第19話 母を毒した手
祖父の屋敷の門に、銀の天馬車が降りた。翼のある白馬が羽をたたむと、庭の鶏が逃げ出した。
庭では、母のドロテアが、花の水やりをしていた。
「お母さま」
「あら、アマリア。ちょうどよかった。この百合、咲いたのよ」
つばの広い帽子の下で、母が振り返る。頬に赤みがさしている。足取りもしっかりしている。
二年後に病で亡くなるはずだった人が、土の匂いのする手で、私に花を差し出している。
「泣かないの。あなたは、泣き虫ねえ」
「泣いてません」
「泣いているわよ」
母に抱きしめられた。ずっと、こうしてほしかった。
「それで」
母は私の頬を両手で挟み、いたずらっぽく目を細めた。
「氷の大公は、あなたに優しくしてくれるの?」
「お、お母さま」
「手紙に、月林檎の星蜜焼きの話が三回も出てきたわよ」
顔が熱くなる。祖父が縁側で、わざとらしく咳をした。
「わしの孫を泣かせたら、あの坊主、氷ごと叩き割ってやる」
「お祖父さま、大公殿下を坊主と呼ばないでください」
「坊主は坊主じゃ。傷だらけで運ばれてきた十九のころから、坊主じゃ」
母と顔を見合わせて、また笑った。笑える幸せを、嚙みしめた。
一度目の人生で、母の最期の顔を、私は覚えている。やせ細って、枕の上で、小さく笑っていた。あの顔を、もう二度と見ずに済む。
「お祖父さまの薬草茶が、よく効いたのよ。まずいけれどね」
「まずいとは何じゃ、ドロテア。わしが十年かけて調合した」
縁側から、祖父がぶつぶつ言いながら顔を出した。母と私は目を見合わせて、声を揃えて笑った。
そこへ、門のほうから馬の音がした。
「奥様、旦那様がお見えです」
祖父の家の使用人が、おずおずと告げる。
「通してちょうだい」
母は帽子を脱ぎ、乱れた髪を手で撫でつけた。背筋が、すっと伸びる。その横顔を見て、私は思った。この人は、今日のために、体を治したのだと。
父のヘルムートが来たのだ。母が療養に出てから、父が見舞いに来るのは、初めてだった。
庭に出てきた父は、母を見て、足を止めた。
「ドロテア」
「あなた。お久しぶり」
「顔色が」
父は、言葉を探している。
「ずいぶんと、よくなったな」
「ええ。おかげさまで、毎日、よく食べて、よく眠れます」
「私は、おまえが重い病だと聞いて」
「誰から?」
母の声は、穏やかだった。穏やかなぶん、冷たかった。
「ヨランダから、です」
「そう」
母は、水差しを置いた。
「アマリア、あれを」
私は頷いて、侍女に合図した。奥の部屋から、ひとりの女が連れてこられる。
縄で手を縛られた、ヨランダ付きの侍女だった。
母の薬湯を運んでいた侍女だ。三日前、祖父の弟子とシルヴェスターの騎士が捕らえた。家に病気の親を抱える女で、ヨランダに逆らえなかったらしい。毒を運んだ罪は軽くない。それでも、真実を話すなら命は取らないと約束すると、ついに口を開いた。
侍女は私を見るなり、ひれ伏した。「命だけは」と何度も繰り返す。
「お父さま。この者が、お母さまの薬湯に毒を入れておりました」
「何を言う。ヨランダが」
「ヨランダ様のご命令でございます」
侍女が、床に額をつけた。
「毒は、イゾルデ様の宮の薬師から、ヨランダ様が受け取っておいででした。月に一度、小瓶を。それを、毎日、奥様の薬湯に」
父の顔から、血の気が引いていく。
「でたらめだ。ヨランダは、そんな女ではない。私の」
「あなた」
母が、静かに言った。
「この侍女の、袖の中にあった小瓶です」
祖父が、小さな瓶を卓の上に置いた。
「毒の成分は、第一王子殿下の香炉にあったものと同じです」
父は、瓶を見た。
卓の上の小瓶が、窓の光を受けて、にぶく光る。ヨランダの優しさの味と同じ、甘い香りがした。
ヨランダは、いつも優しかった。父の肩を揉み、足を洗い、「旦那様のお疲れが気がかりで」と涙ぐんだ。その優しさの裏で、母の薬湯に何が注がれていたのか。
父は、ようやくそれを思い描いたのだろう。唇が、色を失っていった。
何度も瞬きをして、侍女を見た。母を見た。私を見た。
「そんな」
声が、かすれる。
「十年、いや、それ以上。私の家で、私の妻が、私の目の前で、毒を」
膝が折れた。
父は、その場に崩れ落ちた。両手を地面について、肩が大きく震えている。
「私は何を信じていたんだ」
母はその前に立って、冷たく見下ろした。
「あなたが信じた人に、私は殺されかけたのですね」
父は、顔を上げられない。
「ドロテア、すまない。私は、私は」
「謝罪は聞きません。聞くのは、あなたがこれから何をなさるか、だけです」
母は、父に背を向けた。私は少し、驚いた。こんなに強い人だっただろうか。
いや、違う。
強い人だったのだ。毒に弱らされて、その強さを、誰にも見せられなかっただけで。
母は、崩れた父を、一度も振り返らなかった。かわりに、私の頬を両手で包んだ。
「アマリア。あなたが気づいてくれなければ、私は今ごろ、土の下だったでしょう。ありがとう」
「お母さま」
「でもね、これからは、あなたも自分の幸せを考えなさい。母のために戦うのは、もう十分」
その言葉は、まっすぐ胸に入った。涙があふれた。祖父が、そっと外を向いてくれた。
その日のうちに、ヘルムートはヨランダを屋敷から追い出した。
屋敷の門の前で、ヨランダは叫んでいたという。荷物を投げ出され、泥の中に座りこんで。「私は公爵様の妻になる女です」「ミレイユは王子妃です」。けれど、門は開かなかった。
ヨランダは、ミレイユと同じ顔で、道端の石を拾って門に投げたそうだ。門番の目の前で、角鹿の荷車が、ずるずるとヨランダの荷物を引いていった。行き場をなくしたヨランダが駆け込んだのは、一か所だけだった。
イゾルデ様の宮。
帰りの馬車で、祖父が言った。
「ドロテアの目が、昔に戻っておったな。あの子は強い子じゃ。ヘルムートが一生かけても、頭が上がらんじゃろう」
私は小さく笑った。
夜、王弟邸に戻って、そのことを報告すると、シルヴェスターは、書き物をする手を止めた。
「泣いたのか」
「少しだけ。母が、強くて」
「そうか」
シルヴェスターは立ち上がり、私の前に立つと、黙って頭を抱き寄せた。
「岳母殿が元気になったのだ。祝いをせねばな。夏のはじめに、湖の離宮へ連れていく。母君も、祖父殿も一緒にだ」
「湖の、離宮」
「お前は働きすぎだ。少しは遊べ」
命令の形で、優しいことを言う。私は笑って、頷いた。
それから、シルヴェスターは机に戻った。
「ヨランダが、イゾルデの宮に逃げ込んだか」
「はい」
「ならば」
シルヴェスターは、机の上に、三枚の紙を並べた。
一枚には「第一王子の毒」。一枚には「ドロテアの毒」。一枚には「口封じされた侍従」。
三枚の紙の上に、指で一本、線を引く。
ぜんぶ、イゾルデの宮に向かって集まる。
「アマリア」
シルヴェスターが、顔を上げた。
「これで、一本の線になったな」




