第16話 ミレイユ、王子妃になる
◇ミレイユ◇
私は、第四王子の正妃になった。
挙式は、びっくりするほど小さかった。イゾルデ様は「身分の低い母を持つ娘など」と最後まで渋ったのだ。けれど、他に誰も来なかった。舞踏会の醜聞のあとで、第四王子に娘を嫁がせたい家は、一つもなくなっていたのだ。
それでも、正妃は正妃。王子邸の女主人。
正妃というのは、王子の妻の中で一番上の立場の人のことだ。屋敷の使用人を取り仕切り、側妃たちを従える。殿下の隣に座るのも、私一人のはずだった。
黒いバイコーンの馬車が、王子邸の門前で鼻を鳴らして止まる。二本角の馬は、荒く足を踏み鳴らし、御者の鞭が飛んだ。公爵家のユニコーンは、一度も私に近づかなかったのに。この黒い馬だけが、鞭の下で、私を乗せてくれる。
私は顎を上げて、白い絹のドレスの裾を引き、王子邸の玄関をくぐった。魔石の灯りが、玄関ホールを昼のように照らしている。
「お帰りなさいませ、奥様」
使用人たちが、ずらりと並んで頭を下げる。そうよ、これよ。前の人生で、私が味わったのは。
満足して階段を上がっていくと、廊下の先に、ひとりの女が立っていた。
元は私の侍女。今は殿下の側妃になった、カティア。
栗色の髪を高くまとめ、薄い桃色のドレス。私が昔、カティアにあげたことのある布で仕立てたものだ。
「カティア。あなた、正妃である私に、挨拶もないの?」
「ご挨拶が遅れました、ミレイユ様」
カティアは軽く膝を折った。それだけだった。
「ミレイユ『様』? 奥様と呼びなさい」
「かしこまりました。……では、奥様。お疲れのところ恐れ入りますが、ひとつ、ご報告がございます」
口調はていねいなのに、声の底に、笑いが沈んでいた。
「何よ」
カティアは、廊下の奥のほうを見やった。
「奥様のお部屋は、東の端にご用意いたしました。日当たりが悪いのですが、お許しくださいませ。私の部屋が、一番よい南向きですので」
わざとだ。屋敷で一番よい部屋を、側妃が取っている。
カティアの背後で、控えていた侍女たちが、くすりと笑った。私の侍女ではない。カティアの側についた者たちだ。
カティアは、ゆっくりと自分の腹に手を当てた。
薄い桃色の布の上から、愛おしそうに、撫でる。
「私、殿下の御子を授かりました」
廊下の空気が、止まった。
「医師の診立てでは、今、二月目だそうです。舞踏会の夜の」
「うそ」
「殿下も、たいそうお喜びでした」
カティアは、目を伏せた。長いまつげの下で、瞳が光る。
「私の子は、殿下の初めての御子になります。正妃様のお腹が空いたままでも、殿下には跡取りがおできになる。ありがたいことです」
全身の血が、引いていく。
私は後ろの侍女たちを見た。誰もこちらを見ない。みな、カティアの前では顔を伏せている。いつの間に、この屋敷の使用人たちは、カティアに従うようになったのだろう。
「奥様、お部屋の支度が」
侍女が声をかけてくる。
「下がっていなさい」
語気が強すぎたのか、侍女は小さく肩をすくめて去っていった。
自分の部屋へ、早足で戻った。扉を閉める。
化粧台の引き出しに、昨日までなかった花が一輪、さしてあった。白い花。誰がこんなことを。侍女が、気を利かせたつもりなのか、それとも嫌がらせか。
私は花を引き抜いて、床に捨てた。
鏡の前に座る。
栗色の髪。白い肌。前の人生と同じ顔。ただ、今は少し、やつれている。
子。
前の人生で、私は王妃になった。殿下の隣に座り、冠をかぶった。
では、その先は。
私に、子は、いたのだろうか。
頭の奥を探る。ぼんやりと、断片が浮かぶ。戴冠式の鐘。広間の光。それから、先へ進もうとすると、ふっと霧が立ちこめる。
思い出せない。何度やっても、霧しか見えない。
一つだけ、はっきりしていることがある。前の人生の私は、誰にも負けていなかった。負けたのは、お姉さまだけ。
それなのに、どうしてこんなに、足もとが冷たいのだろう。
喉の奥が、からからに渇いていく。
机の上の水差しから、水をついで飲む。味がしない。手が、かすかに震えて、杯のふちが歯にぶつかる音がした。
侍女の控えの間から、笑い声が漏れてくる。カティアの部屋に呼ばれた侍女たちが、お祝いの菓子を食べているのだ。私の部屋には、誰も来ない。
前の人生の私は、王妃になったはずだ。お姉さまを殺して、殿下の隣に立った。それなのに、そのあとの私が、どこにも見えない。
怖い。
なぜ、こんなに怖いのだろう。
扉が、乱暴に開いた。入ってきたのは、ルドヴィク殿下だった。
「ミレイユ。聞いたか。カティアが身ごもった」
「ええ、聞きましたわ」
「めでたい。これで、俺にも跡継ぎができる」
殿下は上機嫌だった。酒の匂いがする。
「殿下は、私より先に、侍女に子を」
声が、かすれる。殿下は、私の目を見ていなかった。
「何を怒っている。お前にも、そのうちできるさ」
殿下は、私の頬をぺちぺちと軽く叩いた。
「それより、母上がうるさくてな。お前のせいで、俺の評判が下がったと言うんだ。しっかりしろよ、ミレイユ」
何それ。
私のせいですって。
殿下が出ていったあと、入れ替わりにイゾルデ様が入ってきた。扇が、乾いた音を立てて私の頬を打つ。
「身分の低い娘に、期待した私が愚かでした。侍女に先を越されるなど。恥を知りなさい」
頬が、焼けるように痛い。言い返そうとして、喉が固まった。この人に、私は逆らえない。まだ。
イゾルデ様が出ていったあと、私はひとり、鏡を睨んだ。
正妃になれば、すべて思いどおりになると思っていた。前の人生と同じ。いいえ、前よりもっと、うまくやれるはずだった。
それなのに、一つずつ、歯車が狂っていく。お姉さまは大公の妻になって、私より上にいる。侍女だったカティアが、先に懐妊した。
扉の外で、廊下を歩く足音が聞こえた。軽く、ゆっくりした、勝者の足音。カティアだ。わざと私の部屋の前でとまり、くすりと笑った気配がした。
私は、爪を噛んだ。昔からの、癖だった。
窓の外で、夕日が沈んでいく。
お姉さまは今ごろ、大公に抱き寄せられて、笑っているのだろう。私は、何も持っていない。いや、持っていたはずなのに、何を持っていたのか、思い出せない。
誰かに、聞かなければ。誰に。
もし、カティアの子が男の子だったら。
もし、その子が、殿下の長子として育ったら。
正妃の私に子ができても、二番目。
母の身分が低い私は、いつまでも、殿下の隣で、見下されたまま。
私は、鏡の中の自分に向かって、低く呟いた。
「……私より先に、侍女の子が、王子の長子になるですって?」




