第18話 突き飛ばしたのは、正妃
◇カティア◇
夕食のあと、私は階段の上に立っていた。
手すりに片手を添えて、もう片方の手は、腹に当てている。少し膨らみはじめた腹は、私の命綱だった。
この子がいれば、私は一生、安泰。侍女から側妃になったのだから、これ以上の出世は、この子の力でしか望めない。
ただ、この半月ほど、体の調子がおかしい。
朝になると、腹の奥が引きつる。夕には下腹が重く、冷や汗が出る。医師は「悪阻の名残でしょう」と言ったが、悪阻はとうに過ぎたはずだ。
思い当たるのは、あの茶だけだった。
ミレイユ様が、ある日、侍女に盆を持たせて私の部屋を訪ねてきた。
「カティア。この前は、きつい言い方をしてしまったわ。お腹の子のために、滋養のお茶を毎朝届けさせるわね。仲直りの印よ」
殊勝な顔だった。目の奥が、ほんの少しも笑っていなかったのに、私はあの顔を信じたふりをした。正妃を敵に回すより、笑って受け取ったほうが得だと思ったから。
茶は、毎朝、運ばれてきた。琥珀色で、ほのかに甘い。ただ、最後に舌の奥に、土のような苦みが残る。薬草茶は苦いものだ。そう思って飲んだ。
けれど、今朝、飲み残した底の澱を見て、ふと気づいたのだ。
茶葉の匂いが、日によって違う。昨日より、苦みが濃い。
あの女は、何を入れている。
疑いが胸に落ちた、そのときだった。
「カティア」
背後で、冷たい声がした。
振り向くと、ミレイユ様が立っていた。魔石の灯りの下で、髪が乱れている。目の下が、ひどく暗い。
「何か御用でしょうか、奥様」
わざと、ゆっくり膝を折ってみせた。奥様と呼べとおっしゃったのは、この方だ。だから、言われたとおりにお呼びする。いちばん、いやみに聞こえるように。
「……白々しい」
「二度と殿下の前で、腹を撫でないで。見せつけているつもり?」
「見せつけてなど。大切なお腹ですから」
つい、笑ってしまった。
その笑いが、いけなかったのだと思う。
「やめなさいと言っているの!」
ミレイユ様が、私の肩をつかんだ。
「おやめください、奥様。階段の上です」
「どうして。どうして効かないのよ」
小さな声だった。誰に言ったのか、私にはわからなかった。
「効かない? 奥様、何を」
「あなたのせいで、私は笑いものよ。侍女のくせに、私より先に。何ひとつ、うまくいかなかった。茶も、あの女も、あなたの腹も」
茶。
背筋が、凍った。
「奥様、まさか、あの茶に」
「はなしてください。危ない」
もみ合った。爪が肩に食い込む。足が、段の端にかかる。
ふっと、手すりから指が離れた。
背中を押された。
世界が回った。天井。階段の木目。使用人の悲鳴。
体が叩きつけられる。何度か、跳ねた。
最後に床にたどり着いたとき、私は、腹を両手で押さえていた。
「いや」
声が出た。
「いや、いや、お願い、いや」
下腹に、熱いものが走る。何かが指のあいだから零れていく気がした。
私の子。
誰かが、私の名を呼んでいる。遠い。とても遠い。
誰かが叫ぶ。「医師を。早く、医師を」。殿下の声ではなかった。殿下の声は、どこにもなかった。
視界の端で、階段の上のミレイユ様が、両手で口を押さえて立ち尽くしていた。
運ばれていく途中、天井の魔石の灯りが、ぐるぐると流れて見えた。殿下の顔が、一度だけ私をのぞきこんで、すぐに目をそらした。
あの人は、血が苦手なのだ。
その先は、よく覚えていない。ただ、治癒師の手の光が淡く灯っていたこと。誰かの泣く声と、侍女たちが走り回る足音と、私の声にならない声だけが、夜の中に残った。
あの茶だ。
あの茶の苦みを、私は、舌の奥で、ずっと覚えている。
◇アマリア◇
知らせを受けた夜、私は一睡もできなかった。シルヴェスターの屋敷の窓から、遠く王子邸の明かりが見える。誰かが慌ただしく出入りしているのか、灯りが何度も揺れた。
翌日の昼、イレーネが王子邸の様子を報告に来た。
いつもの得意げな口調ではなかった。目が赤い。
「カティア様は、お命はとりとめました。ただ」
「ただ?」
「お子様は、助かりませんでした」
私は、手に持っていた刺繍の針を置いた。
胸の奥が、すっと冷えた。
「そう」
「イゾルデ様は、それは激しくお怒りで。初孫を失ったと。ミレイユ様を王子邸の広間に呼びつけ、使用人の皆さまの前で、叱りつけられたそうです」
「ミレイユは、何と」
「『勝手に落ちたのよ! 私は何もしていない!』と叫ばれましたが」
イレーネは、言いにくそうに続けた。
「階段の下にいた使用人が二人、ミレイユ様がカティア様の肩をつかんで押すのを、見ていたと。ミレイユ様は広間で、床に爪を立てて引きずり出されたそうです」
「引きずり出された」
「はい。『私は正妃よ、離しなさい』と叫んで。でも使用人たちは、誰も目を合わせませんでした。屋敷の者はみな、ミレイユ様の癇癪にうんざりしていましたので」
かつて仕えた主人の末路を、人は意外と冷たい目で見るものだ。
「それからもうひとつ。カティア様は、寝台で目を開けられるなり、イゾルデ様にこう訴えられたそうです。『奥様のお茶が、おかしかった』と」
私は顔を上げた。
「お茶」
「ところが、イゾルデ様は、すぐにその茶器を侍女に持ち去らせました。そして、『口を慎みなさい。屋敷の中のことを外へ出すものではない』と」
「イゾルデ様が、証拠を」
自分の宮にも毒の薬師を抱えるあの人が、屋敷の茶を調べられては困るのだろう。毒の出入りを、人に見られたくないのだ。
けれど、茶を毎朝届けていたという話は、残った。
ミレイユは、あの階段の前から、すでにカティアの子を狙っていたのかもしれない。突き飛ばしたのは、最後の手段にすぎなかったのかもしれない。
私は、背筋に冷たいものを感じた。
「ご裁定がくだりました」
イレーネが、小さく息を吸った。
「ミレイユ様は、正妃のお立場を取り上げられ、側妃に落とされました。カティア様と、同じ立場でございます。新しい正妃を迎えるまで、屋敷の取り仕切りは、イゾルデ様が」
「ミレイユが、側妃に」
あれほど正妃の座にこだわっていたのに。嫁いで一月も経たないうちに。
私は窓の外を見た。初夏の風が、庭の花を揺らしている。
「奥様、ご気分がすぐれませんか」
「いいえ。大丈夫」
ただ、一瞬、顔を曇らせていたらしい。
「子に、罪はないのに」
私は小さく、そう呟いた。
カティアも、私を罠にかけた一人だ。それでも、寝台で目を開けたカティアが最初に何を思うのか考えると、喉の奥が苦くなった。
窓辺の鉢に、枯れかけた白い花があった。そっと指を添える。手のひらから、薄い光がにじんで、萎れた花弁が一枚ずつ開いた。
幼いころから、私には草花を少しだけ咲かせる力がある。戦う力ではない。毒草を見分ける目と、枯れた花を咲かせる程度の、ささやかな力だ。
命を戻せるわけではない。わかっていて、咲かせずにはいられなかった。
その夜、シルヴェスターは何も言わずに、私の肩を引き寄せた。
大きな手が、髪を撫でる。
「アマリア。お前が悲しむ必要はない」
「わかっています。でも」
「わかっている。それでも悲しむのが、お前だ」
短く、低く。それだけだった。
私は、シルヴェスターの胸に額を預けて、しばらく動かなかった。
その手は、剣を握るときよりも、ずっとやわらかかった。氷の気配は、どこにもなかった。ただ、温かかった。
翌日、イレーネがもうひとつ噂を持ってきた。
「奥様。ミレイユ様のことで、気になるお話が」
「何?」
「ご裁定のあと、ミレイユ様は、イゾルデ様の宮に呼ばれたそうです。お叱りだけではなく、『二度と私の前に顔を出すな。お前のような役立たずは要らない』と、はっきり切り捨てられたと」
「イゾルデ様が?」
あの舞踏会で組んでいた二人が。
「はい。ミレイユ様は、部屋を出るとき、廊下で独り言をおっしゃっていたそうです。侍女が聞きました」
イレーネが、声を低くする。
「『あの女。私を道具みたいに使って、捨てる気ね。いつか、全部しゃべってやる』と」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
イゾルデ様とミレイユの手が、切れた。
それは、イゾルデ様の毒の秘密を握る人間が、ひとり、敵に回ったということだった。




