第25話 後継者は、第一王子ニコラウス
春が来た。
王宮の大広間には、王族と大臣、名だたる貴族が集まっていた。今日、陛下が後継者を発表する。国中が待ち望んだ日だ。
私は、シルヴェスターの隣に立っていた。お腹はもう目立ちはじめている。大公は私の腰に手を添えたまま、決して離さない。
「くたびれたら、すぐ言え」
言いながら、大公は懐から星蜜漬けの干し月林檎を一かけ出して、私の口もとへ差し出した。大広間の真ん中で、である。
「殿下、皆さまが」
「口を開けろ」
仕方なく、ぱくりと食べた。甘い。周りの貴婦人たちが、扇の陰で息をのむ。氷の大公が妻に干し月林檎を食べさせている、と、波のように囁きが広がっていった。
「おいしいです」
「そうか。もう一つ」
「いえ、もう一つは、あとで」
「疲れたなら、座れ」
「大丈夫です。これほど見ものな日、座ってなどいられません」
「見ものとは」
「前の私が知らなかった景色ですもの」
一周目の今ごろ、第一王子ニコラウス殿下は、もうこの世にいなかった。
控えの間から、祖父が杖をついて入ってきた。礼服の襟が、斜めに曲がっている。
「おお、アマリア。胸が早鐘のようじゃ。わしは昨夜、一睡もできなんだ」
「お祖父さま、お体に障ります」
「ニコラウス殿下の脈を、毎朝とってきた。あの方が今日、あそこに立っておられる。それだけで、この老いぼれは思い残すことがない」
「まだ、曾孫の顔を見ておられませんよ」
「そうじゃった、そうじゃった」
祖父は目尻をぬぐって笑った。
そこへ、赤い上着の影が近づいてきた。
「ずいぶん楽しそうだな」
ルドヴィク殿下だった。私の腹を、ちらりと見て鼻で笑う。
「叔父上の子か。叔父上も物好きだ。契約で嫁いだ女に、情をかけるとは」
その瞬間、シルヴェスターの足もとから、霜がぴしりと音を立てて広がった。大理石の床が白く染まり、殿下の靴の先まで凍りつく。
「甥よ。足もとが寒そうだな」
「ひっ」
殿下が跳びのいた。靴の裏が、ばりばりと氷から剥がれる音がした。周りの貴族が、こらえきれずに吹き出す。
「……い、いえ、失礼を」
殿下が逃げるように離れると、大公は霜をすっと消して、何事もなかった顔で私の腰を抱き直した。
「殿下。契約は、もうございません」
にっこりと、言い切った。
「夫が、暖炉にくべました。私は本物の妻です。甥御さまは、お聞き及びではなかったのですね」
殿下の顔が、さっと赤くなった。
「口の減らない女だ」
「叔母上、とお呼びくださいませ」
殿下は舌打ちをして、踵を返した。祖父が咳きこむふりをして、笑いをこらえている。
高い玉座の前に、王子たちが並ぶ。
右端のルドヴィク殿下は、赤い上着で胸を張っている。その隣にイゾルデ様。扇を握る指が白い。
左端にニコラウス殿下。去年の春には、立っているのもやっとだった人が、背筋を伸ばして立っている。頬には血の色が戻り、目が澄んでいる。
「静粛に」
アルブレヒト陛下が立ち上がった。
大広間のざわめきが消えた。
「余は、王位を継ぐ者を定める」
ルドヴィク殿下の喉が、ごくりと動く。
「第一王子ニコラウスを、後継者として指名する」
一拍。
それから、割れるような拍手が起きた。
「殿下!」「第一王子殿下、万歳!」
貴族たちの声が重なる。
ニコラウス殿下は、深く頭を下げた。その肩が小さく震えているのが、遠目にもわかった。
ぱきり、と硬い音がした。
イゾルデ様の扇だった。象牙の骨が、真っ二つに折れて足もとに落ちている。
誰も、拾わなかった。あちこちから、ひそひそと笑い声が上がる。「あの扇、イゾルデ様の自慢の品でしょう」「骨まで折れたわ」。イゾルデ様の頬が、紅を塗ったように赤く染まった。
「父上」
ルドヴィク殿下が、一歩前に出た。顔は紙のように白い。
「なぜです。民を救ったのは第一王子ではなく、私の」
「ルドヴィク」
陛下の声が、殿下の言葉を断ち切った。
「干ばつの年に、小麦を買い占めたのは誰か」
「それは、ミレイユが」
「疫病の年に、薬草を十倍にしたのは誰か」
「それも、ミレイユが勝手に」
「お前は、すべて妃のせいにする」
陛下は静かに続けた。
「民の腹と熱を、金に換えようとしたのは、お前の屋敷だ。屋敷の主は誰だ」
ルドヴィク殿下の口が開いて、閉じて、また開いた。声は出なかった。
貴族たちの目が、冷ややかに殿下を見ている。
「今日をもって、お前に、政の席は与えぬ。下がれ」
深い礼を残したニコラウス殿下が、ふと顔を上げて、こちらへ歩いてきた。
「叔母上」
私に向かって、まっすぐな目で。
「殿下」
「どうか、そう呼ばせてください。あなたのお祖父さまと、あなたが私の命を救ってくださった。この恩は、一生忘れません」
十八の叔母に、二十三の甥が頭を下げている。広間の人々が、目を丸くしてざわめいた。
「お顔をお上げください。私は、できることをしただけです」
「それが、私にはできなかったことです」
ニコラウス殿下は、柔らかく笑った。
「叔父上、あなたの奥様は、本当に強い方だ」
「私の妻だ」
シルヴェスターが、短く、誇らしげに答えた。
玉座の上から、陛下がこちらを見ていた。目が合うと、ほんのわずかに口もとを緩めて、うなずく。
「シルヴェスター」
「はい、兄上」
「よい妻を持ったな」
「兄上のおかげです」
「いや。お前の運だ」
陛下は笑った。息子たちの争いを見ていないふりをして、すべてを見ていた人が、初めて見せた、父の顔だった。
祖父が、いつのまにか隣に来ていた。白いひげが、涙でべしゃりと濡れている。
「アマリア。この老いぼれはな、曾孫の産着を、もう三枚縫った」
「お祖父さま、まだ性別もわかりません」
「だから、白と黄色と緑にした」
シルヴェスターが、真顔で口をはさむ。
「私は名前の本を、十冊買った」
「殿下まで」
「祖父殿。男の子の名は『アンブロス』も候補だ」
祖父が、杖を落とした。手を上げて顔を覆う。やっぱり泣いている。
私はそっと、お腹に手を当てた。
前の私が、ルドヴィク殿下の婚約者に選ばれた春。今の私は、まったく違う場所で、顔を上げて立っている。
◇ブランシュ◇
夫が、出口へ向かって歩いていく。
私は三歩下がって、あとに続いた。
青い外套の裾を握りしめる。夫、と呼ぶのも、まだ口の中に砂が入ったような気分だ。この結婚は、本来存在しない。竜が頭を下げなかったのだから。
それでも、王命で私はここにいる。この男の動きを、すべて見届けるために。
背後で、大広間の歓声がまだ続いている。ニコラウス殿下の名を呼ぶ声。民が選んだ、本物の王の名。
その歓声の中を、ルドヴィク殿下は、一度も振り向かずに歩いた。拳が、白くなるほど握られている。
人の少ない回廊に入ったとき、殿下が足を止めた。
振り向いた顔は、これまで見たことのない色をしていた。怒りも、悔しさも通り越して、何か壊れたような、薄い笑い。
「ブランシュ」
「はい、殿下」
壁の燭台が、揺れている。廊下には、私と夫の二人だけ。
殿下は低い声で、ささやいた。
「竜騎士団を動かせ」
私は顔色を変えず、考えた。陛下と、王弟殿下と、王弟妃殿下に、すぐ知らせなければ。
「承知しました。いつでしょうか」
「三日後だ」




