閑話 大公殿下、落ち着いてください
お祖父さまが「おめでとう」と言ってから、屋敷が三日で変わった。
最初に変わったのは、階段だ。
「殿下。なぜ階段という階段に、絨毯が二重に敷かれているのですか」
「滑らないように」
「ここの階段は、石ではなく、板張りですが」
「板は硬い」
廊下の角という角には、綿を詰めた覆いがつけられた。窓ガラスの下には、柵のような板まで取りつけてある。
「これは、窓から落ちないように、ですか」
「お前が落ちるとは言っていない。念のためだ」
「ここは二階ですらありません」
シルヴェスター様は、真剣な顔で腕を組んだ。氷の大公が、玄関ホールの床板をじっと見つめている。その足もとから、うっすらと霜が広がっていた。心配事があると、凍る人なのだ。
「シルヴェスター様。霜が出ています」
「む」
あわてて咳払いをしたら、霜がしゅうと消えた。
台所へ行くと、料理人が増えていた。三人も。朝の挨拶をすると、全員が一斉に直立した。
「奥様のお食事は、我ら六人でお作りします!」
「六人? 三人増えたのでは」
「大公殿下が、三人より三人増やせ、と」
どうやって三が増えて六になったのかは、聞かないことにした。
書斎へ行くと、机の上に本が積まれていた。
『よい名前の百の例』『名づけの手引き』『古い言葉の美しい響き』。数えると、十冊ある。
「十冊も、お買いになったのですか」
「足りないか」
「多いです。しかも、まだ性別もわかりません」
「男でも女でも、どちらもいけるよう、二百ほど候補を考えた」
「二百」
開いてみると、余白に殿下の角ばった字がびっしり並んでいた。「アマ」から始まる名前だけで、四ページある。
「それは、私の名前です」
「半分はな。もう半分は、お前に似た子の名前だ」
そう言って、殿下は耳の先を赤くした。
執務は、すべて持ち帰るようになった。
居間の長椅子で、殿下は書類を読む。私はその隣で、編み物をする。一枚読んでは、私の顔を見る。二枚読んでは、私のお腹を見る。三枚読んで、立ち上がって、私の膝に毛布を足した。
「暑いです」
「暑いなら言え」
「今、言いました」
毛布が一枚、減った。
「殿下は、ちっとも書類が進んでいませんね」
「進んでいる」
「半刻前から、同じ頁です」
「……この頁には、重要なことが書いてある」
「何と書いてありますか」
殿下の目が、私の腹の上をさまよった。やがて、小さな声で白状した。
「『大公は妻を愛している』」
「そんな書類はありません」
「私が今、書き足した」
見れば、書類の端に、確かにその一行があった。公式書類に。
笑いが止まらなくて、編み針を落としてしまった。
その週の末、家族の晩餐の日が来た。
母のドロテア、お祖父さま、それにユリウスを招いた。母は、お祖父さまの屋敷で療養を終え、すっかり顔色がいい。
「アマリア」
母は私を抱きしめると、そっとお腹に手を当てた。
「ここに、あなたの子がいるのね」
「はい、お母さま」
「あなたを産んだ日のことを、今も覚えているわ。小さくて、よく泣いて、でも笑うと世界じゅうが明るくなった」
母の声が揺れた。私も、目の奥が熱くなる。
一度目の人生では、母はこの景色を見ることなく亡くなった。今、目の前に母がいて、私の腹に手を当てて泣いている。それだけで、もう十分すぎるほどだった。
「お母さま、泣くと体に障ります」
「あなたこそ、泣いてはいけません」
二人で泣いて、二人で笑った。
食卓には、魔石灯の柔らかい光が降りている。テーブルの真ん中には、白い花を活けた花瓶。私が朝、庭から取ってきたものだ。ほんの少し、花の加護で咲かせてみた。
「姉上! 見て、これ全部、義兄上が選んだ料理なんだって」
ユリウスが目を丸くした。皿には、私の好物ばかりが並んでいる。魚の香草焼き、きのこのスープ、白身のパイ。それから、湯気を立てる月林檎の星蜜焼き。その横の小さな皿には、星蜜漬けの干し月林檎が山盛りになっていた。
「殿下、干し月林檎の数が多すぎませんか」
「百かけある」
「そんなに食べられません」
「半分は、私が食べる」
お祖父さまが、ごほんと咳払いをした。
「大公殿下。わしの孫を、干し月林檎で太らせるつもりか」
「アマリアの好物だ」
「それは知っておる。だがな、アマリアの好物は、昔から、わしが一番よく知っておる」
「祖父殿とは、今夜、決着をつける必要があるようだ」
「望むところじゃ」
二人は、睨み合った。
「ちょっと、お二人とも」
私の言葉は、聞こえていない。
お祖父さまが、懐から小さな包みを出した。
「ほれ。曾孫の帽子じゃ。生まれる前に、もう編んだ」
包みの中から、ちょこんと小さな毛糸の帽子が出てきた。てっぺんに、房がついている。
「かわいい」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「祖父殿。私は、靴下を十足、注文した」
「何を張り合っておる」
お母さまが、くすくすと笑った。
「お父さまも殿下も、そっくりですわね。曾孫バカと、子バカ」
「お義母上。私は子バカではない」
「では何ですの」
「妻バカだ」
お祖父さまが、うんうんと満足そうにうなずいた。
私は、顔から火が出そうだった。
ユリウスがフォークを落とした。笑いすぎて、息ができないらしい。
「姉上、俺、叔父さんになるんだ」
「ええ。ユリウス叔父さんね」
「うわあ。俺、赤ちゃんに会ったら、まず何を言えばいいのかな」
「『初めまして、叔父さんだよ』でいいんじゃないかしら」
「それ、いいな。じゃあ、義兄上は?」
「私は、父だ」
「それは、わかってます」
食卓が、笑いで満ちた。
一度目の人生には、なかった景色。母が笑い、祖父が威張り、弟が転げ回り、そして隣に、私の手を握ってくれる人がいる。
晩餐が終わるころ、窓の外に、ひらひらと雪が舞い始めた。
「雪だ」
殿下が、私のほうを見た。
「少しだけ、庭に出るか。外套を、二枚着るなら」
「三枚、着ます」
「四枚にしろ」
庭は、真っ白だった。月明かりが雪に反射して、昼のように明るい。
殿下が、手のひらを雪の上にかざした。ふわりと、雪が持ち上がり、まるくなり、固まっていく。
「氷の魔法で、雪玉を作ってくださるのですか」
「雪だるまだ。お前と、作ってみたかった」
「雪だるまは、普通は手で作るものです」
「手で、作る」
殿下は、不器用に雪をかき集めはじめた。氷の大公が、大きな手で、へたくそに雪玉を転がしている。
私は、小さな雪玉を作った。ころころと転がして、頭を載せる。
「できました。これは、殿下です」
「私は、これか」
「はい。氷の大公ですから、冷たく凛々しく」
大きな雪だるまの横に、少し小さな雪だるまを作る。
「これは、私です。ちょっと、ふっくらしています」
「かわいい」
「雪だるまにですか」
「お前に似ているからだ」
最後に、手のひらに乗る小さな雪だるまを作った。真ん中の二つの横に、そっと並べる。
「これは」
殿下の声が、少しかすれた。
「この子です。まだ、名前のない」
三つの雪だるまが、月明かりの下に並んだ。大きいのと、中くらいのと、とても小さいの。
殿下が、自分の首巻きをほどいて、一番小さな雪だるまに巻いた。
「風邪を引くといけない」
「雪だるまは、風邪を引きません」
「引くかもしれん」
私は、笑った。笑って、殿下の肩にもたれた。
「家族、ですね」
「家族だ」
殿下の腕が、私をすっぽり包んだ。外套の上から、心臓の音が聞こえる。早い。けれど、あたたかい。
雪の上の三つの雪だるまは、月に照らされて、きらきらと光っていた。
一度目の人生が、遠い昔のことのようだ。
これから来る朝が、待ち遠しい。




