閑話 叔母上と呼ばされた男(ルドヴィク視点)
手首が痛い。
黒いバイコーンの馬車が揺れるたび、叔父上の指の形がじんじんと疼く。袖をめくると、赤黒い輪の痕がくっきり残っていた。
「ひどい。骨が折れたかもしれん」
「折れておりませんわ、殿下」
向かいの席で、ミレイユが甘い声を出した。唇は笑っているのに、さっきから一度も俺の目を見ない。爪の先ばかり、気にしている。
「お前、さっきは何をしていた。手を振り上げたまま固まって」
「殿下こそ、叔父上様に睨まれて、一言も」
「あれは叔父上が卑怯なのだ。後ろから来た」
そうだ。卑怯だ。不意打ちでなければ、俺があんな男に頭を下げるものか。
窓の外を、銀色の影が横切った。叔父上の天馬車だ。翼のある白馬が四頭、車体の氷の紋章をきらめかせて、悠々と王都の空へ上がっていく。うちの馬車は、地面を這っている。御者が鞭をふるうたびに、二本角のバイコーンが荒く鼻を鳴らした。
気に入らない。何もかも気に入らない。
そして、それより気に入らないのは、アマリアだ。
いや、待て。
考えてみれば、おかしいではないか。
あの女は、俺に「お前」と呼ばれて、顔色を変えた。本当に何とも思っていない相手に、人はあんな顔をしない。傷ついたのだ。傷つくということは、まだ俺に未練があるということだ。
首飾りもそうだ。叔父上に、無理やり着けさせられたのだ。あのとき、アマリアの頬は赤かった。あれは屈辱の赤だ。俺を見ていた。助けを求める目で。
そうだ。きっとそうだ。
契約で嫁いだ身で、あの氷の男に愛されるはずがない。アマリアの本当の相手は、昔から、俺なのだ。
「殿下、何か、おっしゃいました?」
「いや。お前は黙っていろ」
ミレイユの肩が、小さく跳ねた。
*
側妃宮、母上の居間。魔石灯の白い光が、真紅のカーテンを冷たく照らしている。
「ルドヴィク」
扇を閉じる音が、鞭のように鳴った。
「宝飾店のことは、夕刻には王宮じゅうに回りました。王子が、叔母に手を上げかけたと」
「手など上げておりません。上げかけただけです」
「それが、いけないのです!」
母上の声が裏返った。
「しかも、王弟に手首を取られて、人前で頭を下げさせられた。あなたは王子なのですよ。何という醜態でしょう」
「母上、お言葉ですが、先に失礼だったのはあの女です。俺が『お前』と呼んだだけで、『どなたに習った作法でしょう』などと。あれは、母上への当てこすりです」
母上の扇が、ぴたりと止まった。
「……わたくしの躾まで、店先で笑われたというのですか」
「そうです。母上まで侮辱されたのです」
「侮辱させたのは、あなたです!」
閉じた扇が、卓を打った。
「叔母を『お前』と呼べば、育てた母の品が問われる。当たり前のことです。あなたが口を開くたびに、わたくしの顔に泥が塗られていくのですよ」
「ですが、母上は昔から、身分の低い者は『お前』と呼べと」
「それは、使用人と妾腹の話です!」
叫んでから、母上は、ミレイユを見た。
ミレイユは、ソファの端で微笑んだまま、膝の上の手を白くなるほど握っていた。
「あら、わたくしとしたことが。ごめんなさいね、ミレイユ」
「いいえ、イゾルデ様。お気になさらず」
「王弟妃は別です。王の弟の妻なのです。あなたの叔母です。叔母を『お前』と呼ぶ甥が、どこにおりますか」
「それは、しかし」
俺は食い下がった。
「アマリアは、本当は、俺のことが好きなのです。叔父上に脅されて、あのように」
居間が、静まり返った。
母上は、扇を持ったまま、瞬きを三回した。
「……あなた、本気で言っているの?」
「本気です。見ていれば、わかります。あの首飾りも、本当は俺に」
「ルドヴィク」
母上の声が、低くなった。
「あの娘が、あなたを睨んだ目を、わたくしは見ておりませんが、報告は受けています。店主の話では、王弟妃殿下は終始、笑っておられたそうよ。氷のように」
「笑っていたのです。強がって」
「強がり」
母上は額を押さえた。扇の骨が、みしりと軋む。
「いいこと。あの娘と、あの娘の祖父のことは、もう諦めなさい。アンブロスの医術も弟子たちも、王弟の手の中です。けれど、ロートリンゲン公爵はまだ、こちらのもの」
母上は、扇の先で、ソファの端のミレイユを指した。
「公爵は、ヨランダとこの子に甘い。損得で動く男です。ミレイユを妃にすれば、公爵家の兵と財は、ミレイユを通してこちらへ流れてくる。あなたの妃は、ミレイユ。それで十分、戦えます」
「わたくしを、通して……」
ミレイユの笑みが、一瞬だけ、引きつった。妃にしてやると言われて、何が不満なのか。俺には、わからなかった。
「謹慎です。三日、外出を禁じます。反省なさい」
「なぜ俺が! 悪いのは、あの店主です。品物を、さっさと渡さないから」
「ルドヴィク!」
「それに、ミレイユが首飾りなど欲しがるから、こうなったのです。俺は、止めようとしただけで」
「殿下」
ミレイユが、かすれた声で言った。
「殿下は、買ってやろうと、おっしゃいました」
「黙れ。口答えをするな」
母上は、もう何も言わなかった。ただ、扇の骨が、ぱきりと一本折れた。
*
部屋に戻る廊下で、侍従が恐る恐る言った。
「殿下、手首に冷やし布を」
「いらん。見るな」
「しかし、青くなって」
「見るなと言った!」
侍従は青い顔で下がった。
どいつもこいつも、俺を腫れ物のように扱う。以前は違った。幼いころは、アマリアが、よく俺の手当てをしてくれた。転んで膝を擦りむいたとき、泣きべそをかく俺に、ハンカチを巻いて、「殿下は強いです」と言った。あの女は、あのころから俺のものだった。
いまさら、なぜ叔父上のものになる。
納得がいかない。納得がいかないから、俺は悪くない。そう考えるのが、一番楽だった。
部屋の扉を開けると、灯りがついていた。
「おかえりなさいませ、殿下」
カティアだった。
侍女だったころの地味な服ではない。淡い黄色の絹のドレスに、俺がくれてやった真珠の耳飾り。側妃に上がって、まだひと月にもならないのに、もうすっかり、この部屋の女主人のような顔をしている。
卓の上には、水を張った銀の盥と、冷やし布が用意してあった。
「手首を、お見せくださいませ。宝飾店でのこと、うかがいました」
「お前まで、俺を笑いに来たのか」
「まさか」
カティアは、俺の前にひざまずいた。俺の袖を、そっとまくる。青黒くなった手首を見て、小さく息をのんだ。
「なんてひどい。殿下のお手に、こんな」
冷えた布が、手首に巻かれた。ひやりとして、痛みが、少しだけ引いていく。
さっきの侍従とは違う。この女は、見るなとも言わせない。最初から、俺の味方の顔をしている。
「殿下は、何も悪くありませんわ」
「そうだ。俺は悪くない」
「ええ。悪いのは」
カティアは、言いかけて、口をつぐんだ。目を伏せる。
「何だ。言え」
「いいえ。私の口から申し上げることでは」
「言えと言っている」
カティアは、ためらうように唇を噛んでから、小さな声で言った。
「首飾りを、ねだられたのは、ミレイユ様でございましょう?」
「……そうだ」
「お仕えしていたころから、そうでした。欲しいものがあると、ご自分では手を汚さず、人に取りに行かせるのです。殿下を、お店の前に立たせたように」
冷やし布の上から、カティアの指が、俺の手首を、そっとなでる。
「殿下が恥をおかきになっても、ミレイユ様は、きっと、ご自分のせいだとは思っておられませんわ。首飾りが手に入らなかったことのほうを、悔しがっておいでかと」
そういえば、母上の居間で、ミレイユは俺をかばいもしなかった。「殿下は、買ってやろうと、おっしゃいました」などと、口答えまでした。
「それに」
カティアは、声をさらに落とした。
「ミレイユ様は、お部屋で、よくおっしゃっていました。殿下は、お姉さまの言いなりだった、と。お姉さまがいなければ、何も決められない方だ、と。……笑いながら」
手首の痛みが、急に、かっと熱くなった。
「ミレイユが、そんなことを」
「ご、ごめんなさい。申し上げるべきでは、ありませんでした」
カティアは、慌てたように頭を下げた。うつむいたその顔は、俺からは見えなかった。
「正妃におなりになったら、ミレイユ様は、殿下を立ててくださるでしょうか。私、それだけが心配で」
「……お前は、気がきくな」
「殿下のおそばに置いていただける。それだけで、私は幸せでございますもの」
カティアは顔を上げて、にっこり笑った。
侍女のくせに、と思っていた。だが、ミレイユよりは、よほど使える女だ。俺の痛みに、真っ先に気づいたのは、この女だけだった。
帰りぎわ、カティアは扉の前で振り返った。
「殿下。今夜はミレイユ様のところへ、いらっしゃるのですか」
「さあな」
「どうぞ、お手首を、ミレイユ様にも見せてさしあげてくださいませ。ご自分がねだったせいで、殿下がどんなお怪我をなさったか」
扉が閉まった。
俺は、巻かれた冷やし布を見下ろした。
そうだ。見せてやればいい。お前のせいで、俺はこうなったのだと。
*
謹慎を言い渡されたからといって、素直に寝ている俺ではない。
夜、俺はミレイユの部屋の扉を叩いた。婚礼の支度のため、ミレイユは側妃宮の一室に滞在している。ドレスの見本が、壁じゅうにかかっていた。
「ミレイユ。聞いているか」
「殿下。もうお休みになったのでは」
「眠れるものか。手が痛いのだ」
寝台に腰を下ろして、袖をまくって見せた。
「見ろ。お前が首飾りなどねだるから、この有様だ」
「痛そうですわ」
「そうだろう。お前の母が妾などだから、俺まで人前で恥をかくのだ。母上も、あのようなことをおっしゃる」
ミレイユの手が、ドレスの見本の布を握りしめた。
「殿下。それは、あんまりですわ」
「何が」
「私は、殿下のために」
「泣くな。うるさい」
ミレイユの目に、涙が盛り上がった。俺はため息をついた。
「アマリアは、泣かなかったぞ。あの店でも、俺に『お前』と言われて、顔色一つ変えず、あの落ち着いた声で」
口にしてから、気づいた。
ミレイユが、こちらを見ている。
涙が、すうっと引いていた。残ったのは、俺の見たことのない目だった。冷たくて、乾いていて、どこか遠い国を見るような。
「……殿下は、お姉さまが、お好きなのですね」
「何を言う。そんなことは」
「いいえ。よく、わかりました」
にっこり笑った。いつもの甘い顔だった。見間違いだろう、と思った。
廊下に出ると、背後で、何か硬いものが壁に当たる音がした。ミレイユが、鏡でも倒したのだろう。女は、すぐ物に当たる。
*
自分の部屋に戻り、寝台に仰向けになった。
天井の魔石灯が、ぼんやりと光っている。手首は、まだ疼いた。
叔母上、か。
小さく、声に出してみた。
「叔母上」
悪くない響きだ。いや、悪い。悪いに決まっている。
だが考えてみれば、あの女は、俺に「叔母上と呼びなさい」と命じたのだ。命じるということは、俺に関心があるということではないか。無関心な相手に、人は、命令などしない。
やはり、そうだ。
あの女は、俺が好きなのだ。照れ隠しに、あのような態度を取っているだけなのだ。
そうだ。明日、手紙を書こう。『叔母上』と呼ぶのは、人前だけでいい、とでも。
満足して、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと、思った。
あの店で、叔父上が俺の手首をつかんだとき。アマリアは、俺を見ていなかった。叔父上の背中だけを、見ていた。
まあいい。気のせいだ。
俺は悪くない。何も、悪くない。
それなのに、なぜ手首だけが、いつまでも痛いのだろう。




