第21話 民が呼ぶのは、第一王子の名
秋風が冷たくなったころ、北の領から早馬が着いた。熱病が広がっている、という報せだった。
「奥様、村がいくつも閉じられているそうです」
読み上げるイレーネの声が固い。
「一周目と同じね」
前の私は、この秋の熱病で、治癒師を北へ送る策を立てた。それを陛下に申し上げたのは、ルドヴィク殿下だった。
今度は、誰の名も借りない。
「お祖父さまをお呼びして」
半刻後、前・宮廷医師長の祖父アンブロスが、杖をついて書斎に入ってきた。国中に弟子を持つ人だ。報せを聞くなり、白いひげをしごく。
「北なら、弟子が三十人はおる。熱の山を越えさせる術は教えてある。薬と一緒に送り出そう」
「費用は王弟家から出します。殿下のお許しは、私がいただいておきます」
「頼もしいのう。ところでアマリア、熱冷ましに使う白根草が、市場から消えておる」
イレーネが身を乗り出した。
「それです、奥様。産地をそっくり押さえた方がいるんです。第四王子殿下の側妃、ミレイユ様。値は十倍だそうです」
「しかも奥様、商人の前でこう笑ったそうです。『熱が出た村ほど、よく売れるわ。払えない村は、死んでから静かになるもの』と」
イレーネの声が震えた。怒りで。
「懲りない子ね」
懲りないどころではない。人の命を、秤にかけている。前の人生の私を殺したときの笑い顔が、胸の奥でちらついた。
ミレイユが覚えているのは、疫病のあとに殿下が名を上げた、という結果だけ。どうやって上げたかは知らない。だから、儲け話だと思いこんだのだろう。
「民の熱を、値札にするとはの」
祖父が低くつぶやいた。
その夕方、北の村の長老から、震える字の手紙が届いた。
「王弟妃さまのお遣わしになった治癒師さまのおかげで、孫の熱が下がりました。名も知れぬわたしどもに、なぜここまで」
読み終えたイレーネが、鼻をすすった。
「奥様。この方に、お返事を」
「ええ。『名が知れぬ者こそ、救うのが王家の務め』と書いて」
「それ、どこかで聞いた言葉です」
「シルヴェスター殿下の口ぐせよ。私は拝借しただけ」
手紙を胸に当てる。前の私は、誰かの名前の陰で、手柄を渡しつづけた。今度は、私の名が呼ばれて、感謝される。
悪くない。いえ、とても、いい気分だ。
三日後、私は王宮の玉座の間に呼ばれた。
王宮へは、銀の車体に氷の紋章を刻んだ、天馬車で向かう。翼のある白馬が四頭で引き、空を飛ぶ馬車だ。王家と王弟家にだけ許された乗り物で、眼下に、秋の王都が畳んだ布のように広がった。
「揺れるか」
向かいで、シルヴェスター殿下が私の膝に毛布をかけた。
「いいえ。殿下の手のほうが、よほど心配性で揺れています」
「気のせいだ」
気のせいではない。毛布は、もう三枚目だった。
玉座にはアルブレヒト陛下。左にニコラウス殿下、右にルドヴィク殿下が並ぶ。
「王弟妃。北へ治癒師を送ったのは、そなたと聞いた」
陛下の声は静かだった。静かなほど、怖い声だ。
「祖父の弟子たちです。すでに三つの村で、熱が引きはじめたと報せがありました」
「よくやった」
陛下の視線が、右へ動く。
「ルドヴィク。民が熱で死ぬ秋に、薬草を十倍の値で売らせたそうだな」
殿下の肩が跳ねた。
「ち、父上、それは誤解です。私は何も」
「産地を買い占めたのは、お前の屋敷の者だ」
「ミレイユが勝手にやったことです! 私は知りません!」
息つぎもせず、自分の妃を切り捨てた。居並ぶ貴族たちが、扇の陰でひそひそと笑う。「また奥方のせいか」「あの方は、いつもそうだ」。笑い声は小さいのに、殿下の耳たぶが、みるみる赤く染まっていく。
ニコラウス殿下が、困ったように目を伏せる。
「父上、弟はまだ若く」
「若さは言い訳にならぬ。愚かさで、民は死ぬのだ。ルドヴィク、産地は王家が取り上げる。得た金は一枚残らず北へ返せ。下がれ」
真っ赤な顔で退く殿下が、私の前を通るとき、歯のあいだから吐き捨てた。
「お前の差し金か」
「殿下。王弟妃に向かって『お前』とは、まだお直りになりませんの」
殿下の口が、ぴくりと動く。
そのとき、背後で空気が冷えた。床石の上を、霜が一筋、音もなく走る。
「甥よ。今、私の妻を何と呼んだ」
シルヴェスター殿下が、私の肩に手を置いていた。声は低く、静かだ。それなのに、近くの燭台の魔石灯が、ぱちぱちとまたたいた。
「叔母上、です」
「聞こえなかった」
「叔母上! 叔母上と、申しました!」
「はい、甥御さま」
にっこり笑うと、殿下は足音も荒く出ていった。
冬の入り口、国境から狼煙が上がった。
魔物の群れが、雪を越えて押し寄せたのだ。魔物とは、北の山奥から降りてくる、牙と爪をもつ獣のこと。数年に一度、冬のはじめに現れる。
出陣の朝、玄関でシルヴェスター殿下に外套を着せかけた。
「十日で戻る」
「二十日はかかります」
「なぜわかる」
「妻の勘です」
殿下は、ほんのわずかに口の端を上げた。人前では決して見せない顔だ。
「待っていろ。眠れるうちに眠れ。それと、これを」
殿下が差し出したのは、小さな箱だった。蓋を開けると、星蜜漬けの干し月林檎が、ぎっしり詰まっている。小さなかけらなので、数えられる。
「お前の好物だ。十日分、数えて入れてある」
「覚えていてくださったのですか」
「お前のことは、何でも覚えている」
殿下は、箱の蓋をそっと閉じて、私の手に載せた。
「好きな菓子も、好きな色も。考えごとをするとき、指を握りしめる癖も」
思い出した。まだ婚約もしていなかった朝、伝書の小竜が、湯気の立つ月林檎の星蜜焼きを届けてくれたことを。あのころから、この人は、ずっと私を見ていてくれたのだ。
箱を胸に抱くと、甘い星蜜の香りがした。
「眠れるかどうかは、お約束できません。それに、十日分では足りません」
「では帰りに買ってくる」
「二十日は先です」
「それまでに、食べ尽くすなよ」
殿下の手が、私の頬に触れて、すぐ離れた。
そのまま竜騎士たちとともに、北の空へ飛び立っていく。先頭に、ブランシュの白竜ネージュが見えた。
ユリウスは、屋敷の門をくぐるたびに干し月林檎の箱を見て、ごくりと喉を鳴らした。
「姉上、干し月林檎がもう四日目で、残り六つですよ」
「数えているの?」
「数えてるだけです。食べてません」
「口のまわりの砂糖は?」
「……風で飛んできたんです」
出陣は王子たちにも求められた。ルドヴィク殿下は「自分の領地を守る」と言って、私兵を領地の砦に引きこもらせたという。
「国境は叔父上の仕事、だそうです」
イレーネが鼻を鳴らした。
「それで市場の子どもたちが、歌っているんです。『民を救うは白い王子、財布を守るは赤い王子』って」
「白い王子は、ニコラウス殿下ね」
「はい。みんな『第一王子殿下こそ』と言っています。奥様、風が変わりましたよ」
風は、変わる。変えるのだ。前の私がやり遂げた方向とは、逆向きに。
二十三日目の真夜中。
玄関の扉が開く音で、私は飛び起きた。
雪まみれのシルヴェスター殿下が立っていた。まつげに霜がつき、手の甲は赤くひび割れている。
「殿下」
「起きていたのか」
「二十三日、眠れませんでした」
「……私は、二十日で戻るつもりだった」
「三日も遅れました」
「雪が深かった」
まるで叱られた子どものような顔だ。私は殿下の両手を取った。氷のように冷たい。自分の手で包んで、息を吹きかける。
「痛くありませんか」
「痛い。だから、このまま」
殿下は、私の肩に額をのせた。
重い。冷たい雪のにおい。生きて戻ってきた人のにおい。
あとで竜騎士たちが教えてくれた。魔物の群れが国境の谷を埋めたとき、シルヴェスター殿下は一人で前に出て、手を振り下ろしたのだという。谷いっぱいに氷の槍が生えて、群れの足が止まった。氷の大公の名は、伊達ではない。ただ、私の前では霜一つ、まとわせない人だ。
どれくらいそうしていたのか。殿下が小さな声で言った。
「魔物は、すべて退けた。北は静かだ」
「お疲れさまでした」
「妻の顔を見るために、凍らせた」
「それは、少し物騒です。あの、殿下。懐が、ふくらんでいます」
殿下が、ばつの悪い顔で懐から紙袋を取り出した。星蜜漬けの干し月林檎が三かけ、少しつぶれて入っている。
「途中の宿場で買った。戦場でも、これだけは砕かなかったつもりだったが」
「三つだけ、ですか」
「三日、遅れたぶんだ」
笑ったとたん、目の奥が熱くなった。泣いてはいけない。ここで泣くのは、まだ早い。
窓の外で、羽ばたきの音がした。
庭に白い竜が降り立っている。ブランシュが鞍から降りて、雪を払いながら近づいてきた。
「王弟妃殿下、夜分に失礼します。ご報告が」
いつもさっぱりと笑う人が、笑っていない。
ブランシュは、私にだけ聞こえる声で言った。
「陛下が、私と第四王子殿下の縁談を、正式に決められました」




