第22話 契約書は、暖炉の中で燃えた
その冬、雪が深く積もった夜。
私は書斎の暦を見つめていた。指名の日は、春。あと三月ほどしかない。
第一王子が指名されるまで、夫婦を演じる。それが、契約書の約束だった。
三月後、私は自由になる。ロートリンゲンの屋敷へ帰ることも、祖父の家で暮らすことも、好きに選べる。
それなのに、少しも嬉しくない。
「奥様、雲苺の茶が冷めていますよ」
イレーネが、そっと茶碗を替えた。
「ここのところ、暦ばかり見ていらっしゃいます。数えるたびに、ため息をついて」
「気のせいよ」
イレーネは何か言いかけて、やめた。盆を持って静かに下がっていく。扉の向こうで、ごそごそと衣擦れの音がした。立ち去る気配がない。
その扉が、音もなく開いた。
シルヴェスター殿下が立っていた。雪を落とした外套を椅子にかけ、無言で暖炉の前へ進む。いつもの氷の顔だ。ただ、右手と右足が一緒に出ていた。
「殿下、お帰りでしたか」
「ああ」
殿下は、懐から一通の書状を取り出した。見覚えのある封蝋。二人が署名を交わした、あの契約書だった。
「それは」
答えの代わりに、殿下は書状を暖炉の火の中へ投げ入れた。
「殿下!」
羊皮紙がめくれ上がり、インクの文字が赤く染まって、崩れていく。私は思わず駆け寄っていた。
「何をなさるんです。あれがなければ、私は」
「アマリア」
低い声が、私の名を呼んだ。契約を交わしたときの、事務的な声ではない。
「最初から、離縁するつもりなどなかった」
火が、ぱちりと鳴った。
「お前が私の屋敷で、喉に剣を当てられたまま、結婚してくださいと言ったとき。あの日から、手放す気はなかった。礼拝堂で、生涯守ると誓ったときには、もう、離縁など考えてもいなかった。契約という形のままにしておいたのは、お前が逃げないようにするためだ」
「逃げないように、ですか」
「お前は、利で動く者を信じる。情で動く男は信じない。違うか」
図星だった。ルドヴィク殿下の「愛している」を信じて五年を失った私は、「愛」という言葉そのものを、信じられなくなっていた。
「だから契約にした。卑怯だとは思っている」
殿下の灰色の目が、不器用に揺れる。
「この三月、お前が暦を見るたびに、私は怖かった。戦場で首に刃を当てられても、こんなに手は震えなかった」
見れば、膝の横で握りしめた殿下の拳が、小刻みに揺れている。その指先から白い霜が這い、机の脚まで凍らせていた。
「昨夜は馬に向かって、練習した」
「練習、ですか」
「十七回。馬は、三回目からあくびをした」
吹き出しそうになって、唇を噛んだ。扉の向こうで、誰かが鼻をすする音がした。
「だから言う。妻でいてくれ。契約ではなく、本当の妻に」
胸の奥で、固く閉じていたものが、ほどけた。
涙が、ぼろぼろと落ちた。泣くつもりなんてなかったのに、止まらない。
「アマリア?」
「殿下。私も、お話ししていないことがあります」
私は、息を整えて、初めから話した。
一度、殺されたこと。五年間、婚約者として尽くして、即位前夜に妹の手を取られたこと。弟のユリウスが、私をかばって斬られたこと。剣が胸に入った熱さ。白い場所で女神様に会い、もう一度だけ機会をもらったこと。
おかしな女だと思われても、いい。
話し終えたとき、殿下は一言も口をはさまなかった。ただ、途中から私の両手を、自分の両手で包んでいた。
長い沈黙のあと、静かに言った。
「そうか」
「信じて、くださるのですか」
「初めて会った日、お前は『一度、殺されましたので』と言った。冗談を言う目ではなかった。その中身を、やっと聞けた」
殿下は、私の手を包む指に、少しだけ力をこめた。
「それに、お前は『これから一年に起きること』を知っていると言った。そのとおりに、すべて起きた。干ばつも、疫病も」
殿下の指が、私の目もとの涙をぬぐう。
「それに、剣を向けられても震えなかった娘が、ルドヴィクの名を聞くたびに、指を握りしめていた。理由がやっとわかった」
「気づいて、いらっしゃったのですか」
「妻のことだ。気づく」
殿下の声が、かすかに低くなった。
「その人生の私は、何をしていた」
「存じません。お会いしたことが、なかったので」
「そうか。ならば、その人生の私を殴りたい。お前が泣いているときに、会いに行かなかった男を」
「殿下、それはご自分を殴るということで」
「かまわん」
大真面目に言うのだから、たまらない。泣きながら、私は笑ってしまった。
殿下は、懐から小さな守り袋を出した。
中には、白い花の押し花が入っていた。私の力で色を取り戻した、あの額の花だ。
「額から外して、ここへ移した。国境へ行くときは、これを懐に入れていく。昔から、戦のたびにそうしてきた。何度も死にかけたが、不思議と、これがあると生きて戻れた」
「そんなものに、頼らないでください」
「頼ったのは、花ではない。お前だ」
顔が、熱い。真顔で言わないでほしい。
殿下は、私を強く抱き寄せた。
雪と、炭と、少しだけ革のにおい。ごつごつした腕が、びっくりするほどあたたかい。
「今度は、私が守る。百年でも」
「百年は、長いです」
「足りないくらいだ。百年たったら、また百年、頼む」
顔を上げると、殿下の目が、すぐそこにあった。
「シルヴェスター様」
初めて、その名を口にした。
殿下の動きが止まる。耳の先から、みるみる赤くなっていく。
「もう一度」
「シルヴェスター様」
「もう一度」
「何度でも呼びます。ですから、ずっと、そばにいてください」
返事はなかった。代わりに、唇がふさがれた。
結婚式の口づけは、契約だった。これは、違う。長くて、やさしくて、息の仕方を忘れてしまうくらい、本物の。
暖炉の火がはぜる。契約書の灰が、赤い光のなかで崩れた。
窓ガラスに走っていた霜の花が、しゅうと音を立てて溶けていく。この人は氷の魔法を使う。心が揺れると、周りの空気が凍る人だ。凍っていたのは、さっきまでの緊張で、溶けたのは、今。
唇が離れたあと、氷の大公は耳まで真っ赤だった。
「氷の大公が、溶けていらっしゃいます」
「見るな」
「見ます。妻ですから」
「意地が悪い」
「どなたに似たのでしょう」
「私だ」
即答して、殿下がそっぽを向く。その横顔が、七つの日に見た、血まみれの青年の顔と重なった。
あの日も、この人は、こうして目をそらした。
殿下は私を抱き上げて、暖炉の前の長椅子に座らせた。自分の外套を肩にかけ、足に毛布を巻き、手には湯気の立つ茶碗を持たせる。
「寒くないか」
「暖炉の前ですもの」
「寒くないか」
「……少し寒いです」
嘘だった。けれど、殿下は満足そうに、もう一枚、毛布を足した。
扉の向こうで、イレーネが鼻をかむ音が、盛大にひびいた。
「イレーネ。聞こえているぞ」
「ぞ、存じません! 私は何も聞いておりません!」
足音が、ばたばたと逃げていく。二人で顔を見合わせて、声を殺して笑った。
それから、ひと月ほどあとのこと。
朝の雲苺の茶の湯気が、急に鼻について、私は口を押さえて席を立った。イレーネが真っ青になる。
「奥様! お医者さまを!」
「大げさよ。少し、胃が」
「大げさなものですか!」
その日の午後、祖父のアンブロスが、杖も持たずに屋敷へ駆けつけた。
寝台の脇に座り、私の手首に指を当てる。目を閉じ、脈を数える。
祖父の眉が上がった。もう一度、指を当て直す。
目が、まん丸に開いた。
「お祖父さま? 私、どこか悪いのですか」
祖父は答えなかった。杖がないのに、杖を取り落とす手つきをした。それから、両手で顔をおおった。肩が揺れている。
やがて、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、言った。
「おめでとう、アマリア」




