閑話 お揃いの指輪と、小さな靴
毒菓子の事件から、五日がたった。
お腹の子は、元気だった。祖父が毎朝、脈をとって「よしよし」とうなずく。リゼも、手から淡い光を出して、お腹の上をそっとなでてくれる。
それなのに、私は夜になると、眠れなかった。
あの菓子を、あと指一本ぶん、口に近づけていたら。
考えるたびに、手が冷たくなる。寝台の中で、お腹を両手で押さえて、天井を見つめる。
隣で眠っているはずのシルヴェスター様が、暗がりの中で、静かに言った。
「眠れないのか」
「起こしてしまいましたか」
「起きていた」
この人もまた、眠っていなかったらしい。
「アマリア。明日、出かけるぞ」
「どちらへ」
「市場だ」
翌朝、私は、薄手の外套に着替えさせられ、銀の天馬車に乗せられていた。
翼のある白馬が四頭、ふわりと空へ駆け上がる。屋敷の屋根が、みるみる小さくなる。雲の間を抜けると、王都の街並みが、朝の光のなかに広がっていた。
「きれい」
「そうか」
「毎日見ているはずなのに、空から見ると、まるで違います」
「お前が笑った」
シルヴェスター様は、窓の外ではなく、私の横顔を見ていた。
「今日は、笑うために出かけるのだ。何も考えるな。ただ、見て、食べて、歩け」
「そんなに簡単に、笑えるでしょうか」
「笑えなければ、私が何とかする」
「何とか、とは」
「……考えてある。今は言えん」
視線を逸らした耳が赤い。何か、企んでいる顔だ。
氷の魔法で笑いを凍らせるのか、とぼんやり考えているうちに、馬車は市場の広場に降りた。
王都の朝の市は、にぎやかだった。
角のある立派な鹿が引く荷車。六本足の地竜が引く、野菜の山を積んだ荷馬車。あちこちから、売り子の声が飛ぶ。
「いらっしゃい! 採れたての果物だよ!」
「焼き立てのパンはいかが!」
私は人混みの熱気に、思わず立ちすくんだ。
その手を、大きな手がしっかり握った。
「離れるな」
「はい」
「手を離したら、凍らせて持ち帰る」
「それは困ります」
「では、離すな」
人の波に押されながら、私たちは手をつないで歩いた。氷の大公と呼ばれる人が、市場の真ん中で、妻の手を握って。
気づいた人たちが、ざわめく。
「おい、あれは」
「しっ。見るな。お忍びだ」
小さな男の子が、シルヴェスター様のフードの下をのぞきこんだ。
「おじちゃん、怖い顔」
「……そうか」
固まった大公の外套の裾を、子どもが引っぱる。
「でも、お姉ちゃんと手をつないでるとき、ちょっとだけ笑ってたよ」
母親が真っ青になって子どもを抱き上げた。私が笑いをこらえているとき、近くの花屋のおばあさんが、私の手に小さな白い花を一輪くれた。
「ご懐妊、おめでとうございます。お子に、よい風が吹きますように」
花は、私の手の中で、ぽんとひとまわり大きく咲いた。花の加護が、嬉しがっているのだ。
シルヴェスター様は、お忍びのつもりなのだろう。外套のフードを目深にかぶって。ただ、背の高さと目つきと、干し月林檎を買う手際の良さで、全員にばれていた。
「星蜜漬けの干し月林檎を、全部いただこう」
「全部ですか!」
「全部だ」
屋台の主人が、青くなって袋に詰めはじめた。
「殿下、そんなに」
「お前の好物だ」
「全部は、食べられません」
「半分は私が食べる」
私は、吹き出してしまった。
笑ったとたん、胸の奥の硬いものが、少しだけゆるんだ。
「笑ったな」
「はい」
「もう一度」
「お望みなら、何度でも」
赤ちゃん用品を売る店の前で、私は足を止めた。
店先に、小さな靴が並んでいる。手のひらにのるほどの、柔らかい革の靴。白、黄色、薄緑。つま先に、小さな刺繍がある。
「かわいい」
「入るか」
「はい」
店の中は、ふわふわした匂いがした。毛糸と、ミルクと、日向の布の匂い。
私は、一足の白い靴を手に取った。まだ誰の足にも触れていない、小さな小さな靴。
ふいに、目の前がにじんだ。
「アマリア」
「ごめんなさい。急に」
「何を考えた」
「あの菓子を、食べていたら」
喉が震えた。
「この靴を履く足が、なくなっていたかもしれないって」
言った瞬間、ぼろぼろと涙がこぼれた。五日間、胸に詰まっていたものが、一気に溢れる。
シルヴェスター様は、何も言わなかった。私の頭を、胸に引き寄せた。
大きな手が、背中をゆっくりなでる。
「私も、怖かった」
低い声が、胸の中から響く。
「あの日、天幕の外で、私は三つも数えられなかった。リゼの声が聞こえた瞬間、頭が真っ白になって、気づいたら天幕の布を跳ね上げていた」
「はい」
「お前の顔が白かった。私は、世界が止まったと思った」
私を抱く腕が、かすかに震えている。
「もう二度と、あんな思いはしたくない。だから、次はもっと上手に守る。約束する」
「殿下」
「人前でも、シルヴェスターと呼べ」
「シルヴェスター様。ありがとうございます」
涙を拭いて顔を上げると、店の主人が、真っ赤な顔で背を向けていた。肩が揺れている。
「ご、ご主人。これを、あるだけ全部」
「全部、ですか」
「白と、黄色と、薄緑。大きさ違いで、三足ずつ」
「殿下、それは多すぎます」
「足りないくらいだ」
籠いっぱいの小さな靴が、天馬車の座席に積まれた。
それから、シルヴェスター様は、私を細い路地へ連れていった。
石畳の先に、小さな工房があった。看板には、金槌と指輪の絵。
「ここは」
「宝飾職人の店だ。腕は王都一」
白いひげの職人が、奥から顔を出した。
「おお、これは大公殿下。ご注文の品は、仕上がっておりますよ」
「注文? いつの間に」
「結婚式のあとだ。ずっと、作らせていた」
殿下は、懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、白く細い指輪が二つ、並んでいた。銀の輪に、小さな白い花の彫り。花びらの一枚一枚が、息をのむほど繊細だ。
「契約の結婚では、指輪を交わさなかった。あれは、誓いではなく書類だった」
殿下が、私の前に片膝をついた。
「内側に、名を彫らせた」
指輪の内側に、細い字で刻まれていた。
『シルヴェスター アマリア 三つの季節に』
「三つの季節?」
「契約の春、本当の妻になった冬、そして、この子が生まれる秋だ」
職人が、にこにこ笑いながら言った。
「お子さまのお名前は、生まれてから、もう一つ彫り足せますよ。余白を、残してございます」
殿下の手が、私の左手をそっと取った。
「アマリア。もう一度、言わせてくれ」
工房の中は、静かだった。外の市場の声が、遠くに聞こえる。
「契約ではなく、お前を、妻に迎えたい。何度でも、何度生まれ変わっても。私と、結婚してくれるか」
「もう、結婚していますよ」
「何度でも、言いたい」
殿下の指が、私の薬指に、指輪をすべらせた。ぴたりと収まる。ひんやりしたのは一瞬で、すぐに肌の熱と混じった。
「はい。何度でも」
私も、もう一つの指輪を取った。殿下の大きな手を持ち上げ、薬指にはめる。少し、手が震えた。
「氷の大公に、お似合いです」
「溶けて落ちないよう、気をつけよう」
「溶けても、また凍らせてください」
「いや、溶けたままでいい。お前が、そうしたのだから」
職人が、目頭を押さえて、ごほんごほんと咳をした。
帰りの天馬車で、私は窓の外の雲を見ていた。左手の指輪が、夕日にきらりと光る。
「アマリア」
「はい」
「今夜は、眠れそうか」
「たぶん」
「眠れなければ、起こせ。いつでも」
「はい」
馬車の座席には、小さな靴の籠。そして、隣には、私の手を握る、大きな手。
あの毒の菓子から、世界は少しも変わっていないのに。
今日は、世界が、前より少しだけやさしかった。




