第20話 前世の知識・干ばつ
前の人生の夏、南の地に、大きな干ばつが来た。
雨が降らない。川が細る。畑は割れ、麦は枯れる。民は山に入って木の根を掘り、それでも足りず、街道には飢えた人が座りこんでいた。
それを救ったのが、穀物の蓄えと、深い井戸を掘る策だった。
あれを考えたのは、私だ。夜を徹して、地図を広げ、倉の数を数え、どこの井戸が涸れるかを書きつけた。ルドヴィク殿下は、それを自分の名で、陛下に差し出した。
そして、「干ばつを救った王子」と呼ばれるようになった。
二度目の人生では、同じ策を、別の人に渡した。
「備蓄は、ひと月前に、南の五つの倉に運び終わりました」
第一王子の宮で、ニコラウス殿下が報告書を読み上げる。顔色は、ずいぶん良くなった。頬に、うっすらと赤みがある。
「井戸も、十二か所、掘り終えました。すべて、あなたの地図のとおりに」
「ありがとうございます、殿下」
「いえ、お礼を言うのは私のほうです。ですが、本当に雨は降らないのですか。今のところ、空は晴れていますが」
「降りません。夏の終わりまで、一滴も」
断言した私に、ニコラウス殿下は、微笑んで頷いた。
「あなたが言うなら、そうなのでしょう」
一方、第四王子邸では。
ミレイユが側妃に落ちたあとも、屋敷の中の争いは終わっていなかった。ただミレイユには、一つだけ武器が残っていた。それが、前の人生の記憶だった。
「殿下、聞いて。今年の夏は、ひどい日照りになるわ」
ミレイユが、ルドヴィク殿下の袖を引いていた。あとで、イレーネがあちこちの口から拾い集めた話だ。
「夢で見たの。南の地が干上がって、小麦が高騰するの。今のうちに、小麦を買い占めておけば、大もうけできるわ」
殿下は乗った。借金までして、各地の小麦を集めた。
私はそれを聞いて、思わず笑ってしまった。
◇ミレイユ◇
夜の裏通りは、嫌な匂いがした。
私は黒い外套のフードを深くかぶり、狭い路地の奥の酒場へ入った。薄暗い蝋燭の灯り。ここは魔石の灯りなど買えない連中の巣だ。
奥の卓で、顔に傷のある男が、骨付きの肉をかじっていた。
「ほう。お貴族のお嬢さまが、こんなところへ」
「南の街道を、近いうちに王弟妃の馬車が通るわ」
私は袋を卓に置いた。金貨が鳴る。
「井戸の視察。護衛は少ない。日取りは、ここに書いてある」
「で、何をすればいい」
「顔に傷をつけて」
男の手が、止まった。
「あの人の顔よ。二度と人前に出られないように」
「殺せ、じゃないのか」
「殺したら、姉は美しいまま、死んで終わりでしょう」
私は笑った。自分の声が、乾いて聞こえた。
「生きて、鏡を見るたびに私を思い出せばいいの。大公は顔の傷ついた妻なんて、ほどなく飽きるわ」
男が、舌なめずりをした。
「よし。影狼の足なら、馬車は追いつけねえ。やってやるよ」
◇アマリア◇
夏が来た。
最初のひと月は、何も起きなかった。晴れが続いたけれど、まだ、いつもの夏の範囲だった。
その月の終わり、私は南の街道を、馬車で進んでいた。完成した井戸の視察だ。ユニコーンの馬車は、公爵家の古い馬車で、私の合図だけで駆けてくれる。護衛はユリウスと、騎士が四人。
「姉上、いい天気だなあ」
馬に乗って並走するユリウスが、空を見上げる。
「でも、本当に雨が降らないのか。こんなに青いのに」
「降らないのよ」
「姉上の言うことは信じるけどさ」
ユリウスは、にこにこしていた。この子の笑顔が、私の宝物だ。
そのときだった。
ユニコーンが、急に立ち止まった。
耳を伏せる。鼻を鳴らして、後ろ足を蹴る。心の清いものにしか、なつかない一角獣は、悪意の匂いに敏い。
「姉上」
ユリウスの声が、低くなった。
「森から、何か来る」
木々の影から、黒いものが飛び出した。
影狼。馬ほどもある狼型の魔獣だ。黒い毛並みが夜のように闇を吸い、赤い目が光る。その背に、剣を持った男たちが乗っている。十人を超える。
「盗賊だ! 姉上、馬車から出るな!」
ユリウスが剣を抜く。騎士たちが前に出る。
影狼の群れは、あっという間に馬車を取り囲んだ。唸り声が耳を打つ。
「女は殺すな!」
先頭の男が叫ぶ。傷のある顔。
「顔に傷をつけろ! 金をもらってるんだ!」
誰に。
考えるまでもなかった。
馬車の扉が、乱暴に引き開けられた。
男の手が伸びる。短剣が、陽に光った。
私は、動けなかった。
一度目の人生で、私は剣に刺されて死んだ。あの感触が、胸に蘇る。
「姉上に触るな!」
ユリウスが、飛び込んできた。
剣が、短剣を弾く。けれど、もう一本の刃が、ユリウスの腕を裂いた。赤い筋が、袖に走る。
「ユリウス!」
「大丈夫、浅いよ、姉上。かすり傷」
歯を食いしばって、ユリウスが笑う。
この子は、一度目の人生でも、こうして私の前に立った。
今度こそ、守らせはしない。
私は、窓の外に手を伸ばした。馬車の脇の草むらに、小さな野花が咲いている。手のひらに、淡い光が集まる。
「咲いて」
小さな力。戦う力ではない。
けれど草むらの花が一斉に膨らみ、蔓が伸びて、影狼の足にからみついた。ほんの一瞬、狼が足を取られる。
「今だ!」
騎士たちが踏み込む。
その瞬間だった。
空気が、凍った。
夏の日差しの中、馬車の周りの草が、一斉に白く霜をまとった。
影狼たちが、足を止める。尾が、地面に凍りつく。
蹄の音。
一頭の黒馬が、街道の向こうから矢のように駆けてくる。その背に、黒い外套の人。
「殿下」
声が出ていた。自分でも驚くほど、震えた声だった。
シルヴェスターが、馬の背から跳んだ。
その右手に、氷の槍が生まれる。透きとおった青い槍。長さは人の背丈を超える。
一閃。
影狼の背から、男が三人、まとめて落ちた。氷の槍が地面を貫き、霜の柱が立ち上がる。
「ひ、ひいっ」
傷のある男の顔が引きつった。
「大公、だと。聞いてねえ」
「誰に頼まれた」
低い声。地面の霜が、男の足首に這いのぼる。
「言え」
「ひ、ひとの、ご婦人、栗色の髪の、若い」
男の言葉は、そこで途切れた。氷の槍の柄が男のみぞおちを打ち、男は白目をむいて崩れ落ちた。
シルヴェスターは槍を引き抜き、一振りして、凍った影狼たちの群れを見渡した。残った男たちは、悲鳴を上げて逃げ出していく。狼たちも、霜の足を引きずって森へ消えた。
静けさが戻る。
シルヴェスターは、槍を霧のように消して、私の馬車へ歩いてきた。
足が、速い。
扉の前で、立ち止まる。
手が、震えていた。
戦場の英雄の手が。
「アマリア」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
「見せろ」
大きな手が、私の頬を包んだ。親指で、頬の骨をなぞる。顎。耳の下。額。
「傷はないか」
「ありません。殿下」
「本当か」
「本当です」
「嘘だったら、私は」
声が、途中で途切れた。
額を、私の額に押し当てる。呼吸が荒い。
「胸騒ぎがした。朝から、嫌な予感がしていた。会議を放り出して、ここまで駆けた。間に合って、よかった」
私は、頬に触れる手の上に、自分の手を重ねた。
「間に合いました。ありがとうございます」
シルヴェスターは、顔を上げなかった。しばらく、そのままでいた。
ユリウスの腕は、治癒師が呼ばれて、淡い光で塞がれた。
「かすり傷だって言ったのに」
「かすり傷でも、姉上に叱られるよ」
「叱るわよ」
私は弟の頭を抱きしめた。この子が生きている。今度は、ちゃんと、手の中にいる。
男が口にできたのは、「栗色の髪の、若い婦人」の一言だけ。
証拠としては、細い糸にすぎない。けれど、思い当たる人間は、一人しかいなかった。
「殿下。まだ、動かないでください」
「なぜだ」
「一本の線にするためです。ここで斬っても、尻尾切りにされます」
シルヴェスターは、奥歯を噛んだ。
「お前に何かあれば、私は」
「ええ。でも、ありません」
私は笑ってみせた。氷の大公の肩から、少しだけ力が抜けた。
夏の盛りが来た。
二月目から、川が細りはじめた。
三月目には、南の地で、田が割れた。
雨は、一滴も降らなかった。
「第一王子殿下が、備蓄を放出されました!」
王宮に、急報が飛んだ。
南の五つの倉から、麦が配られる。井戸から、清水が汲まれる。痩せた子どもに、粥が配られる。
ニコラウス殿下は、倉の前に立って、自分の手で袋を持ち上げた。
「ひとりも、飢えさせるな」
民は、その背中に、泣きながら頭を下げたという。
そのころ、第四王子の倉庫には、小麦が山のように積まれていた。
「殿下、そろそろ、売り時です」
「ああ、倍で売れ。いや、三倍だ」
ルドヴィク殿下は、勝ち誇った顔だった。
その笑顔が崩れるまで、十日もかからなかった。
民が買いに来ない。第一王子の倉から、ただ同然の値で、麦が配られているからだ。
さらに悪いことに、第四王子の買い占めのせいで、北の市場の麦が値上がりしていた。
「第四王子殿下は、民が苦しむのを見て、暴利をむさぼろうとした」
そんな噂が、王都に広がった。
陛下は、謁見の間でルドヴィク殿下を呼びつけた。居合わせたユリウスが、あとで教えてくれた。
「姉上、あれは見ものだったよ。陛下が『民から奪って、肥えようとするとは何事か』って、雷みたいで」
「殿下は何と?」
「『それは、ミレイユの助言で』って、ミレイユのせいにしてた。ミレイユは、顔が真っ白で、床を見てたよ」
数日後、イレーネが駆け込んできた。
「奥様、ミレイユ様が、王都の市場で叫んでおられたとか。第四王子の倉庫の前で、積み上がった売れない小麦を見て」
「叫んで?」
「『なんで』『なんで、こうなるの』と。それから、こうも。『前の人生では、殿下は干ばつで名を上げたのに』と」
私は、静かに雲苺の茶を置いた。
窓の外の空は、青く、雲ひとつない。
ミレイユ。あなたは知らないのね。
前の人生で、干ばつを乗り切る策を考えたのは、殿下ではない。
夜を徹して地図を広げていた、私だったのよ。




