第13話 結婚式は、白い花で
結婚式の朝、花嫁衣装は、ずたずたに裂かれていた。
「お、お嬢様」
王宮の控えの間で、イレーネが悲鳴にならない声を出した。
衣装掛けに吊るされていたのは、絹の切れはしだった。胸から裾まで、縦に何本も刃が入っている。真珠の刺繍は床にばらまかれ、ベールは真ん中から二つに裂けていた。
前夜、この部屋には鍵がかかっていた。それなのに。
「見張りの侍従が、夜中に酒を渡されたそうです。朝までぐっすりで」
「誰が渡したの」
「それが、金の指輪を握らされて、顔は覚えていないと」
金の指輪。
私の頭に浮かんだ顔は、一つだった。
ミレイユ。
前の人生で、私はミレイユの手のひらの上で五年間踊っていた。今回、その手を見るたびに怖気立つ。今夜のうちに、ミレイユは誰かを使って、ここに入った。
式まで、あと一刻。
「お嬢様、お直しは間に合いません。式を延ばして」
「延ばさないわ」
私は、裂かれた衣装を手に取った。刃物の跡は、やけに几帳面だった。切るのが楽しかったのだろう。
「延ばせば、ミレイユが喜ぶだけよ。普段のドレスでも、礼拝堂には行けるでしょう」
「花嫁がですか」
「花嫁がです」
そのとき、扉が開いた。
「その必要はない」
シルヴェスターだった。礼服の上着を片腕にかけ、もう片方の手に、大きな箱を抱えている。後ろに、衣装係の老婦人が二人。
「殿下。ここは花嫁の」
「知っている。開けろ」
箱の蓋が開いた。
中にあったのは、白い絹の衣装だった。裾と袖に、小さな白い花の刺繍が、びっしりと咲いている。野に咲く、素朴な花。私が七つのとき、あげた花だ。
「これは」
「念のため、もう一着、仕立てさせておいた」
シルヴェスターは、いつもの顔で言った。
「お前の寸法は、イレーネに聞いた。半月前から、針子を三人、屋敷に泊まらせている」
「半月前から、ですか」
「ルドヴィクとミレイユが、結婚式を黙って見ているとは思えなかった」
イレーネが、床にへたりこんで泣き出した。
念のため。この人は、そう言って、私の知らないうちに、白い花を一つ一つ縫わせていたのだ。
私は、衣装を胸に当てた。
「殿下。ありがとうございます」
「礼は、式のあとで聞く。着替えろ」
着替えは、老婦人たちの手で、あっという間に終わった。袖を通した絹は、肌に吸いつくように軽い。
「靴を」
イレーネが、涙を拭いて、靴の箱を持ってきた。裂かれた衣装に添えて置かれていた、白い絹の靴だ。一足だけ、無事だったらしい。
私が足を入れようとした、そのときだった。
「待て」
シルヴェスターが、靴を取り上げた。
靴の中をのぞきこむ。光に、何かがきらりと跳ねた。
シルヴェスターは、素手で靴の底をなぞった。指の腹から、赤い筋が走った。
ガラスの破片だった。細かく砕かれたものが、靴の中敷きの下に、びっしりと並べてある。
「殿下、血が」
「かすり傷だ」
シルヴェスターは、何も言わなかった。目だけが、見たことのない色になっていた。足を入れていたら、礼拝堂の絨毯の上で、私は一歩も歩けなかっただろう。歩いた絨毯に、赤い足跡を残して。
イレーネが口を押さえた。老婦人たちが、顔を見合わせる。
シルヴェスターは、箱に残っていた靴を、残らず逆さにした。硝子の粉が、さらさらと床に落ちた。一足残らず。
「ほかの靴も、全部か」
「は、はい」
「ならば、靴はいらない」
シルヴェスターは血のついた手を、白い手袋で包んだ。そして、無言で私の背と膝に腕を回した。
体が浮いた。
「殿下」
「動くな」
「ですが、礼拝堂まで」
「私が運ぶ。祭壇まで、一歩も床には下ろさない」
控えの間を出る前に、窓の外を見た。礼拝堂の前庭に、ユニコーンの馬車が着いている。公爵家の馬車を引く一角獣は、心の清い乙女にしかなつかない。私に鼻をすり寄せてくれたあの子が、ミレイユが近づくと角を向けて鼻を鳴らしたのを、ふた月前に見た。今朝も、ミレイユはあの子に近づけなかったのだろう。靴だけは、人の手で仕込めたのだ。
廊下には父のヘルムートが立っていた。私の腕を取るために待っていた父は、抱き上げられた娘を見て、口を開けたまま固まった。
「公爵。腕を貸す必要はない。今日は、私が運ぶ」
「は、はい」
長い廊下を、氷の大公が、白い花嫁を抱いて歩いていく。使用人たちが壁に張りついた。
礼拝堂の扉が開く。
ざわめきが、波のように広がった。
長い絨毯を、シルヴェスターは一歩も急がず、まっすぐ祭壇へ向かっていく。参列席のすべての顔が、こちらを向いていた。
最前列の端に、ルドヴィク殿下とミレイユ。
ミレイユは、笑顔のまま、目だけが凍っていた。白い花の衣装を見て、抱き上げられた私を見て、唇が小刻みに震えている。そのうち、裂いたはずの衣装が、どうして、という顔になった。
私は、にっこり笑って、小さく手を振った。
ミレイユの扇が、ぱきりと音を立てて折れた。
祭壇の前で、ようやく足が床に着く。
あの手の大きさだけは、今でも覚えている。七つのときにあげた花を握った、大きな手。いまその手の白い手袋の指先に、赤い染みがにじんでいた。
「殿下。手が」
「式のあとで、お前が手当てをしろ」
小声でそう言って、シルヴェスターは前を向いた。
「汝、シルヴェスター・フォルクマールは、この者を妻とし、生涯守ることを誓うか」
「誓う」
その声があまりにまっすぐで、契約だと知っている私の胸が、不意にずきりとした。
「汝、アマリア・ロートリンゲンは」
「誓います」
手にした白い花のブーケを、ぎゅっと握る。ブーケを選んだのは、シルヴェスターだった。「これでなければ、嫌だ」と、子どものような顔で言っていた。
「では、誓いの口づけを」
シルヴェスターが、私のベールを持ち上げる。
契約なのだから、触れるだけの、儀礼の口づけのはずだった。
唇が重なった。
長い。
ゆっくりと、私の呼吸を確かめるように、離れない。礼拝堂が静まり返る。誰かが咳払いをした。
「殿下」
やっと離れたとき、私は小声で言った。
「長すぎます」
「そうか? 契約には、口づけの長さの取り決めはなかった」
私の顔が、熱を持った。
披露宴は、王宮の大広間で開かれた。
王弟の妃は、王子たちから見れば叔母にあたる。王子は、叔母に礼を尽くさなければならない。国の決まりだ。
ルドヴィク殿下が、祝いの杯を手に、私たちの前へ来た。
「アマリア。おめでとう」
まるで、昔なじみの娘にでも声をかけるような口ぶりだった。私の名前を、呼び捨てにして。
「ルドヴィク」
シルヴェスターが、低い声で言った。広間の空気が、すっと冷える。
「呼び方が、違う」
「え?」
「今日から、この者はお前の叔母だ。叔母上と呼べ」
「叔父上。この者は、俺の」
「私の妻だ。もう一度」
ルドヴィク殿下の手が、ぶるぶると震えた。唇が白くなる。
「叔母、上」
「聞こえぬ」
広間の隅で、ユリウスが口もとを押さえて肩を震わせている。
「叔母上に、お祝いを、申し上げます」
絞り出すような声だった。
私はにっこり笑って、杯を持ち上げた。
「ありがとう、ルドヴィク殿下。これからは、家族ですもの。仲良くいたしましょうね」
殿下は、答えずに去った。背中が、怒りで固まっていた。
すれ違いざま、ミレイユが囁いた。
「お姉さま。靴の中、見なかったの? もったいない。素敵な贈り物だったのに」
「あら、素敵だったわ」
私は、にこやかに言った。
「あなたの贈り物は、殿下が全部、捨ててくださったわ」
ミレイユの顔が、さっと白くなった。
「それより、聞いたわ。あなたの侍女だったカティアが、ルドヴィク殿下の側妃になるのですって? おめでとう。あなたより、ひと足お先に」
ミレイユの頬が、白から、まだらな赤に変わった。折れた扇を握った手の甲に、青い筋が浮いている。
帰りは、銀の天馬車だった。翼のある白馬が四頭、ふわりと地面を離れる。眼下に、夕焼けの王都が広がる。
シルヴェスターは窓の外を向いていた。手の甲に、ふと温かいものが触れる。包帯を巻いた指が、私の指の上に、そっと重なっていた。
何も言わない。けれど、離さなかった。
その夜。
イレーネが寝支度を整えてくれたとき、イレーネはやけに浮かれていた。「奥様、今夜は」と何度も言いかけては、私に睨まれて口をつぐんだ。
扉が開いて、シルヴェスターが入ってくる。白いシャツ姿。昼間の礼服よりずっと柔らかく見える。
「アマリア」
「はい、殿下」
「契約は契約だ。指一本、触れない」
きっぱりと言った。
「寝台は、お前が使え。私は」
「殿下は、どこでお休みに?」
「ここだ」
シルヴェスターは、寝台の端に座った。それから、私に背を向けて横になる。
私は、黙って、反対側の端に横たわった。
眠れない理由を、数えてみる。広すぎる寝台。大きな背中。さっきの、長すぎた口づけ。
三つ目は、考えないことにした。
魔石灯を落とす。暗闇の中で、広い寝台の真ん中に、見えない線が引かれている。
「アマリア」
背中ごしに、声がした。
「起きているのか」
「はい。眠れなくて」
少しの沈黙のあと、低い声が返ってきた。
「眠れないのは、私もだ」
*
翌朝。
目を覚ますと、見えない線は、どこにもなかった。
私は、大きな腕の中にいた。背中から抱きこまれて、首のうしろに、静かな寝息が当たっている。腰に回った腕は、がっちりと重い。
……指一本、触れないのでは。
そっと身じろぎすると、腕に力がこもった。
「動くな」
「起きていらしたのですか」
「寝ている」
「寝ている方は、お返事をなさいません」
「……寝相だ」
寝相で、こんなにきつく抱きしめる人がいるだろうか。
「殿下。指一本、触れないと」
「指は触れていない。腕だ」
大真面目な声だった。屁理屈だ。氷の大公の、まさかの屁理屈。
笑いそうになって、枕に顔を押しつけた。首のうしろで、殿下の息が、少しだけ笑った気がした。
殿下が身を起こして、寝台を下りた。
窓の帳のすきまから、朝の光が一筋さしこんでいる。殿下は、寝汗をかいたらしいシャツを、無造作に頭から脱いだ。
目が、離せなくなった。
広い肩。背中に、うねるように盛り上がる筋。剣を振るためだけに、何年もかけて鍛え上げた体だった。腕を上げるたびに、肩から脇腹へ、硬い線が流れるように動く。腰は、驚くほど引きしまっている。
背中にも、胸にも、古い傷あとがいくつも走っていた。白く、細く、あるいは深く。十五で軍に入ってから、この国のために刻まれてきた傷だ。
きれいだ、と思った。
傷も、筋も、全部。彫刻よりもずっと、生きている人の体だった。
「……アマリア」
はっとすると、殿下が肩ごしにこちらを見ていた。
「見すぎだ」
「み、見ておりません」
「見ていた」
「お、お背中の傷を、数えていただけです。祖父の孫として、医術の、その、心得で」
「何本あった」
「……途中で、わからなくなりました」
殿下の目が、すっと細くなった。からかう目だ。
「では、今夜また数えればいい」
「数えません!」
枕を、思いきり投げた。殿下は片手で受けとめて、それを、寝台の真ん中にぽんと置いた。
「境目だ。今夜からは、これを越えない」
その夜から、寝台の真ん中には、殿下の手で枕がひとつ置かれるようになった。自分の寝相を、信用していないらしい。
私のほうは、枕の向こうの背中を、思い出さないようにするのに苦労した。




