閑話 湖の離宮で、氷が溶ける
夏のはじめ、私たちは湖の離宮へ向かった。
銀の天馬車が二台。一台には私とシルヴェスター。もう一台には、母のドロテアと祖父のアンブロス、それからなぜか、荷物の半分を占める祖父の薬箱。
「お祖父さま、遊びに行くのですよ」
「遊びでも病人は出る。備えあれば憂いなしじゃ」
「誰が病人になるのですか」
「わからんから備えるのじゃ」
母が、馬車の窓から身を乗り出して笑っている。頬が丸くなって、風に髪がなびく。二年後に亡くなるはずだった人が、空の上で笑っている。
それだけで、もう今日は十分だった。
湖の離宮は、青い水の真ん中に浮かぶ白い館だった。
岸から細い桟橋が延び、水面には夏の光が砕けている。向こう岸の森は深い緑で、遠くの山の頂に、まだ雪が残っていた。
「きれい」
「ここは、兄上の別邸だった。私が借りた」
「借りた?」
「お前に、見せたかった」
さらりと言う。母が祖父の袖を引いて、目配せしているのが見えた。
昼食は、湖畔の東屋で、みんなで取った。
母は、焼いた川魚を口に運んでは、何度もうなずいている。祖父は、シルヴェスターに星葡萄の酒の杯を勧めた。
「坊主、飲め」
「アンブロス殿。私はもう二十九だ」
「わしから見れば坊主じゃ。傷だらけで運ばれてきたころは、ひと言もしゃべらんかった。それが、嫁をもらって、こんなに顔が緩んで」
「緩んでいない」
「緩んでおる。孫が泣いていないか、夜通し心配した顔じゃ」
母が吹き出し、私は赤くなる。シルヴェスターは、杯を持ったまま黙って、それから低く言った。
「泣かせはしない」
「聞こえんぞ」
「泣かせは、しない」
祖父は満足そうに杯を干した。完全に、孫バカの顔だった。
午後、母と祖父は昼寝に、私とシルヴェスターは小舟に乗った。
小さな木の舟。櫂は一本。シルヴェスターが漕ぐ。氷の大公が、櫂を握っている光景は、なんだか可笑しかった。
「何を笑っている」
「殿下が、船頭のようで」
「船頭は、嫌か」
「嫌ではありません。似合います」
湖の真ん中で、シルヴェスターが櫂を置いた。水の音だけがする。舟がゆっくりと揺れる。
水面から、小さな魚が跳ねた。
「あ」
私は思わず身を乗り出した。
「アマリア」
「見てください、あの魚、羽根が」
羽の生えた小さな魚だった。水面を滑るように飛んで、また潜る。この湖の名物の羽魚らしい。
「危ない」
舟が傾いた。
私の体が、水面に向かって傾く。シルヴェスターの手が伸びて、私の腕をつかんだ。
そのまま、二人とも。
ばしゃん、と大きな音がした。
水が、冷たい。いや、思ったほど冷たくない。夏の水は、肌に気持ちよかった。
水面に顔を出す。目の前に、同じように顔を出した、ずぶ濡れのシルヴェスターがいた。
髪から水が滴っている。濡れた黒髪が額に張りついている。
目が、合った。
沈黙が三秒。
「ふ」
シルヴェスターの口から、小さな音が漏れた。
「ふ、はは」
笑った。
声を出して、笑った。
水の中で、頭の先までずぶ濡れの氷の大公が、肩を揺らして、大きな声で笑っている。目尻に皺が寄る。白い歯が見える。
私は、息をするのを忘れた。
こんなに楽しそうに笑う人だったのか。
「殿下」
「すまない。お前が、羽の生えた魚に気を取られて」
「落ちたのは、殿下も」
「お前が引っ張ったからだ」
「殿下がつかんだからです」
言い合いながら、二人とも、笑いが止まらない。
岸の東屋では、昼寝から起きた母と祖父が目を丸くして見ていた。ずぶ濡れの二人が、湖の真ん中で子どもみたいに笑っている。
その夜、離宮の暖炉の前で、私は濡れた髪を拭いていた。
着替えて、湯に入って、夕食を食べて、母たちが早く床につき、ようやく静かになった。
シルヴェスターが、乾いた布を持って、私の後ろに立つ。
「貸せ」
「自分でできます」
「できるが、貸せ」
大きな手が、髪をすくった。布で包んで、ゆっくりと拭いていく。指が、時々首筋をかすめる。くすぐったい。
「殿下は、手が器用ですね」
「戦場では、馬の毛を拭いた」
「私は馬ですか」
「馬は、こんなにおとなしく拭かせてはくれん。暴れて、噛みつく」
「では、私のほうが、お行儀がよいのですね」
「ああ。それに」
布ごしに、大きな手が、私の頭をぽんと包んだ。
「馬より、ずっとかわいい」
「……馬と、比べないでください」
笑う声が、背中に落ちる。暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
窓の外は、星だった。
湖の上に、数えきれない星が散っている。二人で、テラスに出た。夜風が、少し冷たい。
毛布を肩にかけてくれて、並んで手すりにもたれる。
「アマリア」
「はい」
「今日は、楽しかった」
「私もです」
「こんなに笑ったのは、いつ以来か、わからない」
シルヴェスターは、遠くの星を見ていた。
「私は、広い宮の、一番奥の部屋で育った」
声が、静かだった。
「母は早くに亡くなった。兄上とは歳が離れていて、会うのは年に数度だった。食事は、毎日一人だった。長い食卓の端で、スープを飲んでいた。皿の音が、広間に響くのが、嫌だった」
私は、黙って聞いていた。
「十四のとき、国境へ送られた。厄介払いのようなものだった。氷の魔法が強すぎて、周りが怖がったから」
氷の魔法。怒ると窓に霜が走り、空気が凍る。力があるばかりに、遠ざけられて育った子どもの姿が、胸に浮かんだ。
「戦場は、静かだった。人を斬るたびに、自分の中が凍っていく気がした。笑い方を、忘れた」
「殿下」
「十九の初陣の帰り、馬の上で、誰の顔も見られなかった。あのまま凍りついて、二度と人の顔を見られなくなると思っていた」
シルヴェスターは、少しだけ口もとをゆるめた。
「そこへ、お前が飛び出してきた」
七つの私。馬車を飛び出して、血まみれのあの人の前に。
「押し花の話は、もうしたな。だが、言っていなかったことがある。あの花が咲いたとき、私は初めて、生きて帰ってきてよかったと思った」
花の加護。私が咲かせた、小さな花。
喉が詰まった。
「それは、はじめてうかがいました」
「言えなかった。重い男だと思われる」
「もう、十分に重いです」
「そうか」
シルヴェスターは、私の手をとった。
冷たいはずの指が、あたたかい。
「契約でも何でもいい。お前が隣にいる夏が、あと何回あるのか、数えたくなった」
「殿下」
「それだけだ。今は、それだけでいい」
私は、何も言えなかった。
かわりに、握られた手を、握り返した。
シルヴェスターが、懐から小さな氷の粒を取り出した。手のひらの上で、粒がふっとほどけて、透きとおった氷の花が咲く。
夏の夜の熱の中でも、溶けない。ほんのり、青い光を帯びている。
「やる」
「溶けないのですか」
「私が溶かさない限りは」
「まあ」
私は氷の花を両手で受け取った。冷たいのに、胸の奥があたたかくなった。
「大切にします」
「花の加護の礼だ」
「私は何もしていません」
「していた。七つのときから」
夜が更けた。
寝室に戻ると、寝台は、ひとつしかなかった。
それは、新婚の私たちのためで、今に始まったことではない。けれど、背中を向け合って眠る夜と、今夜とは、違う気がした。
魔石灯を落とす。
「アマリア」
「はい」
「手を、つないでも、いいか」
「はい」
暗闇の中で、指と指が絡まる。
ぬくもりが、手のひらから腕へ、胸へと伝わった。
「殿下の手は、冷たいはずなのに、あたたかいです」
「お前が、あたためた」
静かな呼吸が隣にある。湖の水音が、遠くで揺れている。
契約の夫のはずの人の手を握ったまま、私は眠りに落ちた。
夢の中で、小さな私が、白い花をまたあげていた。
今度は、あの人が、笑って受け取ってくれた。




