、ずっと聞こえていたわ」
「届いたかも、わからないのに」
「届いたとして、来てくださるかしら。あの方が」
私は答えなかった。
お姉さまが、来るはずがない。来てほしいなんて、思ってもいない。
そう思おうとして、膝の上の手が震えた。
荷物。
言葉が、胸に突き刺さった。
一周目、私は王妃になった。そのとき私は、確かにあの男に愛されていると信じていた。信じていたかった。
でも、本当は。
私も、お姉さまと同じように、荷物だったのだ。
馬車が止まった。
扉が開く。山の風が吹きこんだ。目の前に、石造りの古い館が立っている。灰色の壁に、蔦がびっしり這っていた。
迎えに出たのは、白髪の召使いたち。誰も、私たちの目を見ない。
玄関の脇には、黒ずんだ魔獣の角が飾られていた。魔石灯は壊れたまま、薄暗い。ここの主人が、客を迎える気などないことは、それだけでわかった。
館の主は、六十を過ぎた老人だった。かつてこの辺境を治めていた王の血を引くと聞いた。手に酒の杯を持ち、舐めるように私たちを見ている。
「ようこそ。王子殿下のお心づかい、ありがたく」
「あなたが、バルテン卿」
「いかにも。長旅でお疲れでしょう。まず、わしがおもてなしを」
老人の指が、ゆっくりと私の顎に伸びた。
「やめて。私は、王子の妃よ」
「ええ、ええ。だからこそ、お預かりしたのです」
卿は、懐から一枚の紙を取り出した。殿下の署名が入った、預かり証だった。
「女二名、確かに三日間お預かりいたす。壊れても返却不要」
そう読み上げて、卿は声を立てて笑った。紙が、ひらひらと揺れた。
壊れても、返却不要。
老人の笑い声が、歯のあいだから漏れた。
預かる。貸す。壊れる。
お姉さまに、媚薬を倍の量で飲ませたのは、私だ。壊れてもかまわないと思った。壊れたお姉さまを、側妃として一生飼ってやるつもりだった。
壊れる、というのは、こういうことだったのか。
私は初めて、自分が「物」として扱われているのだと、骨のところで理解した。
カティアの手が、私の袖をつかんだ。
その指が、ひどく冷たかった。
私は、足を踏み出した。
背後で、重い扉が閉まった。
がちゃり、と鍵の落ちる音。
*
三日が、三年に思えた。
朝になると、扉の下から固いパンと水が差し入れられた。
どちらも、手をつけなかった。
老人の笑い声が、遠い広間から、時折ひびいてきた。杯の割れる音。召使いたちのひそひそ声。ここに、私たちの味方は、一人もいない。
誰も、助けに来ない。
お姉さまが来るわけがない。あんなに、ひどいことをしたのだもの。
それなのに、夜になるたび、窓の外の闇に向かって、私は考えていた。
来て、とは言えない。でも、もし来てくれたら。
その先は、いつも考えるのをやめた。
朝は、冷たい水で顔を洗った。水がめに映った自分の顔は、知らない女のものだった。髪は乱れて、目の下は黒く沈んでいた。
窓の外には、ときおり黒い翼が横切った。バルテン卿の飼う影鷹だ。逃げようとすれば、あれが追う。そう教えられた。逃げ道は、空にさえなかった。
カティアは、部屋の隅で膝を抱えていた。口を、ずっときつく結んでいる。一度だけ、「ごめん」とも聞こえる声で、何かつぶやいた。何に対する言葉だったのか、聞き返さなかった。
私も、何も言わなかった。
夜になると、遠くの廊下で笛のような風の音がして、そのたびにカティアが肩を揺らした。
二日目の夜、カティアが固いパンを半分に割って、黙って私の膝に置いた。
「食べなさい。倒れたら、憎む相手がいなくなるわ」
かじると、塩の味がした。涙の味だったかもしれない。
食事は運ばれてきた。味はしなかった。スープの湯気だけが、妙にあたたかくて、それが余計に惨めだった。
どんなに叫んでも、館の誰も扉を開けない。扉の向こうは、別の世界みたいに静かだった。
三日目の夜。
廊下の見張りが、酔って寝入った隙に、私は窓に飛びついた。板の隙間から、夜空が見える。
山の稜線の向こうが、わずかに白んでいる。
違う。白んでいるのではない。
星のあいだを、黒い影が横切っていく。
一つ、二つ、五つ、十。
翼だ。
竜の群れが、静かな夜空を、南へ。王都のある方向へ。
隊列を組んで飛ぶ、竜騎士団。その先頭に、ひときわ大きな白い竜が見えた。
私は、窓枠に額を押しつけた。
涙は出なかった。笑うのも、おかしい。
ただ、胸の奥から、何かが静かにこぼれていった。
「殿下」
喉の奥から、枯れた声が出る。
「あなたが王になる夜に、私は、ここにいるのね」




