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おとぎ話の、そのあとで。  作者: もちむぎ


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第九章 またね

# 第九章 またね


 初めての給料が振り込まれた朝、奈津は残高を二度見た。


 求人票の数字は覚えている。


 採用されたときにも、書面で説明を受けた。


 それでも、自分の口座に入った金額を見ると、思わず背筋が伸びた。


 給与明細を開く。


 基本給。夜勤手当。控除。


 間違ってはいなかった。


 奈津は画面を閉じ、もう一度開いた。


 やはり、同じ金額だった。


 今月も忙しかった。


 けれど、休みの日に委員会の資料を作らなくてよかった。家に帰ってから、研究のための文章を読まなくてよかった。


 夜勤のあとには眠った。


 休日には、洗濯をして、買い物をして、たまには何もしなかった。


 それで、この給料だった。


 奈津は椅子に座ったまま、少し笑った。


 来月も働こう。


 まだ辞めるつもりはなかったが、改めて、そう思った。


     *


「三崎さん、顔が明るいですね」


 出勤すると、森に言われた。


「そうですか」


「給料日だから?」


 奈津は返事をする前に笑ってしまった。


 森も笑った。


「最初は、みんなそうなります」


「本当に、求人票どおりでした」


「そうですよ。患者さんの説明は少なかったけど、給料の説明は正確です」


 奈津は頷いた。


 それは、確かにそうだった。


 佐和が申し送りの用紙を持ってきた。


「二〇三号室の狼さん、今日は退院です」


 奈津は患者の一覧を見た。


 腹に石を詰められた狼。


 初日に会った狼だった。


 あれから一度退院し、また戻ってきていた。


 奈津は今では、毛の色を見るだけで、その狼だとわかった。


     *


 病室へ入ると、狼はベッドの上で服を着ていた。


 裾に尻尾を通すための穴がある。


 奈津は初めて見たとき、その穴をほつれだと思って、繕いかけたことがあった。


 狼に止められて、用途を知った。


「おはようございます。お腹、どうですか」


「いいぞ」


 狼は服を少し持ち上げて見せた。


「ほら」


「傷の確認は、先生と一緒にしますね」


「そうか」


 服を下ろす。


 奈津が荷物を確認していると、隣の狸が顔を上げた。


「帰るのか」


「ああ」


「いいな」


「お前も、もう少しだろ」


「背中、まだ引きつる」


 狸が身体を動かそうとすると、狼が言った。


「無理に伸ばすなよ」


「お前、看護師みたいになってきたな」


「何回も聞いてりゃ覚える」


 奈津は荷物の袋を閉じながら笑った。


 狼はそれを見て、鼻を鳴らした。


「新しい看護師も、笑うようになったな」


「最初から笑っていましたよ」


「俺を見たときは、口が開いてた」


「それは……開きますよ」


 狸が小さく笑い、背中をかばって顔をしかめた。


「笑わせるな」


「俺のせいかよ」


 奈津は狸の表情を確かめてから、狼の荷物を足元へ置いた。


     *


 退院前の診察が終わり、狼は佐和から説明を受けた。


 腹の違和感が強くなったらどうするか。


 傷の部分を気にして掻かないこと。


 狼は慣れた様子で頷いていた。


「知ってる」


「知っていても、掻くでしょう」


「毛が生えてくると、痒いんだよ」


「そのときは相談してください」


 佐和は言った。


 奈津は二人のやり取りを聞きながら、退院用の物品を揃えた。


 初めの頃は、こういう説明に何の意味があるのかと思っていた。


 気をつけても、次に呼ばれれば腹を切られる。


 それでも、呼ばれるまでの間に傷が痛んだり、痒くなったりすることはある。


 ここを出てからの時間も、この患者の時間なのだ。


「今日は、どうしますか」


 佐和が尋ねた。


「少し寝る」


 狼は即答した。


「ここでも眠っていたでしょう」


「狸が寝言を言う」


 隣から声がした。


「お前もいびきをかくぞ」


「俺は聞いたことがねえ」


「寝てるからだろ」


 奈津は俯き、袋の持ち手を直した。


 佐和も、口元を緩めていた。


     *


 退院する患者が使う扉は、患者来院部屋の奥にあった。


 最初に狸が現れた日には、白い壁の一部だと思っていた場所だった。


 入ってくるときには使わない。


 出ていく患者のための扉だと、あとから教わった。


 その向こうには、次の出番まで過ごす場所があるらしい。


 奈津はまだ、中を見たことがなかった。


 狼は荷物を持ち、扉の前に立った。


「しばらく来たくねえな」


 佐和が顔を上げる。


「そうですね」


「腹、またやられるのは、しんどい」


 狼は腹に手を当てた。


 奈津はその手を見た。


 ついさっきまで、病室で狸と笑っていた患者だった。


 元気に見えても、次の怪我を楽しみにしているわけではない。


「もう、悪役なんかやりたくねえよ」


 佐和が、狼の服の裾に目を落とした。


 少し折れていた布を直す。


「尻尾、引っかけないようにしてくださいね」


「ああ」


 狼は荷物を持ち直した。


 奈津が扉を開ける。


 向こうは、明るかった。


 廊下のようにも見えたが、目を凝らす前に狼が進んだ。


「ありがとな」


「お大事に」


 奈津が答えた。


 佐和が言った。


「またね」


 狼が振り返った。


「そこは、もう来るなって言えよ」


 奈津は思わず笑った。


「怪我をしないで過ごしてください」


「そうしたいんだけどな」


 狼は片手を上げ、扉の向こうへ歩いていった。


     *


 病室へ戻ると、狸が空になったベッドを見ていた。


「静かになりますね」


 奈津が言うと、狸は頷いた。


「いびきがなくなる」


 それから、枕の位置を直した。


「今夜は、よく眠れるな」


 奈津は使い終わった寝具を片づけ始めた。


 狸が声をかける。


「あいつ、荷物忘れてないか」


「確認しましたよ」


「そうか」


 しばらくして、また尋ねた。


「傷、ちゃんと治ってたんだよな」


「先生が確認されました」


「そうか」


 奈津は新しいシーツを広げた。


 狸は壁の時計を見ていた。


     *


 午後、少し落ち着いた時間に、奈津は佐和と物品を補充した。


「佐和さん、狼さんとは長いんですか」


「ええ。ずいぶん前から知っています」


「ほかの患者さんも?」


「よく来られる方は、そうですね」


 佐和は袋の向きを揃えた。


 使う人が一つずつ取りやすいよう、端を少しずらしている。


 奈津も同じように並べた。


「何年くらい、こちらにいらっしゃるんですか」


 佐和は手を止めずに答えた。


「三崎さんが、小さかった頃からですよ」


「そんなに」


「気づいたら、長くなっていました」


 佐和は笑った。


「ほとんどの人が、私よりあとに来たんです」


 奈津は佐和の手元を見た。


 知らない道具も、変わった患者も、佐和はよく知っていた。


 初日、自分が何から聞けばいいか迷っていたときも、待っていてくれた。


「私も、長く働けるといいなと思っています」


 佐和がこちらを見た。


「そうですか」


「はい。まだ覚えることは多いですけど」


 給料のことも、頭にはあった。


 けれど、それだけではなかった。


 退院する狼の顔を見て、今日はよかったと思った。


 狸がよく眠れるなら、それもよかった。


 そんな日を重ねて働けるなら、悪くない。


 佐和は棚の扉を閉めた。


「無理せず、続けてくださいね」


     *


 夕方、電話が鳴った。


 高梨が受話器を取り、少しだけ眉を上げた。


「はい。……わかりました」


 奈津は補充していた手袋の箱を置いた。


「来院です」


 高梨が言う。


「狼さん。腹部の創傷」


 奈津は、昼前に閉めた扉を思い出した。


 背中にかけた荷物。


 振り返って上げた手。


「……あの方ですか」


「ええ」


 佐和は処置に使う物品を手に取った。


 奈津も隣の棚へ向かった。


 患者来院部屋へ入ると、狼はストレッチャーの上からこちらを見た。


「言ったろ」


 奈津が近づく。


「何をですか」


「またね、じゃ困るんだって」


 声には、力がなかった。


 奈津は狼の手元を見た。


 昼前と同じ袋を、まだ持っていた。


「荷物、お預かりしますね」


 受け取ると、持ち手が温かかった。


 佐和が狼のそばへ来た。


「お帰りなさい」


 狼は目を閉じた。


「ただいま」


 奈津は荷物を脇へ置き、手袋をはめた。


 さっき整えたベッドは、もう用意ができていた。

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