第17話 王子邸の泥沼
「奥様、本日の第四王子邸の情報でございます」
朝、雲苺の茶を運んできたイレーネは、いつもより少し得意そうだった。
「聞きましょう」
「正妃のミレイユ様と、側妃のカティア様は、朝から晩まで、いがみ合っておいでです。朝は朝食の席の順をめぐって。昼は侍女の取り合い。夜は廊下ですれ違うだけで、舌戦でございます」
「毎日、そんな調子で?」
「はい。使用人たちは、どちらの機嫌も損ねぬよう、屋敷の隅でこそこそ動いております。ルドヴィク殿下は、おふたりの間にはさまれて、屋敷に帰りたがらないとか」
「自業自得ね」
私は雲苺の茶を飲んだ。
「ついでにもうひとつ。ミレイユ様は、お部屋に引きこもって、侍女に当たり散らしておいでだとか。昨日は、花瓶を二つ割られたそうです」
「花瓶に罪はないのにね」
「まったくです」
舞踏会で私に罠を仕掛けた報いだ。そう思う一方で、胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さっている。
カティアのお腹には、子がいる。
その子に、罪はない。
「それから、奥様」
イレーネが、声を落とした。
「今日はシルヴェスター様が、王宮の会議で夕刻までお戻りになりません。その間に、ルドヴィク殿下が、こちらにおいでになるかもしれないという噂が」
「どこから?」
「殿下の御者が、酒場で口をすべらせました。『大公のいない間に、叔母上に会いに行く』と」
叔母上、のところだけ、嫌そうに発音する。
イレーネは、ふと思い出したように付け足した。
「そういえば、ミレイユ様は近ごろ、毎日のように薬草売りを呼びつけておいでだとか。何をお求めかは、誰にも教えないそうで」
薬草。胸の奥が、かすかにざわついた。けれど、その時の私は、ただ聞き流してしまった。
果たして、昼を過ぎたころ、門番が血相を変えて駆けこんできた。
「奥様。第四王子殿下が、お見えです」
門番に「お通しするな」と命じることも、できた。けれど、私は通すことにした。この人が何を言うのか、この耳で聞いておきたかった。
門の外には、黒い二本角の馬が引く馬車が停まっていた。実家から連れてきた私のユニコーンが、庭の隅で鼻息荒く距離を取る。この子はバイコーンが嫌いなのだ。
応接間に通された殿下は、前にもまして、みすぼらしく見えた。目の下にくま。服にしわ。髪もろくに整っていない。
「アマリア」
殿下は、私を見て、ほっとしたように息をついた。
「久しぶりだな。やっと、お前に会えた」
「王弟妃に向かって、お前、とは」
「ああ、わかった、わかった。叔母上、だったか」
投げやりに椅子に座る。勝手に、茶まで要求した。
「聞いてくれ、アマリア。屋敷が地獄なんだ。ミレイユは朝から癇癪を起こすし、カティアは腹を押さえて俺に寄りかかってくる。母上は毎日のように、小言を言いに来る。俺は、疲れた」
「ご苦労さまです」
「それだけか。もっと、同情してくれてもいいだろう」
「私には、同情する理由が見当たりません」
「冷たくなったな、アマリア。昔のお前は、俺が疲れていると、すぐに肩を揉んでくれたのに」
私は雲苺の茶の湯気の向こうで、にこやかに首をかしげた。
「あれは、前の私です」
「前の?」
「いいえ、こちらの話ですわ」
「お前が俺の妃なら、こんなことには」
殿下は、顔を覆った。
「お前は、いつも落ち着いていた。家の中も、うまく回っていた。後悔してるんだ。あのとき、お前を手放したのは、間違いだった」
私は、静かに殿下を見た。
前の私なら、この言葉を聞いて、胸が痛んだだろう。慰めただろう。「大丈夫ですわ」と、背中を撫でたに違いない。
今の私は、雲苺の茶を一口、ゆっくりと飲んだ。
「殿下」
「うん?」
「五年間、私が何と呼ばれていたか、ご存じですか」
「何だ、突然」
「『殿下の椅子を温める人』。そう、言われました」
殿下は、きょとんとしている。誰に、とも聞かない。
「その椅子は、いま、別の方が温めておいでです。お帰りください」
「アマリア、俺は」
殿下の手が、私の手首に伸びた。
「放してください」
「お前は、俺のものになるはずだったんだ。叔父上が横から」
爪が、肌に食いこむ。前の私なら、竦んでいた。今の私は、指一本、動かさなかった。動かす必要が、なかったからだ。
「ユリウス」
私が名を呼ぶと、扉が開いた。待機していたユリウスが、大股で入ってくる。
「殿下。大公殿下のご不在の間、王弟妃殿下をお守りするよう、仰せつかっております」
「ユリウス、貴様、俺に何を」
「お帰りの時間です」
ユリウスは、殿下の襟首を、ひょいとつかんだ。
「はなせ! 無礼者!」
「失礼」
門の外までずるずると引きずっていく。殿下の叫び声が、庭の木立のむこうに消えていった。
戻ってきたユリウスは、手をぱんぱんと払った。
「姉上、あの人、軽かったよ。前から思ってたけど、中身が詰まってない」
「ユリウス、言いすぎ」
「事実だよ」
笑いをこらえるのに、苦労した。
ユリウスは廊下で肩を回しながら、「あー、すっきりした」と言った。イレーネは窓から一部始終を見ていたらしく、「殿下の靴が片方、脱げておりました」と報告してきた。
夕刻、シルヴェスターが帰ってきた。
玄関で出迎えると、いつもの無表情が、一瞬だけ険しくなった。足もとの石畳に、白い霜が薄く走る。
「アマリア。門番から聞いた。あいつは何をしに来た」
「愚痴をこぼしに」
「お前に?」
「はい。追い返しましたので、ご安心を」
「安心できるか」
シルヴェスターは、私の肩を両手でつかんだ。
「触られたか」
「いえ。座って雲苺の茶を飲んでいただけです」
「茶」
シルヴェスターの眉が、ぴくりと動く。
「私の妻に、私の屋敷の茶を」
「怒るところが違います、殿下」
「違わない。明日から、門に騎士を二人置く。いや、四人だ」
「多すぎます」
「少ないくらいだ」
気づくと、私の手首の赤い痕に、冷たい指が触れていた。氷の魔法が、じんわりと痛みを引かせていく。
「これは」
「触られていないと言ったな」
「少しだけ、掴まれました」
シルヴェスターの瞳が、窓の霜と同じ色になった。
「明日、あいつの片腕に、氷の痕をつけてやる」
「殿下」
「冗談だ」
冗談の声には、聞こえなかった。私は慌てて話を逸らす。
「では、茶を出す係の者も、四人に増やしましょうか」
「それは、よい考えだ」
真顔で頷くので、吹き出しそうになった。
私を抱き上げて、そのまま居間まで歩いていく。使用人たちが廊下の端から、目を逸らした。
「殿下、おろしてください。自分で歩けます」
「だめだ」
「理由は」
「離したくない」
臆面もなく言う。私は、両手で顔を覆った。ほんとうに、この人は、いつからこうなったのだろう。
その夜。
寝台の中で、うとうとしかけていたときだった。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
屋敷の外だ。ずっと遠く、王子邸のほうから。
二人とも、がばりと身を起こした。
しばらくして、玄関の戸が激しく叩かれる。イレーネの声。
「奥様、急報です。第四王子邸で、側妃のカティア様が、階段から落ちられました」




