閑話 はじめての、お忍びデート
結婚して四日目の朝、シルヴェスターは、朝食の席でいきなり言った。
「今日は、街へ行く」
「政務ですか」
「違う。春祭りだ」
私はパンを持ったまま固まった。
「殿下が。お祭りに」
「お前が行きたそうに、窓の外を見ていた」
見ていた。確かに、昨日も一昨日も、遠くから聞こえる笛と太鼓の音に、つい耳を傾けていた。それを、この人は見ていたのか。
「お忍びだ。私が大公だと知れると、祭りが止まる」
「では、どうやって」
答えのかわりに、イレーネが衣装箱を抱えて現れた。その顔は、にやにやを通りこして、満開だった。
一刻後。
玄関に立つ私は、亜麻色の簡素な服に、生成りの前掛け。髪は一本の三つ編みにして、肩に垂らしている。庶民の娘そのものだ。
その隣に、茶色いフード付きの外套を目深にかぶった長身の男が立っていた。
「殿下。それで隠れているおつもりですか」
「隠れている」
「背が高すぎます。肩幅も。それに、歩き方が戦場の将軍です」
「どうすればいい」
「猫背に」
シルヴェスターは、ほんのわずか背を丸めた。余計に怪しい。
私は笑いをこらえきれなかった。
屋敷の庭に出ると、銀の天馬車が待っていた。翼のある白馬が四頭、朝の光に羽を揺らしている。氷の紋章は、今日は布で覆ってあった。
「これで街まで?」
「近くの丘に降りる。そこから歩く」
シルヴェスターの手を借りて乗りこむ。馬が地面を蹴ると、体がふわりと浮いた。
屋根が、庭が、小さくなる。風が頬を叩く。眼下に、春の王都が広がった。屋根屋根の間を、色とりどりの旗がひらめいている。
「きれい」
思わず声が出た。
「そうか」
シルヴェスターは窓の外ではなく、私の横顔を見ていた。
「殿下は、外を見てください」
「見ている」
「私の顔を」
「外を見ている」
どちらの外ですか、と聞くのはやめた。
丘から歩いて城下へ入ると、そこは音と匂いの海だった。
太鼓、笛、客引きの声。焼いた肉の煙。金花蜜をからめた果物。角のある大きな鹿が引く荷車と、六本足の地竜の馬車が行き交う。子どもたちが、紙の飾りを振りながら駆けていく。
「殿下、あれが」
私は思わず、一軒の屋台の前で足を止めた。
焼き菓子の屋台だった。月林檎の星蜜パイ、竜の卵の形をした竜の卵焼き菓子、雲苺のタルト、白雪花の砂糖漬け。口の中でしゅわっと光る綿菓子、精霊糖もある。十種類以上が、湯気を立てて並んでいる。
「どれだ」
「いえ、見ていただけで」
「店主」
シルヴェスターが、フードの奥から低い声で言った。
「ここにあるものを、全種類」
「へ?」
「全種類だ。ひとつずつ」
店主のおじさんは、目を丸くしてから、にっこり笑った。
「兄さん、気前がいいねえ。奥さんにかい」
「ああ。妻だ。美人だろう」
迷いなく言う。それも、ほんの少し胸を張って。私の耳の先が、かっと熱くなった。
支払いの段になって、シルヴェスターは、金貨を一枚、店主の手に載せた。
「釣りはいらない」
「兄さん、これ、うちの屋台が三つ買える額だよ!」
「殿下」
私は慌てて袖を引いた。
「お祭りで金貨はおやめください。お釣りが出ません」
「そうなのか」
「小さな銅貨を使うのです。こうして」
私は財布から銅貨を数枚出して、店主に渡し、残りの金貨を押し返した。シルヴェスターは、不思議そうにそれを見ていた。
「殿下は、買い物をしたことがないのですか」
「戦場では、買うものがなかった」
さらりと言われて、胸が少し痛んだ。
両腕に紙袋を抱えた氷の大公が、広場の長椅子で月林檎の星蜜パイを私に差し出す。
「食べろ」
「殿下も」
「私は、お前が食べるのを見ている」
「見られていると食べにくいです」
「ならば、半分ずつだ」
パイを割る。湯気が立つ。差し出された半分を、私は口に入れた。サクッと音がして、熱い月林檎の甘さが広がる。
「おいしい」
シルヴェスターが、フードの奥で、小さく笑った。
それから私たちは、祭りの通りを歩いた。
途中、広場の隅に、的当ての屋台があった。木の板に描かれた円の的に、小さな矢を射る遊びだ。景品の棚の一番上に、木彫りの小さな竜が置かれていた。翼を広げた、丸っこくて愛嬌のある竜。
「あれ、かわいい」
私が言った瞬間、シルヴェスターが屋台の前に立った。
「やる」
「殿下、あれは一番難しい的に三回続けて当てないと」
「やる」
屋台の若者が、笑いながら小弓を渡す。シルヴェスターは弓を受け取ると、一瞬だけ目を細めた。
空気が、ぴんと張りつめた。
矢が、三本続けて放たれる。
三つの的の真ん中に、矢が突き立った。ほとんど音がしなかった。
「あ」
若者の口が、ぽかんと開く。
「あの、お客さん、もう一回」
「もう一回やるとどうなる」
「いや、あの、ぜんぶ当てられると、うちは潰れちまうんで」
周りに人垣ができていた。子どもたちが、わあっと歓声を上げた。シルヴェスターは、景品の竜を受け取ると、振り返って、私の手のひらに載せた。
「ほら」
「殿下。本気を出しましたね」
「出した」
「大人げないです」
「お前が、かわいいと言った」
木彫りの竜の頭を、指でなでる。なんでもないことのように。
「お前が欲しがるものなら、なんでも取ってやる。屋台の竜でも、空の星でもだ」
「星は、取れません」
「取れなかったら、星の見える丘ごと買う」
大真面目な顔だった。冗談なのか本気なのか、この人の場合、本当にわからない。氷の大公が、屋台の景品に本気を出した。
手の中の竜が、ひどく大事なものに思えて、私はそれを胸に抱いた。
次の通りの花屋で、白い花の冠が売られていた。
小さな白い花を編んだ冠。私が七つのとき、シルヴェスターにあげた花と、同じ花だ。
「それを」
シルヴェスターは、店先から冠をひとつ取り上げると、私の頭に、そっとのせた。
「動くな」
手が、ほんの少し震えていた。
「似合う」
短く言って、顔をそむける。フードの縁から、耳の先が赤く見えた。
人混みが濃くなったのは、広場の中央に近づいたころだった。
踊りの輪ができていて、見物人が押し合っている。私は人の波に押されて、よろけた。
その手を、大きな手が掴んだ。
「離すな」
「殿下、大丈夫です。私は迷子になりません」
「私が、迷う」
真顔だった。
「お前を見失ったら、私はこの街を一晩で凍らせる」
「それは困ります」
私は笑って、指を絡めて握り返した。シルヴェスターの手が、ぎゅっと強くなる。それから、一度も離さなかった。
そのとき、足もとで、小さな声がした。
「お兄ちゃん」
見下ろすと、五つくらいの男の子が、シルヴェスターのフードを見上げている。
「お兄ちゃん、こわいお顔」
シルヴェスターが、凍りついた。
戦の英雄が。国境の魔物を一晩で蹴散らした氷の大公が。五歳の子どもを前に、固まっている。
「すみません、すみません!」
母親らしい女性が駆けてきて、子どもを抱き上げた。
「こら、失礼でしょう」
「でも、こわいお顔だもん」
シルヴェスターは、口の端を無理に上げようとした。ぎこちなく、ひきつった。
子どもが、泣きそうな顔をした。
「殿下、笑わなくて結構です」
私は小声で言って、子どもの前にしゃがんだ。
「ごめんね。このお兄ちゃんは、顔が怖いけれど、本当はとても優しいの」
「ほんと?」
「ほんと。ほら」
私は手のひらの木彫りの竜を見せた。
「これ、お兄ちゃんが取ってくれたの。あなたにも見せてあげる」
男の子の目が、ぱっと輝いた。
「かっこいい!」
子どもの指が竜を撫でる。それから、ふと首をかしげた。
「お姉ちゃん、美人だね。ぼく、大きくなったら、お姉ちゃんとけっこんする」
私は思わず笑ってしまった。
「まあ、ありがとう」
頭をなでてあげようと手をのばしかけた、そのとき。
私の肩が、うしろから引き寄せられた。
「だめだ」
シルヴェスターだった。フードの陰から、男の子を見下ろしている。
「これは、私の妻だ。もう売約済みだ」
「ばいやくずみ?」
「お前には、やらん」
男の子は、ぽかんと口を開けた。それから、むうっと頬をふくらませる。
「おじちゃん、ずるい」
「ずるくない。先に見つけたのは私だ」
五つか六つの子ども相手に、真顔で張り合っている。母親が、こらえきれずに吹き出して、子どもを抱いて去っていった。男の子は、母親の肩ごしに、最後まであっかんべえをしていた。
「……殿下」
「何だ」
「相手は、子どもです」
「男だ」
「五つくらいの」
「十年たてば十五だ」
大真面目に言うのだから、たまらない。私は木彫りの竜を胸に抱いたまま、笑いが止まらなくなった。
フードの陰で、氷の大公の耳が、赤くなっていた。
日が傾くと、街の灯りが一斉に灯った。
川に架かる石橋に、人々が集まっている。手には、紙の灯籠。春祭りの終わりに、願いを書いて、川に浮かべるのだ。
灯籠を水に放すと、中の小さな火が、ぱっと金色の光の粒になって、ふわりと浮かび上がる。祭りの灯籠には、光の精が宿る。願いを乗せた精が、空へのぼっていくのだ。
「やってみるか」
渡された灯籠に、私は筆で願いを書いた。
母が、ずっと健やかでありますように。
それから、もうひとつ、小さな字で。
この人が、ちゃんと笑えますように。
シルヴェスターの灯籠には、何が書いてあるのか、見せてもらえなかった。
二人で、橋の上から灯籠を放した。
二つの光が、水面に落ちる。精が目を覚まし、光の粒になって、ふわりと浮かび上がる。川の上に、無数の金の光が昇っていく。
息をのんだ。
空が、星で埋まったように見えた。
その光の中で、シルヴェスターが、フードを少しだけ後ろに押した。
横顔が、金の光に照らされている。
笑っていた。
初めて見る、やわらかい笑顔だった。
「どうした」
「いえ」
私は目をそらして、手の中の竜を握りしめた。
契約、なのに。
契約の妻に、焼き菓子を全種類買って、木彫りの竜を取って、花の冠をのせて、手を離さないなんて。
期限が来たら、この手を離さなければならないのに。
胸が、とても、うるさい。
「アマリア」
「はい」
「また来よう。来年も」
来年。
その言葉が、橋の上の光よりも、ずっとまぶしかった。
「はい、殿下」
私は頷いた。まだ契約の妻のまま、揺れる心を抱えて。
握られた手は、帰りの天馬車の中でも、離れなかった。




