第七章 私、ヒロインなんですけど
第七章 私、ヒロインなんですけど
初めての準夜勤の日、奈津は昼過ぎまで家にいた。
午前中に洗濯をして、昼食を作った。出勤までまだ時間があると思ったのに、時計を見るたびに落ち着かなくなった。
勤務表を確認する。
準夜勤。十六時三十分から一時まで。
深夜勤は零時三十分から九時まで。引き継ぎのため、勤務が重なる時間があった。
今までにも夜勤はしていた。
けれど、夕方から患者が増える病院で働くのは初めてだった。
奈津は鞄に軽食を入れた。
食べる時間があるかどうかは、まだわからなかった。
*
「いらっしゃい。夜の部へようこそ」
森が言った。
ナースステーションには、日勤のときより明らかに多くの看護師がいた。
佐和もいる。
「今日は私と、森さんとで見ますから」
「よろしくお願いします」
奈津は頭を下げた。
申し送りが始まる。
狼は昼食を完食した。
狸は背中の痛みが軽くなり、眠れている。
ヘンゼルとグレーテルの魔女は、夕食に軟らかいものを希望している。
顔が浮かぶ患者が増えていた。
それだけでも、初日とは違う。
「十八時までは、比較的落ち着いています」
申し送りのあと、森が説明した。
「先に入院中の方のところを回って、できる準備は済ませましょう。夕食のあとは、来院が増えるので」
奈津は頷いた。
準備する物品の数も、日勤とは違っていた。
ガーゼを出す。
手袋を補充する。
処置に使うものを揃える。
銀色の櫛や星の付いた棒は、まだ使い方を覚えきれていない。森に確認しながら、一つずつ場所を確かめた。
「患者来院部屋、今は誰もいませんね」
シーツを整えて戻った奈津が言うと、森は時計を見た。
「今はね」
*
十九時を過ぎたところで、電話が鳴った。
腹部の創傷。
次は、頭部の打撲。
その次は、熱傷だった。
患者来院部屋へ向かうと、さっきまで空だったストレッチャーに狼が寝ていた。
もう一台には、鬼。
奥には、鼻の長い老婆がいた。
奈津は足を止めず、患者のそばへ行った。
驚くのはあとにする。
まず、返事ができるか。
どこが痛いか。
誰を先に医師へつなぐか。
「三崎さん、こちらお願いします」
「はい」
佐和の声に返事をする。
処置室へ運び、戻ると、また別のストレッチャーに患者がいた。
何度も往復するうち、奈津はあの部屋へ入る前に、短く息を吸うようになった。
次は誰がいるのだろう。
「おい、新しい看護師」
入院中の狼が、病室から呼んだ。
「はい」
「廊下、走るなよ。転ぶぞ」
「走っていません」
「足音が慌ててる」
奈津は自分の足元を見た。
「……気をつけます」
狼は頷いて、ベッドに戻った。
そのあとすぐ、また電話が鳴った。
*
二十一時半を過ぎると、来院の間隔が少し空いた。
奈津は休憩室で、鞄から出したおにぎりを食べていた。
向かいに座った森が、水を飲む。
「どうですか。ゴールデンタイム」
「本当に、ゴールデンタイムでした」
「でしょう」
森が笑った。
奈津は時計を見た。
「このあとは、落ち着くんですか」
「子供が寝れば。ただ、大人はまだ起きてるから」
「大人?」
「お話を聞くのは、子供だけじゃないですよ」
奈津がおにぎりを飲み込んだとき、休憩室の扉が開いた。
佐和が顔を出す。
「森さん、休憩のあとで新しい方をお願いします。三崎さんも、一緒に」
「どなたですか」
「来院者一覧には、まだ載っていない方です」
森が少し眉を上げた。
「最近のですね」
「ええ」
奈津は残りのおにぎりを見た。
あと二口だった。
「食べてからで大丈夫ですよ」
佐和は言った。
「今、先生が診ていますから」
*
処置室の椅子に座っていたのは、奈津と年の変わらないように見える若い女性だった。
淡い桃色のドレスを着ている。
片方の袖が裂け、腕には手当てを終えたばかりの包帯があった。
足元には、細かな泥が落ちていた。
奈津が声をかけると、女性は顔を上げた。
目が赤かった。
「三崎といいます。病室へご案内しますね」
「その前に、確認したいんですけど」
「はい」
女性は佐和と奈津を交互に見た。
「ここ、悪役が来る病院なんですよね」
奈津は佐和を見た。
佐和が頷く。
「そういう方が、多く来られます」
「じゃあ、私、間違ってるんです」
女性は言った。
「私、ヒロインなんですけど」
奈津は手元の書類に目を落とした。
名前はリリア。
その下には、聞いたことのない長い物語の題名が書いてあった。
「リリアさん、でよろしいですか」
「はい。でも、その名前の下に、ヒロインって書いてください」
「……ヒロインは、お名前ではないですよね」
「大事なんです」
リリアは包帯の巻かれた腕を抱えた。
「私が選ばれるはずだったんですから」
*
病室へ向かう間も、リリアは話し続けた。
悪役令嬢が、急に別人のようになった。
今まで嫌味ばかり言っていたのに、人に親切にするようになった。
勉強をして、領地のために働いて、周囲に慕われ始めた。
そのうち、王子まで悪役令嬢を見るようになった。
「私のことを、見てくれなくなったんです」
リリアの声が震えた。
「それは、つらかったですね」
奈津が答えると、リリアは勢いよく頷いた。
「でしょう? だから、あの人の本性を知らせようとしただけなんです」
「どうやって?」
「私を突き飛ばしたって、みんなに」
奈津は歩く速さを緩めた。
「突き飛ばされたんですか」
「……そのときは、まだ」
「まだ?」
「あの人、昔はやってたんです。私に嫌味も言ったし。だから、同じことでしょう?」
病室の入口で、佐和が立ち止まった。
「今日は、こちらのベッドです」
リリアは中を見た。
窓際に、王妃が座っていた。
包帯を巻いた足を台に載せ、こちらを見ている。
「新しい方?」
「はい。リリアさんです」
佐和が答える。
王妃はリリアを上から下まで見た。
「綺麗なドレスね。ずいぶん汚れているけれど」
「逃げたの。断罪されて、辺境の知らない土地に送られそうになったから」
リリアは椅子に座った。
「私、何も悪くないのに」
奈津は裂けた袖を見た。
来院時の申し送りでは、逃走中に転倒した際の傷だと聞いていた。
「何をしたのかしら、断罪されるなんて」
王妃が尋ねる。
「令嬢の侍女に、お金を渡しただけです」
「何のために?」
「私のお茶に、悪役令嬢が毒薬を入れたことにしてもらおうと思って」
王妃は黙った。
奈津も黙った。
リリアが顔を上げる。
「ほんの少し、それを私が飲んで倒れる。そしたら私が寝込んでる間に悪役令嬢が断罪されるはずなのに。それなのに、侍女が全て話してしまったんです……」
リリアは唇を噛んで言葉を詰まらせた。
「……ええ、ちゃんと聞いているわよ」
王妃はリリアを気遣うように言うと、言葉を続けた。
「あなた、自分が一番でなくなったから、寂しかったんでしょ」
リリアの顔が赤くなった。
「違うわ、一緒にしないでください。私はただ物語を元に戻そうとしただけだわ。あなたは悪役でしょう?あなたに私の何が分かるのよ」
「そうね」
王妃はあっさり頷いた。
「あなたは?」
「私は…ヒロインよ。王子に見そめられて幸せな結婚をするはずだったヒロイン」
今度の声は、小さかった。
*
奈津はドレスの泥を落とすための布を取りに、廊下へ出た。
森がナースステーションで記録をしていた。
「どうでした?」
「……お話が、まだ整理できていません」
「ご本人も、でしょうね」
森は画面から顔を上げた。
奈津は書類の題名を見せた。
「これ、子供に読む話なんですか」
「大人向けの小説です」
「じゃあ、朗読会とか?」
「それもありますけど、今は読み上げ機能ですね」
森は自分のスマートフォンを指した。
「文章を音声にして聞けるでしょう。家事をしながらとか、寝る前とか」
「機械の声でも、呼ばれるんですか」
「ええ。物語が声になるので」
奈津は、図書館の椅子に座った子供たちを想像していた。
けれど、今度は違う。
電車の中で、イヤホンをしている人。
洗い物をしながら、スマートフォンから流れる声を聞く人。
そんなところからも、患者は来る。
「それで、大人がまだ起きてるから、なんですね」
「そうです。読まれるお話も、患者さんも、増えてます」
森は時計を見た。
「次は、どんな方でしょうね」
奈津は、あまり考えたくなかった。
*
病室へ戻ると、リリアが泣いていた。
佐和が隣に座っている。
「私、こんな役、嫌です」
リリアが言った。
「こんなことをするために、あのお話にいたんじゃないのに」
佐和は急いで返事をしなかった。
包帯の巻かれていない側の背中に、そっと手を添える。
「今は、少し休みましょう。腕も痛むでしょう?」
リリアは泣きながら頷いた。
王妃は窓のほうを向いていた。
奈津は濡らした布を持ち、ベッドの横へ行った。
「ドレス、ここだけ拭いてもいいですか」
リリアが頷く。
泥を拭き取っていると、リリアはぽつりと言った。
「最初は、王子様と身分の低い私がいろんな障害を乗り越えて幸せになるはずの物語だったんです」
奈津は顔を上げた。
リリアは自分の手を見ていた。
「ちゃんと、そうだったのに」
奈津は何と言えばいいかわからなかった。
綺麗なドレスも、可愛らしい顔も、その言葉を保証してはくれない。
それでも、泣いているのは本当だった。
奈津は布の綺麗な面を出して、袖の泥をもう少し拭いた。
廊下で電話が鳴った。
森の声がする。
「来院です。狼さん、臀部の熱傷」
病室の王妃が、目を閉じたまま呟いた。
「また、お鍋に降りたのね」
奈津は手を止め、佐和を見た。
「三匹の子豚です」
佐和が教えてくれた。
時刻は、二十二時を回っていた。
子供はもう寝ているだろうと思っていた。
物語は、まだ読まれていた。




