閑話 竜は嘘をつかない(ブランシュ視点)
頭を下げられたのは、生まれて初めてだった。
それも、氷の大公に。
「頼む」
王の私室。窓の外では、夕暮れの空を、手のひらほどの小竜が手紙をくわえて横切っていく。国じゅうの便りを運ぶ、伝書の小竜だ。私は、その背中を見るともなく見ていた。
「ブランシュ・デュヴァリエ」
国王アルブレヒト陛下は、穏やかな声で言った。
「第四王子ルドヴィクの妃になってくれぬか。名目は縁談だが、役目は見張りだ。あれが竜騎士団を使って何をするか、そばで見ていてほしい」
「陛下」
「断ってもよい。断れぬことを知っていて、断ってもよいと言う余は、卑怯な王だ」
笑ってしまいそうになるのを、こらえた。
息子たちの争いを、見ていないふりをして、見ている人。祖父が、よくそう評している。
隣に立つ王弟殿下は、何も言わなかった。ただ、短く頭を下げた。
あの氷の大公が。戦場で、竜に乗る私たちの先頭に立つ人が。
「お受けします」
口が、先に動いた。
「ただし、条件があります。竜騎士の結婚には、『竜の認め』の儀があります。ネージュが夫として認めれば、私は妻として仕えます。認めなければ、騎士団の掟どおりです」
「掟どおり、とは」
「結婚と呼ばれない、ということです」
陛下は、目を細めた。
「それは、面白い」
*
部屋を出ると、廊下で王弟殿下に呼び止められた。
「ブランシュ殿」
「殿下。まだ何か」
「あの子は、そう簡単には折れない。だが、折れないだけに、一人で抱えこむ。もし、手を貸せる場面があれば」
「あの子」
「……王弟妃になる娘のことだ」
氷の大公の耳が、ほんの少し赤い気がした。気のせいだろうか。
私は、胸に手を当てた。
「承知しました。竜騎士の名にかけて」
*
その夜、屋敷に戻ると、祖父が書斎で待っていた。
グレゴール・デュヴァリエ。竜騎士団の将軍。七十を過ぎても背筋が一本の槍のようで、笑うと壁が震える。
「受けたそうだな」
「聞いておられましたか」
「陛下が、わしに先に断りを入れてこられた。孫を使うが、よいか、と」
「それで、おじいさまは」
「よい、と答えた」
祖父は、星葡萄の酒の杯を傾けた。
「お前が嫌なら、わしが首を差し出して断ってくるつもりだった。だが、お前の顔を見れば、わかる。嫌ではないな」
「嫌ですよ。あの王子は」
私は、肩をすくめた。
「閲兵の日に、ネージュの鼻先を気安く撫でようとして、唸られました。それでも気づかず、竜も俺に懐いていると笑っておられた。あの鈍さで王を名乗れば、国が割れます」
「だから、行くのか」
「見張りです。軍人の仕事です」
「そうか」
祖父は、しばらく黙っていた。
「ブランシュ。竜騎士の掟を、言ってみろ」
「竜は嘘をつかない」
「続きは」
「人は、つく。だから、竜に聞け」
「そうだ」
祖父は、にやりと笑った。
「お前は、人が嘘をつく世界に、嫁ぎに行く。だが、お前の相棒は、嘘をつかない。それを忘れるな」
「忘れません」
竜舎へ向かう廊下は、魔石灯が青白く灯っていた。
*
ネージュは、藁の上で丸くなっていた。
白銀の鱗が、灯りを受けて静かに光る。私が足を踏み入れると、金色の目が片方だけ開いた。
「起こしたか」
喉の奥で、ごろりと鳴る。
この竜は、私が十二の年に、卵から孵った。最初に見たのが私で、最初に噛んだのも私だった。指の傷は、いまも残っている。
ネージュは、人を見る目が厳しい。祖父の部下の隊長でさえ、三年かけてようやく背に乗せてもらえた。気に入らない相手には、鼻息ひとつで、頭が低くなる。
それでも、私の言うことは、よく聞く。
「近いうちに、ある男を、お前の前に立たせる」
鼻先を撫でながら言った。
「お前が決めていい。頭を下げるか、下げないか。私は、お前の決めたとおりにする」
ネージュは、鼻息を吐いた。
それが、うなずいたのか、笑ったのか。私にはわからなかった。
*
舞踏会の夜のことを、私は一生忘れないと思う。
王弟殿下の頼みで、私は庭で待っていた。ネージュの背で、窓の灯りを睨みながら、腹を決めていた。扉が開く気配を見たら、窓を割る。それだけの役目だった。
その窓が割れたとき、私は部屋の中の景色を見た。
体を壁にあずけ、頬を真っ赤にした少女。足は震えている。毒を飲まされているのは、見ればわかった。
それなのに、右手が。
右手だけが、動いていた。壁の燭台を、がっちりと握っている。殴るつもりだったのだ。
泣くのでも、すがるのでもない。この状況で、手を伸ばして、殴ろうとしていた。
剣を持ったこともない、細い令嬢の手だ。けれど、その手を動かしているのは、戦場で最後まで槍を放さない者と同じ心だった。
この娘の心は、武人だ、と思った。
抱え上げると、拍子抜けするほど軽かった。庭で王弟殿下に渡すとき、少女は「申し訳ありません」と言った。助けられた側が、助けた側に謝るのだ。
そして、弟君の差し入れのふりをされたと聞いて、「ユリウスのせいではないわ」と、笑おうとした。まだ口もきけない熱の中で。
最後に、「見に行きます」と言った。自分を罠にかけた人たちが、どうなるのか、自分の目で見たい、と。
ネージュが私の肩に、鼻先を寄せた。
そのとき、思った。
この人の味方をしよう。
命令だからではない。陛下に言われたからでもない。見張りの仕事とは別に、私の剣と竜を、この人のために使いたい、と。
翌日、私は王弟邸の寝室で「手を組みたい」と言った。言ってから、顔が熱くなった。さっぱりした女のつもりだったのに、こんなに早く、本気になるとは。
*
竜の認めの儀の朝は、よく晴れた。
花嫁衣装は着なかった。青い外套に、銀の胸当て。竜騎士の正装だ。ルドヴィク殿下は何も気にしていなかった。気にするだけの頭がない。
祖父が進行役に立った。声が、腹の底に響く。
「第四王子ルドヴィク殿下、前へ」
殿下は、胸を張って、ネージュの前に立った。
ネージュの金色の目が、殿下を見下ろした。
一呼吸。二呼吸。
頭は、下がらなかった。
ただ、鼻息がひとつ、ふうっと殿下の前髪を揺らした。
「見ろ、私を恐れて動けないようだ。竜も、王の器を悟っているらしい」
観客席が、すっと冷えた。気づいているのは、竜に乗る者だけ。
祖父が、微動だにせず告げる。
「竜は殿下を、見極められた。これにて儀は終わりにござる」
嘘は、一つも言っていない。祖父は、そういう人だ。竜は嘘をつかない。だから、竜騎士も、嘘をつかずに、真実を隠す。
私は、観客席の王弟妃殿下と目が合った。
口の端を、ほんの少しだけ上げた。
お腹に手を当てて、殿下の隣で微笑む人。あの夜、燭台を握っていた手が、いまは、小さな命を守っている。
その夜、私は小竜を呼んだ。
窓辺に降りた伝書の小竜は、羽根を一枚くわえていた。ネージュの羽根だ。根元に、手紙を結ぶ。
「竜は、あの男に頭を下げませんでした。ご安心を。 ブランシュ」
短い。祖父にも、よく言われる。お前の手紙は、軍の伝令より短い、と。書きたいことは、これで全部だ。
小竜は、夜空へ舞い上がった。背中の向こうで、ネージュが羽ばたく音がした。
竜は嘘をつかない。
昼間のことを、思い出す。儀式のあと、ルドヴィク殿下は上機嫌で、私の肩を叩いたのだった。
「竜も俺を認めたぞ。お前も誇らしいだろう」
「殿下のお心のままに」
嘘は言っていない。誇らしい気持ちも、確かにあった。ネージュが、自分の目で見て決めたことが。
殿下は、手を振って去った。その背中は、無防備だった。何も知らない、幸せな背中だった。
いずれこの男は、縄を受ける。
そのとき、私の言う言葉は、もう決まっている。
だから、私は約束を守る。あの人の味方でいる、と。




