第27話 助けて、お姉さま
朝の食卓に、見慣れない手紙が一通のっていた。
門番が言うには、使いに出た子どもが、銅貨一枚と引き換えに置いていったという。宛名は、私。
封を切って、一行目を見た瞬間、手が止まった。
「どうした」
シルヴェスターが、顔を上げた。
「ミレイユからです」
紙を広げ、声に出して読んだ。
「助けて、お姉さま。殿下が謀反を起こします。三日後の夜、竜騎士団を使って王宮を襲うと決めました。私は殺されます。そう言われました。私を逃がしてくれたら、イゾルデ様の毒の証拠を渡します。今日の夕暮れ、北の礼拝堂で待ちます。誰にも言わないで」
読み終えても、誰もしゃべらなかった。
ユリウスが、真っ先に口を開いた。
「罠でしょう、姉上。あの女が、姉上に助けを求めるはずがない。礼拝堂に行ったら、何が待っているか」
「そうかもしれない」
「かもしれない、じゃなくて」
「でも」
私は、手紙をもう一度見た。
筆跡は、確かにミレイユのもの。ただし、普段のきれいな文字ではない。線が震えている。最後の「お姉さま」だけ、紙が破れそうなほど、強く書き込まれていた。
一周目で私を殺した、妹。
私の血を浴びながら、ハンカチで頬を拭いて、笑った顔。
忘れていない。許してもいない。
長いあいだ、殿下の椅子を温めてくださって。あの声が、今も耳の奥にある。
それなのに、手紙の紙は、何度も握りしめたように皺だらけだった。
「シルヴェスター様。私は、妹を許すために行くのではありません」
「では、何のためだ」
「決着をつけるためです。前の私が殺されたのは、あの子の手のひらの上でした。今度は、私の目で、あの子の顔を見たいのです」
ユリウスが、ばつの悪そうな顔で頭をかいた。
「姉上がそう言うなら、俺はもう止めませんよ。でも、姉上の髪の毛一本でも傷ついたら、あの女を、骨まで燃やします」
「物騒ね」
「義兄上の口ぐせがうつりました」
「アマリア」
シルヴェスターが、静かに私の肩に手を置いた。
「無理に行かなくていい」
「わかっています」
「行かないほうが、私は嬉しい」
「でも、シルヴェスター様。罠でないなら、毒の出どころの動かぬ証拠が手に入ります。イゾルデ様を、確実に裁けます。罠なら、受けて立つだけです」
「お前の身重の体を、罠に差し出せというのか」
「差し出しません。守っていただきます」
シルヴェスターの目が、私をじっと見た。
長い、長い間があった。
「……わかった。ただし条件がある。礼拝堂には、ユリウスと十人の騎士を先に潜ませる。お前は、決して一人にならない」
「はい」
「何かあれば、すぐに引け」
「はい、約束します」
シルヴェスターは大きく息を吐いた。
「それと、アマリア。ひとつ、わがままを言わせてくれ」
「何でしょう」
「戻ったら、まず私に顔を見せろ。報告はそのあとでいい」
「顔を見せるだけで、よろしいのですか」
「それだけで、私の寿命が三年延びる」
真顔で言うのだから、困る。胸の奥があたたかくなって、不覚にも、少しだけ迷いが軽くなった。
「お前の強情さは、誰に似たんだ」
「旦那様に似たのでは? 夫婦は似ると申しますから」
「……夫婦、か」
殿下は、その言葉を口の中で転がすように、もう一度つぶやいた。
「悪くない」
笑い合っていると、台所のほうから、星蜜の甘い匂いが漂ってきた。いつのまにか、料理人が星蜜漬けの干し月林檎を包んでいたらしい。
「持っていけ。お前の好物だ。腹が空いては、戦はできん」
「戦ではなく、話し合いです」
「お前が行く場所は、どこでも戦場だ」
シルヴェスターは、干し月林檎の包みを私の懐に押しこみ、そのまま襟もとの飾り紐をきゅっと結び直した。指が、少しだけ首筋をかすめた。くすぐったくて、肩がすくむ。
「寒くないか」
「まだ昼です」
「夕刻には冷える」
昼下がり。庭に、白い影が降り立った。
ブランシュだ。竜から降りるなり、膝をついて報告した。
「昨日の指名の後、殿下に命じられました。三日後の夜、竜騎士団の全員を、王子邸の庭に集めよと。『私が王になる』と」
「謀反ね」
「はい。王宮を制圧し、陛下に譲位を迫るつもりのようです。私の祖父には、すでに陛下が知らせてあります」
シルヴェスターが腕を組んだ。
「陛下は、何と」
「『縄がしっかり締まるまで、泳がせよ』と」
「いつものことだ。兄上は、見ていないふりをして、すべてを見ている」
ブランシュが、私のほうを向いた。
「王弟妃殿下。あさっての夜、私は殿下の手を取るふりをします。そのとき、必ず」
「縄を」
「はい。ご心配なく。竜は、殿下に従いません」
力強い目だった。
夕暮れ。
礼拝堂へは、天馬車で向かった。ロートリンゲン家の馬車を使えば一角獣が引くけれど、今日は王弟家の銀の車体だ。窓の外を、茜色の雲が流れていく。
向かいの席から、シルヴェスターが、黙って私の手を取った。大きな手のひらが、私の指をすっぽり包む。
「氷の魔法を使う人の手は、冷たいと思っていました」
「冷たいか」
「いいえ。あたたかいです」
「お前に触れるときだけだ。いつもは冷たい」
「ずるいです」
「知っている」
礼拝堂の少し手前で馬車が降りた。殿下は、最後まで手を離さなかった。ここから先、殿下は丘の下で待つ。礼拝堂の中には、先に潜んだユリウスと騎士たちがいる。それが約束だった。
「アマリア」
「はい」
「戻ってきたら、まず私に顔を見せろ」
「何度目のお願いですか」
「何度でも言う」
ああ、この人は、本当に怖いのだ。氷の槍を振るう大公が、妻の背中を見送るだけで、指先を震わせている。
私は殿下の手の甲に、そっと唇を当てた。
「三つ数える間に、戻ります」
殿下の目が、まん丸になった。耳の先が、赤い。
背を向けて、礼拝堂へ歩き出す。後ろで、小さな声が聞こえた。
「……二つにしろ」
北の礼拝堂は、街のはずれの丘にあった。苔の生えた石の壁。割れたステンドグラス。冷たい風が通り抜ける。
私は祭壇の前に立っていた。
後ろの暗がりに、ユリウスが隠れている。十人の騎士が、柱の陰、鐘楼の上、あちこちに潜んでいる。
祭壇の蝋燭は、もう何年も灯されていないのだろう。ひびの入った石の聖母が、うつむいたまま、私を見ている。
この場所に、前の私は一度も来たことがなかった。ミレイユが、何を思ってここを選んだのかもわからない。
わかっているのは、お腹の子が、時々とんとんと動くことだけ。
「大丈夫よ。お母さまは、強いから」
小声でつぶやくと、背中の後ろで、ユリウスが小さく咳払いをした。聞こえていたらしい。
鐘の音が、鳴り終わった。
約束の刻限が過ぎる。
もうしばらく、待った。風が、石の隙間でうなる。
誰も来ない。
「姉上」
ユリウスが、暗がりから出てきた。
「やっぱり、罠だったんですよ。帰りましょう」
「いえ」
祭壇の脇にも、柱の陰にも、人が来た跡はなかった。足跡ひとつ、残っていない。
そこへ、馬の蹄の音が駆け込んできた。
イレーネだった。息を切らして、真っ赤な顔で飛びこんでくる。
「奥様! 大変です!」
「どうしたの」
「噂が、王子邸から」
イレーネは喉を鳴らして、一気に言った。
「今朝、北の門から、馬車が一台出ていったそうです。乗っていたのは、側妃のミレイユ様と、カティア様。殿下が『味方集めの見返りだ』とおっしゃって、辺境の貴族に、二人を貸し出したと」
貸し出した。
その言葉が、冷たい水のように、背中を伝った。
私の手の中で、ミレイユの手紙が、ぐしゃりと潰れた。




