第23話 竜は、頭を下げなかった
春を待つ王宮の裏手、竜舎の広場。
第四王子ルドヴィク殿下と、竜騎士ブランシュ・デュヴァリエの婚礼は、ここで行われた。
竜騎士の結婚には、「竜の認め」という儀式がある。夫になる人が、妻の竜の前に立つ。竜が頭を下げれば、竜に認められた夫。下げなければ、竜騎士団の掟では、その結婚は結婚と呼ばれない。
知っているのは、竜に乗る者だけだ。
広場の門の前に、黒い馬車が止まった。引いているのは、角が二本、左右に反り返った黒馬。バイコーンと呼ばれる魔獣で、気性が荒い。御者が鞭を振るうたび、馬は鼻から白い息を吹き、蹄で石畳を割った。
降りてきたのは、ルドヴィク殿下とイゾルデ様。豪華な馬車なのに、見るだけで胸がざわつく。主人たちの性根が、馬にまで映っているようだ。
私たちの天馬車は、その隣に静かに降りた。銀の車体に翼の馬が四頭。バイコーンが、ひるんだように後ずさる。
シルヴェスターは、私を抱き下ろすと、まず自分の外套を椅子に敷いた。次に毛皮のひざ掛けを三枚。最後に、懐から星蜜漬けの干し月林檎の包みを出して、私の手に握らせる。
「儀式は長い。腹が減ったら食べろ」
「人前ですよ」
「構わん。私の妻だ」
周りの貴族たちが、そろって目をそらした。肩が揺れている人もいる。
「叔母上。お足もとにお気をつけて、どうぞこちらへ」
かたい笑顔で、ルドヴィク殿下が私の席を引いた。
私が貴賓の席に座るのは当然のこと。王弟妃は、王子たちから見れば叔母にあたる。礼を尽くさなければならない立場だ。
「ありがとう、甥御さま。ご結婚、おめでとうございます」
「……ええ。ありがとうございます」
殿下は歯を食いしばった笑みを浮かべた。
隣の席で、シルヴェスターが低く言った。
「甥よ。叔母に礼を尽くすのは、感心だ」
「叔父上こそ、相変わらずお熱いことで」
「世辞は受け取る。ただし、妻に近づくときは三歩手前で止まれ」
殿下の笑顔が、ひくりと引きつった。
その隣には、真紅のドレスのイゾルデ様が立っている。お顔は笑っているのに、目が獲物を値踏みする蛇のようだ。
「アマリア。あなたも、早くお子を産んでおあげなさいな。王弟殿下のお年を思えば、急がないと」
「イゾルデ様のご心配、ありがたく存じます。ちょうど今、授かっておりますの」
イゾルデ様の扇が、ぴたりと止まった。
その後ろで、二人の女が目を伏せて立っている。側妃のミレイユとカティア。どちらも、私と目を合わせない。
鐘が鳴った。
広場の奥の扉が開き、巨大な影が現れる。白竜のネージュだ。白銀の鱗が朝日を弾き、翼を広げるだけで風が起きる。
隣を歩くブランシュは、竜騎士の正装をしていた。青い外套に、銀の胸当て。花嫁衣装など、どこにもない。
「これより、竜の認めの儀を執り行う」
進行役は、竜騎士団の将軍グレゴール・デュヴァリエ。ブランシュの祖父で、王に忠実な老将だ。声が雷のように低い。
「第四王子ルドヴィク殿下、前へ」
殿下は胸を張って歩み出た。
ネージュの前に立つ。竜の目は、金色。殿下を、まっすぐ見下ろした。
一呼吸、二呼吸。
竜は、頭を下げなかった。
ただ、鼻先からふうっと息を吐いて、静かに殿下を眺めている。
殿下は、満足そうにうなずいた。
「見ろ、私を恐れて動けないようだ。竜も、王の器を悟っているらしい」
観客席の空気が、すっと冷えた。
竜騎士たちの肩に、力が入っている。意味に気づいているのは、竜に乗る者たちだけ。
グレゴール将軍は、微動だにせず告げた。
「竜は殿下を、見極められた。これにて儀は終わりにござる」
嘘は一つも言っていない。
視線を感じて目を向けると、ブランシュと目が合った。
ほんのわずか、口の端が上がった。私にだけわかる、合図。
続いて、祝いの挨拶の場になった。
ルドヴィク殿下が、高らかに言う。
「ミレイユ、カティア。こちらへ。正妃に、ご挨拶を」
二人が前へ出た。
ブランシュの前に立つ。側妃は、正妃に仕える立場。膝を折って頭を下げるのが、決まりだ。
カティアは、すぐに腰を落とした。
ミレイユだけが、動かない。
「ミレイユ」
殿下の声が尖る。大股で歩み寄ると、ミレイユの後頭部に手をかけた。
「何をしている。新しい正妃殿に、頭が高い」
「でも殿下。私は、ほんの少し前までは」
「先日までは、だ。今はただの側妃だろう。もっと低く」
殿下の手が、ミレイユの頭を押さえつけた。額が土に触れそうになる。
周りの貴族たちから、小さな息がもれた。同情ではない。「みっともない」という、冷えた笑いだ。ルドヴィク殿下は、自分が笑われていることに気づいていない。
ミレイユの肩が、ぶるぶると震えた。
ゆっくりと膝が折れる。ドレスの裾が、地面の土を拭った。
その横で、カティアが顔を伏せたまま、唇だけで笑った。
「側妃のミレイユ、正妃様にご挨拶申し上げます」
絞り出す声。
私は、二人の手を見ていた。ミレイユは拳を握りしめ、爪が手のひらに食いこんでいる。カティアは、ミレイユを見ないまま、袖の中で、もう空になった自分の腹に手を当てていた。
かつての主従。今は、同じ立場で、同じ膝をついている。
ブランシュは、淡々と言った。
「顔をお上げなさい。形だけの礼は要りません」
「ブランシュ! 正妃が側妃に甘い顔をするな。けじめがつかん」
「殿下。私は竜騎士です。礼は、心のないものを嫌います」
殿下は何か言い返そうとして、竜の鼻息に黙った。
帰り際、イゾルデ様が扇を口もとに当て、すれ違いざまにささやいた。
「楽しんでいるのも今のうちよ、アマリア。お腹の子が、無事に生まれるとよいわね」
足を止めて、にっこり笑って返した。
「お心づかい、胸にしまっておきます。イゾルデ様こそ、お足もとにお気をつけて。最近、よく物が落ちるようですから」
扇が、ぎしりと軋んだ。
広場の隅で、バイコーンが突然いなないて、御者の鞭を振り払った。ネージュがひと睨みすると、獣はぴたりとおとなしくなる。竜の前では、あの荒馬も子犬だ。ルドヴィク殿下の顔が、また赤くなった。
儀式が終わり、席を立つとき、祖父アンブロスの声が背後から聞こえた。
「わしの孫は、うまくやっておる」
振り向くと、得意げにひげをしごく祖父の向こうで、グレゴール将軍が、石のような顔のまま、こちらにだけうなずいた。
その夜。
屋敷の寝室のバルコニーで、私はシルヴェスターの肩にもたれて、星を見ていた。
「冷える。入れ」
「もう少しだけ。竜が、見たくて」
そのとき、ちりりと小さな鈴が鳴った。
手のひらほどの白い小竜が、バルコニーの手すりに降りた。伝書の小竜。手紙を運ぶ、小さな竜だ。口にくわえた白い羽根を、ちょこんと私の手に置く。ネージュの羽根だ。
根元に、小さな紙が結んである。
小竜は、返事を待つように首をかしげている。指でそっと顎をくすぐると、きゅうと喉を鳴らした。
「かわいい」
「手紙に、嫉妬してもいいか」
「小竜にですか」
「小竜にもだ」
真顔で言うので、私は夜空に向かって、声を立てて笑った。
シルヴェスターの腕が、後ろから私を包む。
「何と書いてある」
「お約束のお返事です。いま、開きます」
紙を開くと、太く力強い筆跡があった。
「竜は、あの男に頭を下げませんでした。ご安心を。 ブランシュ」




