第26話 側妃は全員、殺してもいい
◇ミレイユ◇
指名の夜。
屋敷じゅうが、お葬式みたいに静かだった。
魔石灯の青白い光が、廊下に長い影を引いている。厩では、黒いバイコーンが柵を蹴って、いやな声で鳴いていた。御者の鞭の音が、それを黙らせる。獣も人も、この屋敷では鞭で黙らされるのだ。
殿下は夕方から、ずっと自室に閉じこもっている。食事も取らない。侍従たちは、廊下の端で息をひそめていた。
私は、酒の盆を持って廊下を歩いていた。
殿下のために運ぶのは、これが最後でもいい、と思っていた。
私の手は、荒れている。正妃だったころには、一度も水仕事なんてしなかったのに。いまは「側妃は正妃の身の回りを手伝うもの」だそうで、ブランシュ様の服を畳み、湯を運ぶ。
カティアは何も言わない。ただ、毎朝私の顔を見て、小さく笑う。
あの階段で、お腹を抱えて「いや」と言った女。
笑われるたびに、爪が手のひらに食いこむ。
殿下の部屋の前に着いた。扉がわずかに開いて、灯りがもれている。
中から、声がした。
「あなたこそ、真の王妃だ」
殿下の声だ。いつもの、甘ったれた声ではなかった。ねっとりした、蜜のような響き。
ブランシュ様が、中にいる。
私は盆を持ったまま、足を止めた。
「竜騎士団の長の孫。竜に愛された方。私は、あなたに出会えて運がよかった」
「殿下。お言葉は、ありがたいのですが」
「あの二人は、母上が押しつけてきたのだ。身分が低くて、見栄えがするだけの女どもだ」
殿下が、くっくと喉で笑った。
「ミレイユなど、妾の腹から出た娘だぞ。王妃の座を狙うなど、笑わせる。肉屋の肉と同じだ。使える間に使い、傷んだら捨てる」
盆を持つ指が、白くなった。
「辺境のバルテン卿が、兵三千を出す見返りに女を寄越せと言ってきた。あの二人を三日ほど貸してやれば、卿も喜ぶ」
ブランシュ様は、答えなかった。
「ブランシュ殿。あなたの竜騎士団が動けば、王宮は三日で落ちる」
「三日、ですか」
「父上は老いた。兄上は病み上がりだ。王宮の衛兵など、竜の影を見ただけで武器を捨てる」
「竜騎士団は、陛下に忠誠を誓っております。殿下が陛下に弓を引かれるとなれば、竜が従うかどうか」
「だから、あなたを妃に迎えた」
殿下の声が、ねっとりと低くなる。
「竜はあなたの言うことなら聞く。あなたが私の味方でいてくれるなら、それで十分だ。ほかの者など」
ほかの者。
足もとが、冷たくなる。
「正妃の座に、あんな者が座っていたこと自体が間違いだった。あなたが目障りに思うなら」
血の気が、すうっと引いた。
ごくり、と喉が鳴る音がした。
自分の喉だと気づくまで、少しかかった。
「側妃は、全員、殺してもいい」
盆の上で、杯が小さく鳴った。
「ああ、ただし叔母上だけは別だ。あの女は、生かして連れてこい。俺の前で膝をつかせて、あの澄ました顔が泣くのを見たい」
殿下の声は、うっとりと弾んでいた。
私には、一度もそんな声を向けなかったくせに。
お姉さまだけは、どこまでいっても「特別」なのだ。憎まれてさえ。胸の底が、ねじれるように痛んだ。羨ましいのか、憎いのか、自分でもわからない。ただ、爪の跡がまた一つ、手のひらに増えた。
私は、動かなかった。動けなかった。
「その言葉、お約束と受け取ってよろしいのですね」
ブランシュ様の声は、変わらず静かだった。
「ああ。約束しよう。あなたが王妃になる夜に、屋敷は掃除してやる」
その声の調子を、私は、聞いたことがある。
頭の奥が、がん、と鳴った。
断片だった記憶が、一つに、くっついていく。
白い絹のドレス。金の百合。血のにおい。私の頬に、ぱっと散った、あたたかいもの。
あの夜。お姉さまは床に倒れて、私を見上げていた。そのとき殿下は、お姉さまに、同じ顔を向けていたのだ。
汚いものを見る目。
用済みの物を見る目。
私に向けられたことは、一度もなかった目。
ああ、そうか。
あれは、お姉さまだけに向けられた目じゃなかった。
「……私も」
声にならない声が、口の端からこぼれた。
「私も、次に捨てられる順番を、待っていただけだったのね」
足の力が抜けた。壁に背をつけて、ずるずると座りこむ。盆は、膝の上に置いた。
部屋の中から、笑い声が聞こえる。殿下の、うれしそうな笑い声。ブランシュ様の杯に、星葡萄の酒を注ぐ音まで聞こえた。私には、一度も注いでくださらなかった酒を。
闇の中から、足音が近づいた。
「そこで何をしているの」
カティアだった。寝間着に肩掛けをかけ、手には燭台。お腹に手を当てる癖は、まだ抜けていない。
「関係ないでしょう」
「ひどい顔色ね」
カティアの目が、半開きの扉の隙間を見た。耳をすませ、一瞬で察したらしい。唇の端が、ゆっくりと持ち上がる。
「そう。あなたも、聞いたの」
「あなたこそ」
「私は、とっくに知っていたわ。殿下にとって私たちは、使い捨ての布きれよ」
カティアは、燭台の火を、私の足もとにそっと置いた。
「泣くなら部屋で泣きなさい。ここだと、聞こえるわ」
それだけ言って、去っていく。足音が遠ざかるまで、私は動けなかった。
憎い女に、気づかわれた。それが、いちばんこたえた。
私の人生は、いったい何だったのだろう。
母は「公爵家の正妻になれなかった」女だった。私は、妾腹の娘と蔑まれて育った。同じ屋敷の、同じ父の娘なのに、いつも姉には引け目を感じて生きてきた。私は、母と違う場所に行きたかった。
だから、決めた。一番強い男を選んで、王妃になる。
公爵家の庭先で、お姉さまにだけ顔をすり寄せた一角獣。私が近づくと、あの白い獣は、角をこちらへ向けて鼻を鳴らした。獣にさえ、私は選ばれなかった。
一周目、私は王妃になった。その先は、ずっと霧の向こうだった。その霧が、いま、晴れていく。
王妃の椅子に座った私の隣で、殿下が見ていたのは、もう私ではなかった。
あの先に、幸せなんてなかった。
私が欲しかったものは、手に入れた瞬間に、色を失うものだったのだ。
そっと立ち上がる。
足音を殺して、廊下を引き返した。
部屋に戻ると、私は寝台の下の箱を引き出した。
中に、白いハンカチに包んだものがある。
イゾルデ様の茶会で、私が懐に入れたもの。星蜜の焼き菓子。夢見草の毒が練りこまれた、あの菓子。
あのとき、お姉さまの目の前の菓子が毒だと、私は一目でわかった。ヨランダ母様が母ドロテア様に盛っていたものと、同じ匂いだったから。気づけば、手が動いていた。
イゾルデ様は、いつか私にも、この菓子を勧めるだろう。そう思ったから。
あの女は、いつだって使い捨てる。ヨランダ母様も、結局は同じだった。
ハンカチごと、握りしめた。菓子は固くなって、指に刺さる。
机に向かい、筆を取る。
震える手で、一行目を書く。
書いては、破る。三枚、破った。
四枚目で、手が止まらなくなった。
窓の外では、月が雲に隠れていく。屋敷の庭では、見張りの竜騎士が交代する足音がした。
私は封をして、宛名を書いた。
憎くてたまらない人の名前を。
「王弟妃 アマリア様」
お姉さま、とは、書けなかった。




