第24話 その菓子は、食べてはいけません
婚礼の席での私のひと言が王都じゅうに広まって、三日。懐妊は、もう誰もが知る話になっていた。
王弟邸の騒ぎは、あの日から少しも収まらない。
階段の絨毯は二重から三重になり、手すりには綿の覆いが増えた。台所には「奥様の食事は、必ず三度味見すること」という張り紙。
「シルヴェスター様。これは、やりすぎです」
「足りないくらいだ」
居間で書類を読んでいた大公が、顔も上げずに答えた。氷の大公と呼ばれる人の声とは思えない。
「階段くらい、自分で上がれます」
「上がるな」
言うが早いか、体がふわりと浮いた。大きな腕に抱き上げられている。
「殿下! 侍女たちが見ております!」
「私の妻だ。誰に遠慮がいる」
控えていたイレーネが、そっぽを向いて肩を震わせた。笑いをこらえているのだ。
寝室に運ばれ、毛布をかけられ、枕を三つ重ねられる。
「会議は?」
「抜けてきた。三度目だ」
扉の外から、ユリウスの声が聞こえた。
「姉上、義兄上の部下の皆さんが、庭に並んでますよ。『殿下をお戻しください』って、土下座する勢いで」
「夕刻には戻る」
戻る気がない人の言い方だった。
三日後、イゾルデ様から茶会の招待状が届いた。懐妊祝いの席だという。
読み終えた大公の手元で、招待状の端が白く凍った。
「行くな」
「行きます。見たいものがありますの」
「危険だ」
「ですから、お祖父さまの一番弟子を、侍女として連れていきます」
翌日、私の後ろには新しい侍女が一人付いていた。
リゼ。二十歳、小柄で目の大きい娘。祖父の弟子の中で、毒の見分けにかけては右に出る者がいない、治癒師だ。手から淡い光を出して、傷や痛みをいやす魔法も使える。
「奥様、私の鼻は犬より利きますので」
「頼もしいわ」
出がけの門の前で、シルヴェスターが天馬車の戸を押さえて立っていた。
「やはり、私も行く」
「殿方は入れない茶会です」
「天幕の外で待つ。見張りだ」
即答だった。
「リゼ。妻の口に入るものは、水一滴でも疑え」
「かしこまりました、大公殿下」
私は笑って、殿下の手の甲を軽くたたいた。髪には、朝摘んだ白い花を一輪、挿している。
「ご安心ください。三つ数える間に、戻ります」
「二つにしろ」
どんどん短くなっている。
◇イゾルデ◇
ああ、愉快。
茶会の支度が整った天幕の裏で、わたくしは銀の皿を眺めていた。星蜜をまとわせた焼き菓子が、五つ。つやつやと美しい。
「夢見草の根の汁は、言いつけどおりに?」
侍女が、青い顔でうなずいた。
「三倍、練りこみました。ですが、イゾルデ様、これは」
「ただの毒ではないわ。身ごもった者が口にすれば、お腹の子が流れる毒。大人が食べても、少し眠くなるだけ」
わたくしは、扇の陰で笑った。
「王弟の血など、増やさせるものですか。あの小娘の腹が空になれば、王弟は寵愛の理由を失う。ついでに、あの氷の男の顔が絶望に歪むのも見られるわ」
「万一、断られましたら」
「断らせないわ。大勢の貴婦人の目の前で、わたくしが手ずから勧めるのよ。側妃の菓子を断る王弟妃は、礼を知らぬ女。そう噂が広まっては、あの娘も食べるしかないでしょう」
侍女の手が、震えている。
「あなた、顔色が悪いわね。お前の弟は、まだわたくしの宮で薬師見習いをしているのだったかしら」
「……はい」
「ならば、笑って皿を運びなさい」
侍女が、ひきつった笑みを浮かべた。
皿が運ばれていく。わたくしは扇を揺らして、獲物を待つ。
◇アマリア◇
イゾルデ様の宮の庭に、白い天幕が張られていた。
並んだ貴婦人たちは、私の腹に視線を送りながら、にこやかに挨拶を投げてくる。その中に、側妃として侍るミレイユとカティアの姿もあった。ミレイユの目の下には、濃いくまが浮いている。
「ようこそ、アマリア。さあ、お座りなさい」
イゾルデ様が、自ら席を示した。
「お子のためには、甘いものがよいと聞きますわ。わたくしの宮の菓子師が、今朝、焼いたものよ」
銀の皿が運ばれてきた。
その瞬間、髪に挿した白い花が、ふるりと震えた。
花びらの縁から、みるみる色が褪せていく。茶色く縮れ、うなだれる。七つの私が咲かせた花と同じ種、私の「花の加護」が、毒の気配に反応しているのだ。
私の後ろで、リゼが小さく息を吸った。
「お口に合うとよいのだけれど」
「ありがとうございます、イゾルデ様。こんなにおいしそうなお菓子、一人でいただくのはもったいのうございます。まず、イゾルデ様から」
「わたくしは、甘いものを控えていて」
「まあ。ではお隣の、ミレイユは?」
名を呼ばれたミレイユが、びくりとした。顔が、真っ白になる。
「わ、私は、お腹が」
「側妃として、イゾルデ様のお菓子をいただくのは名誉でしょう」
ミレイユは、唇を噛んだまま、手を伸ばさなかった。この子は、皿の菓子が何なのか、知っている。
イゾルデ様の扇が、ぱちりと鳴った。
「アマリア。あなたのためのお菓子ですよ」
貴婦人たちの視線が、一斉に私へ集まった。
「側妃様の心づくしを断るなんて」「王弟妃様は、お口に合わないのかしら」
ひそひそ声が、針のように刺さる。
イゾルデ様が自ら皿を取り、焼き菓子をつまんで、私の口もとへ差し出した。
「それとも、わたくしの手からは召し上がれない?」
甘い匂いがした。蜜と焦げた砂糖のあいだに、ほんの一筋、土のような苦い匂い。
お腹の子が、とんと動いた気がした。
私は、にっこり笑って、菓子を受け取った。
「いただきます」
口に運ぶ手前で、すっと止める。
そのとき、リゼが私の肘にぶつかるふりをして、皿をひっくり返した。
がしゃん、と銀の皿が鳴り、焼き菓子が転がった。
「申し訳ございません! お許しを!」
床にひれ伏したリゼが、小さな声で私にだけ告げる。
「奥様。その菓子は、食べてはいけません。星蜜の下に、夢見草の根の汁が練りこんであります。身重のお体には、お腹のお子を流す毒です」
背筋を、冷たい手がなぞった。私が手に持っていたのは、あと指一本ぶんで、子の命を奪う菓子だった。
足の力が抜けかけたとき、天幕の布が、勢いよく跳ね上がった。
霜が、床を走った。
「何の音だ」
シルヴェスターだった。天幕の外で、ずっと耳をそばだてていたのだろう。貴婦人たちが悲鳴を上げて後ずさる。茶器のふちに、つららが生えていく。
「妻の顔が白い。何があった」
「で、殿下、ただの侍女の粗相で」
イゾルデ様の声が裏返った。
私は、大公の袖をそっと引いた。ここで暴れても、証拠がない。毒の菓子は、もう侍女たちが拾い集めている。
「殿下、少し眩暈がしただけです。連れて帰ってくださいますか」
「当然だ」
言い終わる前に、体が浮いた。大公の腕が、私を軽々と抱き上げる。
「甥の母上。この茶会の礼は、いずれ」
氷の声に、イゾルデ様の扇が小さく軋んだ。仮面のような笑顔は、固まったまま動かない。
天幕を出ようとした、そのとき。
大公の肩ごしに、視界のすみで、何かが動いた。
ミレイユだった。
侍女が皿を下げる、そのほんの一瞬。ミレイユの手が、白いハンカチごと、菓子を一つ、懐へ滑りこませた。
誰も気づいていない。
私とリゼ以外は。




