第六章 魔女の家
# 第六章 魔女の家
奈津が二〇三号室に入ると、狼と狸が向かい合っていた。
狼はベッドに腰掛け、狸は背中を圧迫しないよう、横向きになっている。
「だから、お前は兎を信用しすぎなんだよ」
狼が言った。
「背中に火をつけられたあとで、なんで薬まで塗ってもらうんだ」
「薬だって言うから」
「相手は同じ兎だろ」
「痛かったんだよ。治るって言われたら、頼みたくなるだろ」
狸が顔をしかめた。
奈津はそのやり取りを聞きながら、点滴を確認した。
「今の痛みは、どうですか」
「さっきより、まし」
「よかったです。強くなるようなら教えてくださいね」
「お前は変なもの、塗らないよな」
「塗りません」
昨日も答えたことだった。
狸は頷き、また狼を見た。
「だいたい、お前だって、毎回お腹を切られてるじゃないか」
「寝てる間にやられるんだ。起きてりゃ逃げる」
「じゃあ、寝なきゃいい」
「腹いっぱいになったら眠くなるだろ」
奈津は点滴の滴下を見たまま、口元に力を入れた。
笑うところではない。
どちらも、痛い思いをしてここにいる。
けれど、話しているのは、なかなかやめられない生活習慣のことのようだった。
*
昼前に、新しい患者が来た。
熱傷。
老婆。
ヘンゼルとグレーテル。
連絡を受けた佐和が物品を準備する隣で、奈津は思わず尋ねた。
「お菓子の家の、ですか」
「ええ」
それ以上は聞かなかった。
結末を覚えていたからだ。
患者来院部屋のストレッチャーにいた魔女は、目を閉じていた。声をかけると返事をし、次に小さく呻いた。
奈津は佐和と一緒に動いた。
顔を見て、呼吸を見て、医師に伝える。
昨日ほど、足は止まらなかった。
それでも処置の間、魔女の細い手がシーツを握るのを見ると、絵本のページが頭に浮かんだ。
かまどの扉。
外から閉める、小さな手。
奈津は目の前の患者に視線を戻した。
*
魔女が話を始めたのは、午後、痛みが少し落ち着いてからだった。
二〇三号室には、狼と狸、それから魔女がいた。
奈津が必要な物品を持って入ったとき、魔女は天井を見ていた。
「子供だからって、何でも許されるのかしら」
誰に言ったのか、わからなかった。
狼が顔を向ける。
「何の話だ」
「私の家よ」
魔女はゆっくり瞬きをした。
「知らない子供が来て、いきなり屋根を食べる。窓も食べる。私が出ていくまで、一言もない」
奈津は手を止めた。
「お腹がすいていたんでしょうね」
言ってから、魔女の顔を見た。
魔女は奈津を見返した。
「でしょうね」
声は静かだった。
「親に置いていかれたのも、可哀想だと思うわ。道に迷ったら、怖かったでしょう」
奈津は頷いた。
「でも、それで私の家を壊していいの?」
返事が、すぐには出なかった。
「食べ物でできてるんだろ」
狼が口を挟んだ。
「食べ物なら、持ち主に聞かずに食べていいの?」
魔女が言う。
「あなたの夕飯がそこにあったら、私が黙って食べていい?」
「それは困る」
「そうでしょう」
狼は顎を掻いた。
魔女はまた天井を見た。
「扉を叩いて、お腹がすいていますって言えばよかったのよ。一言でいいの。食べてもいいですか、とか」
「でも、あの家は子供を誘うために建てたんですよね」
奈津は慎重に尋ねた。
「ええ」
魔女は否定しなかった。
「子供を食べようとしたことも?」
「ええ」
部屋が少し静かになった。
「それは、私が悪いわ」
魔女は言った。
「逃げなければ、あの子たちは食べられていた。だから、必死だったんでしょうね」
奈津は、次の言葉を待った。
「でも、だからって、最初からあの子たちのしたことが、全部正しかったことになるの?」
魔女の指が、シーツの端をつまんだ。
「話が終わると、私の言ったことも、したことも、全部“悪い魔女だから”で片づくのよ。家を食べられて怒ったことまで」
狸が顔を上げた。
狼も、もう口を挟まなかった。
「自分の家が壊されているのを見て、怒った。それくらいは、普通のことじゃない?」
奈津は魔女の細い指を見た。
あの家を、誰が建てたのだろう。
絵本には、お菓子でできた家があったと書かれていた。
それを建てる日も、雨漏りを直す日も、窓を拭く日も、奈津は考えたことがなかった。
「家を壊されて、嫌だったんですね」
奈津が言うと、魔女はこちらを見た。
「そうよ」
短い返事だった。
けれど、さっきよりも少し、声がはっきりしていた。
*
「俺も、婆さんに悪いことをした」
狸が言った。
魔女は狸を見た。
「だから、兎が怒ってるのはわかる。でも、背中に火をつけたなら、もうそれでいいだろ。薬だって言って辛子を塗るのは、違うだろ」
「痛そうだな」
狼が言った。
「痛いんだよ」
「さっきから聞いてる」
「何回でも言う。痛かったんだから」
狸は枕に顔を戻した。
魔女が目を閉じる。
「私も、痛かったわ」
その声に、奈津は魔女の顔を覗いた。
「今も強いですか」
「今は、さっきより楽」
「そうですか。痛みが変わったら、呼んでください」
魔女は小さく頷いた。
奈津が使い終わった物品を片づけていると、狼が言った。
「お前、食うなら大人にしろよ」
奈津は振り返った。
「狼さん」
「いや、そういう話じゃないな」
狼はすぐに言い直した。
魔女が鼻から息を吐いた。
「相談相手を間違えたわ」
「俺も家を持ってりゃ、わかるかもしれねえけど」
「森は?」
「あれは、俺だけのもんじゃねえから」
魔女は少しだけ、口元を緩めた。
*
廊下へ出ると、佐和が待っていた。
「魔女さん、お話しできていましたね」
「はい。痛みは落ち着いているそうです」
奈津は処置の様子を伝え、それから言葉を探した。
「私、あの話で魔女の家のことを考えたことがなかったです」
「お菓子の家ですか」
「はい。子供が食べるところ、楽しそうだと思っていました」
佐和は頷いた。
「おいしそうですものね」
「でも、誰かの家なんですよね」
奈津は病室の扉を見た。
「子供を食べようとしたこととは、別に」
「そうですね」
佐和は、奈津が持っていたトレーを受け取った。
「ここでは、ご本人の話が聞けますから」
それから、トレーの上を確かめる。
「だからといって、全部に頷かなくてもいいんですよ。三崎さんが困ってしまいます」
「はい」
奈津は少し笑った。
「狼さんが、大人を食べるよう勧めていたので止めました」
「それは、止めて正解です」
佐和も笑った。
病室から、また狼の声がした。
「で、屋根を食われたところは、どうするんだ」
「戻ったら、直ってるわ」
「じゃあ、よかったじゃねえか」
「よくないわよ。また食べられるのよ」
奈津は扉の向こうを見た。
狼の腹も、狸の背中も、魔女の家も。
元に戻れば、それで終わりとはいかないらしかった。
佐和は病室の声を聞きながら、トレーを持ち直した。
「今日は、よくお話しになりますね」
奈津は頷いた。
朝まで、怪我の場所と物語の名前で覚えていた患者たちだった。
今は、狸が薬を怖がる理由を知っている。
狼が、何を言っても余計な一言を足してしまうことも。
そして魔女は、自分の家の話を、最後まで聞いてほしかったのだ。
奈津はメモ帳を取り出し、魔女の痛みが落ち着いていることを書いた。
そのあとで、昼食はまだあまり食べられていなかったことを思い出す。
「あとで、食べられそうなものを聞いてきます」
「お願いします」
奈津は、次にすることを一つ決めて、ナースステーションへ戻った。




