第14話 第一王子の病は、病ではない
結婚して六日目の朝、私は祖父のアンブロスと一緒に、第一王子ニコラウス殿下の宮を訪ねた。
銀の天馬車の前で、シルヴェスターが待っていた。翼のある白馬が四頭、王弟家の馬車を引く。春祭りの日以来の空だ。
シルヴェスターが、馬車の前まで送ってくれる。
「何かあれば、すぐに知らせろ。護衛はユリウスをつける」
「大げさです、殿下。診察に行くだけですのに」
「大げさでよい。お前は私の妻だ」
人前だというのに、手を握って離さない。私の手首に、霜のように小さな氷の花がひとつ、咲いた。守りの印だ、と低く言う。指先で触れると、体温でゆっくりと溶けて、ひやりと甘い香りがした。馬の世話をしていた従者が、そっと顔をそむけた。
祖父が、馬車の中で喉を鳴らして笑う。
「あの氷の大公がのう。わしが宮廷医師長だったころ、あの子が戦から戻ってきたときなど、笑ったことは一度もなかったぞ」
「お祖父さまは、昔から殿下をご存じなのですか」
「傷の手当てをしたことがある。話はまた今度じゃ。ほれ、着いたぞ」
王子宮は、静かだった。
廊下は長く、窓が少なかった。病人の宮らしく、足音さえ吸いこむ分厚い絨毯が敷かれている。
寝台に身を起こしていたのは、痩せた青年だった。薄い金髪。やわらかい青い瞳。年は二十二のはずなのに、ずっと年上に見える。
「お初にお目にかかります、王弟妃殿下。年下の叔母上とは、不思議な心地がしますね」
ニコラウス殿下は、こちらが先に頭を下げる前に、頭を下げた。
「寝たままで失礼します。立てば、めまいがするもので」
「どうかそのままで」
祖父の手のひらから、淡い光がこぼれる。治癒師は、手の光で体の中を探るのだ。祖父が脈をとる。目の裏を見る。爪の色を見る。舌を見る。一つひとつ、時間をかけて。
それから、祖父は黙って、部屋の隅の香炉に目をやった。
「殿下、あの香炉は、いつから焚いておられる」
「半年ほど前からです。気持ちが落ち着く香だと、侍従が勧めてくれて」
祖父は立ち上がり、香炉の蓋を開けた。灰の中に、小さな黒い粒が混じっている。指でつまみ、匂いをかぐ。
顔つきが、変わった。
「アマリア」
「はい」
「ドロテアの薬湯と、同じ匂いじゃ」
背中が冷たくなった。
母に盛られた、遅効性の毒。同じものが、ここにもある。
「殿下」
祖父は、静かに告げた。
「あなたの病は、病ではありません。毒です。ごく少しずつ、長い時間をかけて体を弱らせる毒。香とともに、毎日少しずつ吸わされておりました」
ニコラウス殿下は、目を見開いた。それから、ふっと息を吐いた。
「ああ。そうでしたか」
怒るでもなく、取り乱すでもなく。ただ静かに、納得したように。
「私はもう長くないと思っていました。神がそう決められたのだと。ですが、人の手だったのなら」
まっすぐに、祖父を見る。
「治りますか」
「治します。解毒には半年かかりますが、わしの弟子を三人つけましょう。香炉は直ちに替える」
「ありがとう」
その声は、細くて、けれど驚くほど澄んでいた。
ニコラウス殿下は、少し笑った。
「叔父上が結婚したと聞いて、驚きました。人前で妻の手を握るなんて。あの氷の大公が、奥方の前では、あんな顔をなさるとは」
「殿下、それは噂の域を」
「見ましたよ。窓から。馬車の前で、叔父上があなたの手を離さないところを」
顔が熱くなる。祖父が、ひげの陰で肩を震わせた。
本当に、澄んだ声だ。この人は本当に、自分の命より先に、民のことを考える人なのだろう。
殿下は、私にも向き直った。
「王弟妃殿下。あなたが、祖父君をお連れくださったと聞いています。なぜ、私を助けてくださるのですか。私はあなたに、何もしていない」
一度目の人生では、この人は春に亡くなった。穏やかで民を思う人だと、噂だけは聞いていた。
この人が生きていれば、国は変わる。そう、思った。
「殿下が生きていらっしゃるほうが、国のためになるからです」
私は、まっすぐに答えた。
「それともう一つ、お願いがあります。この夏、南の地に日照りが来るかもしれません。今のうちに、穀物の蔵を満たし、井戸を掘らせてください」
殿下は、理由も聞かずに頷いた。
「わかりました。手配しましょう。あなたの言葉なら、信じます」
あまりにあっさりと言うので、私のほうが拍子抜けした。祖父の目尻が下がる。後でこっそり、「あれは長生きするぞ」と耳打ちされた。
帰り道、馬車の中でユリウスが言う。
「あの王子様、いい人だなあ。ルドヴィクと同じ王子とは思えない」
「ユリウス。声が大きい」
「だって、事実じゃないか」
「それを、ほかの王子の宮の前で言わないで」
「うっ。はい」
ユリウスは首をすくめた。十五の弟は、一度目の人生よりずっと元気で、ずっと騒がしい。この騒がしさが、私には宝物のように思えた。
祖父が、さらに声を落とした。
「問題は、誰が香炉に毒を入れたかじゃ。侍従が怪しいが、侍従は誰かに命じられただけじゃろう」
「命じた人の見当はついています」
イゾルデ様以外に、考えられない。
「だが証拠がない。侍従を問い詰めれば、命じた者は逃げる。ここは、泳がせるしかない」
一度目の人生では、ニコラウス殿下は来年の春に亡くなった。だから陛下は、第四王子を選ぶしかなかった。順番が、いまは少しずつ変わっている。
祖父の案は、こうだった。香炉は、匂いのそっくりな、無害なものに替える。侍従には、毒が効いていると思わせておく。そうしておけば、あちらも安心して、次の手を打ってくる。
その計画を、シルヴェスターに話した。夜、寝台の端と端で、声をひそめながら。
「いい案だ。侍従に見張りをつける」
「それともう一つ。香炉の毒は、お前の母君の薬湯と同じ匂いだと言ったな」
「はい。同じ出どころだと思います」
「ならば、線はつながる。焦るな。証拠をそろえてから、一度に斬る」
一度に斬る。物騒な言葉なのに、その声は頼もしかった。
「お願いします」
その夜は、背中ごしの会話のあと、不思議とよく眠れた。
夜中に一度、肩が冷えて目が覚めた。気づくと、背中を向けたままのシルヴェスターの手が、毛布の端をそっと私の肩まで引き上げていた。見ていないふりをして、目を閉じる。寝台の真ん中の枕の境目が、少しだけ低くなった気がした。
翌朝。
ユリウスが、息を切らして居間に飛びこんできた。
「姉上、大変だ。第一王子宮の侍従が」
「どうしたの」
「井戸に、浮かんでた」
私は、手にしていた茶碗を落としかけた。
「死んでたんだ。夜のうちに。見張りの騎士が交代した、ほんのわずかな隙に」
口封じ。
イゾルデ様は、こちらの動きに気づいている。




