第八章 帰るところ
第八章 帰るところ
患者来院部屋にいた狼は、横向きになって尻を押さえていた。
「座れますか」
奈津が尋ねると、狼は顔を上げた。
「座れたら、こうしてねえよ」
「そうですよね。すみません」
奈津はストレッチャーの横に回った。
腹を切られた狼とは、毛の色が違う。顔も、少し丸い。
同じ狼でも、別の患者だった。
そのことを確認している間に、森が準備を整えた。
「今日は、お鍋でしたか」
「ああ」
「煙突から?」
「ああ」
狼は目を閉じた。
「その聞き方、毎回しなくてもいいだろ」
「違うときもありますからね」
森は穏やかに答えた。
「煮えていました?」
「ぐらぐらだ」
「わかりました。先生、来られましたよ」
奈津は医師に場所を譲り、必要なものを渡した。
痛みで顔をしかめる狼の爪が、シーツに引っかかっている。
奈津はその手のそばへ行った。
「爪、外しますね」
「悪い」
シーツを少し持ち上げて、爪を外す。
処置の途中、狼は何度か文句を言ったが、身体は動かさなかった。
終わると、長い息を吐いた。
「次は、煉瓦の家を見たら帰りたい」
奈津は使い終わった物品を片づけながら、その言葉を聞いた。
*
狼を病室へ運んだあと、森が端末に記録を入れた。
奈津は隣で患者の一覧を見ていた。
「この方も、よく来られるんですね」
「ええ。三匹の子豚は、人気ですから」
「煉瓦の家を見たら帰りたいって、言っていました」
森は頷いた。
「藁の家と木の家は壊せるのにね」
「壊せないって、もうわかってるんですよね」
「知ってますよ。ここの患者さんは、自分の話をよく知っています」
奈津は、狼の横に書かれた物語の題名を見た。
「それでも、煙突から入るんですか」
森は少し考えた。
「話が始まると、そういうところへ進んでいくんです。ここでは違うことをしたいと言えても」
奈津は昨日の狸を思い出した。
なぜ、同じ兎に薬を塗ってもらうのか。
狼はそう尋ねていた。
狸も、本当はわかっているのだろうか。
痛くなると知っているのに、次に呼ばれれば、また背中を差し出すのだろうか。
森が画面を閉じた。
「だから、ここでは煙突に入れとは言いませんし、兎を信用しろとも言いません」
それから、奈津に笑いかけた。
「お腹がすいたらご飯を出して、痛ければ先生に伝える。今、必要なことをするんです」
*
二十三時を過ぎ、病室の照明を落とした。
入院中の患者を順に見て回る。
狸は眠っていた。
魔女は水を一口飲み、もう少し休むと言った。
腹を切られた狼は、奈津を見ると片目を開けた。
「まだ働いてたのか」
「今日は夜勤なので」
「そうか。転ばなかったか」
「転んでいません」
「ならいい」
狼は目を閉じた。
次に入った病室では、リリアが起きていた。
ベッドの上に、汚れの残ったドレスが畳まれている。
今は病院の寝間着を着ていた。
「眠れませんか」
奈津が声をかけると、リリアは頷いた。
「腕は?」
「痛いです。でも、それだけじゃなくて」
奈津は表情を見て、痛みの程度を尋ねた。必要な確認をしてから、いったん森に相談し、病室へ戻った。
窓際の王妃も、目を開けていた。
「治ったら、帰されるんですよね」
リリアが言った。
「退院については、先生と相談します」
「帰っても、王子は私を見てくれないんです」
奈津は椅子を寄せた。
「ここに来る前は、どうなっていたんですか」
「王子に、二度と顔を見せるなって言われました」
リリアは布団を指で撫でた。
「私の話を、最後まで聞いてもくれなかった」
「最後まで聞いたからじゃないの?」
王妃が静かに言った。
リリアの指が止まる。
「あなた、毒を使ったと聞いたけれど」
「あの人に、入れられたことにしたかっただけです」
「誰かに毒を盛られたと嘘をつくために、自分で飲んだのね」
リリアは顔を伏せた。
「侍女が、話すと思わなかったんです」
「その人は、あなたにお金をもらって、黙って罪をかぶるはずだったの?」
「違います。あの人が悪いことに……」
言いかけて、リリアは口を閉じた。
王妃は枕の位置を直した。
「私は毒を使ったわ。あなたの言うとおり、悪役よ」
奈津は二人の間を見た。
王妃の声は、責めるというよりも、疲れているように聞こえた。
「でも、私が悪役だからといって、あなたのしたことがなくなるわけではないでしょう」
リリアは黙っていた。
「……あの人は、ひどい人だったんです」
やがて、小さな声で言った。
「私を見下して、王子のそばにいるなって。身分が違うからって」
「それは、嫌だったでしょうね」
奈津が答えた。
リリアは顔を上げた。
「ええ」
「変わっても、そのときのことは覚えているんですよね」
リリアの目に、また涙が浮かんだ。
「みんな、忘れたみたいなんです。今のあの人が優しいから」
王妃は、今度は何も言わなかった。
奈津はリリアにティッシュを渡した。
「嫌なことをされた話は、していいと思います。今日、していないことをしたことにするのとは、別に」
リリアはティッシュを握った。
「それだけじゃ、王子は戻ってこないわ」
奈津には、返せる言葉がなかった。
戻ってくると約束することも、忘れなさいと言うこともできなかった。
「今夜は、腕の痛みを少し楽にしましょう」
奈津は言った。
「眠れそうなら、少し眠って。続きを話すのは、そのあとでもいいです」
リリアはしばらく黙ってから、頷いた。
*
廊下へ出ると、佐和が立っていた。
「リリアさん、どうですか」
奈津は痛みと、眠れていないことを伝えた。
そのあとで、小さく息を吐いた。
「王子が戻ってこないって言われて、何も言えませんでした」
「ええ」
「励ませることが、思いつかなくて」
「戻ってきますよ、と言わなかったんですね」
「わからないので」
佐和は頷いた。
「それでよかったと思います」
奈津は病室の扉を見た。
「帰りたくないって、思うでしょうね」
「そうですね」
佐和も、同じ扉を見ていた。
「戻る先がつらければ、ここにいたいと思う方もいます」
「ずっとは、いられないんですか」
「治療が必要な間は、いていただきます。その先は、それぞれです」
佐和は一度、口を閉じた。
「退院して、次の出番を待つ方もいますから」
奈津は頷いた。
出番。
ここで何度も聞いた言葉だった。
呼ばれれば、また腹を切られる。背中を焼かれる。王子に顔を見せるなと言われる。
それを待つ時間は、どんなものなのだろう。
佐和は時計を見た。
「そろそろ、深夜勤の方が来ますね」
*
零時半を過ぎると、次の看護師たちが集まった。
奈津は森に確認してもらいながら、受け持った患者のことを伝えた。
鍋に落ちた狼。
眠れないリリア。
確認してほしい時間と、まだ終わっていないこと。
「はい。引き受けます」
深夜勤の看護師が言った。
奈津は頷き、時計を見た。
一時だった。
更衣室へ向かう前に病室の前を通ると、リリアのベッドのあたりは静かだった。
王妃の声が、かすかに聞こえた。
「私もね、鏡に聞かなければいいと思うのよ」
奈津は足を止めた。
「聞かなければ、知らずにいられるでしょう」
返事はなかった。
リリアは眠ったのかもしれない。
奈津はそのまま歩き出した。
*
帰りのタクシーの窓に、自分の顔が映っていた。
疲れていた。
けれど、今夜の仕事を一人で抱えたまま帰るわけではなかった。
次の人が、病院にいる。
奈津は鞄を膝の上で抱え直した。
自分には、帰る部屋がある。
洗濯物が干してあって、冷蔵庫には昨日買った食材が残っている。
ドレスも王子もない、いつもの部屋だった。
今は、それがありがたかった。
病院では、悪役たちが眠っている。
眠れない者もいる。
奈津は窓の外を見た。
信号の向こうで、空になったバス停が照らされていた。
明日の勤務まで、休もう。
そう思って、背もたれに身体を預けた。




