第五章 読むための物語
第五章 読むための物語
帰り道の本屋に入ったとき、奈津は夕飯のことを考えていた。
隣のスーパーで何か買うつもりだった。先に本屋へ寄ったのは、入口に絵本の棚が見えたからだ。
赤ずきん。
三匹の子豚。
かちかち山。
並んでいる表紙を見て、足が止まった。
どれも、知っている話だった。
今日、あの病院で会うまでは。
奈津は、かちかち山の絵本を手に取った。
狸が薪を背負っている。
その後ろで、兎が笑っていた。
ページをめくりかけて、やめる。背中の焼けた皮膚と、辛子を塗るなと繰り返していた声を思い出した。
棚に戻し、今度は赤ずきんを見た。
表紙の狼は、木の陰から女の子を見ている。
あの狼は、処置が終わると「ありがとな」と言った。
絵本の狼も、そう言うのだろうか。
奈津は棚の前に立ったまま、しばらく考えた。
物語が声に出して読まれると、出番に呼ばれる。
傷つけば、病院へ来る。
説明は聞いた。
傷も見たし、空だったはずのストレッチャーに狸が寝ているところも見た。
それでも、家で誰かが絵本を読むことと、あの病院に患者が現れることが、頭の中でうまくつながらなかった。
本当に?
声に出して読むだけで?
奈津は、棚の下の段にしゃがんだ。
確かめるなら、ひどいことにならない話がよかった。
切られない。
焼かれない。
井戸に落とされない。
そんな条件で童話を探したのは、初めてだった。
何冊か最後のページを確かめてから、『金の斧、銀の斧』を選んだ。
正直な木こりは、金の斧も銀の斧ももらう。
嘘をついた木こりは、何ももらえない。自分の斧さえ、返してもらえなかった。
それで終わっている。
怪我はしていない。
奈津は本を閉じ、レジへ向かった。
*
夕飯を済ませて、テーブルの上に絵本を置いた。
ひとり暮らしの部屋で、絵本を音読するのは、少し気恥ずかしかった。
誰も聞いていないのに、最初は小さな声になった。
「昔々……」
奈津は途中で咳払いをして、読み直した。
木こりが斧を落とす。
水の中から神様が現れる。
金の斧。銀の斧。普通の斧。
自分の声が、静かな部屋に響いた。
正直な木こりが帰り、もう一人の木こりが川へ行く。
奈津はその絵を見た。
少し意地の悪そうな顔だった。
この人も、今、どこかで斧を落としているのだろうか。
最後まで読んで、本を閉じる。
部屋には何も起きなかった。
当たり前だ。
現れるとすれば、自分の部屋ではなく、病院の患者来院部屋なのだから。
奈津は時計を見た。
午後九時を少し過ぎていた。
ゴールデンタイム。
佐和の言葉が浮かんだ。
今頃、森たちは働いている。
奈津は絵本から手を離した。
*
翌朝、奈津は患者の一覧を、いつもより丁寧に見た。
昨日が初日だったので、いつもより、というほど慣れてはいない。
けれど、探している名前はあった。
木こり。
嘘つきの木こり。
金の斧、銀の斧。
それらしい患者はいなかった。
深夜勤の看護師が、夜間の経過を伝えている。
狼が二人。
鬼が一人。
王妃は足の痛みが軽くなったらしい。
木こりの話は出なかった。
奈津は、少しだけほっとした。
同時に、やっぱり来ないのかとも思った。
申し送りが終わってから、佐和が声をかけた。
「何か、気になることがありました?」
「いえ……」
奈津は迷った。
絵本を読んで、患者が来るかどうか確かめようとした。
口にすると、ずいぶん子供じみたことをした気がした。
それでも、佐和は待っている。
「昨日、帰りに絵本を買ったんです」
「ええ」
「金の斧、銀の斧を。家で、声に出して読みました」
佐和は少し目を丸くした。
「そうでしたか」
「でも、木こりの方はいらっしゃらないんですね」
「その本では、怪我をされました?」
「いいえ。斧を返してもらえないだけで」
「では、出番を終えて、そのまま戻られたのでしょうね」
奈津は患者の一覧に目を落とした。
読めば、必ず入院するわけではない。
それは、考えれば当然だった。
「だから、本当に読まれたかどうかは、ここではわからないんですね」
「ええ」
奈津は頷いた。
確かめられなかった。
でも、確かめるために赤ずきんやかちかち山を読むのは、違う気がした。
狸の背中を思い出す。
狼の腹から出てきた石も。
それに、もう一つ気づいた。
「……もし怪我をする話を読んでいたら、夜勤の方の仕事を増やしていたんですよね」
佐和を見た。
「私が、本当かなって思っただけで」
治療するのは、自分ではない。
家で座って絵本を読んでいる間に、誰かが処置の準備をする。患者を運び、痛みを聞き、薬を使う。
ああ。
これは、やってはいけないやつだった。
「すみません。そこまで考えていませんでした」
「やったやった」
明るい声が割り込んだ。
振り返ると、申し送りを終えた深夜勤の看護師が立っていた。
高梨だった。
「私も、初めてここに来たときに読んだもの。本当かなと思って」
奈津は顔を上げた。
「何を、ですか」
「思いっきり、桃太郎」
高梨は笑った。
「家にあったから。しかも、子供の頃に読んでた、戦うところが結構長いやつ」
「……どうなったんですか」
「次の日、鬼がめちゃくちゃ入院してた」
高梨は両手を広げた。
「桃太郎に切られた鬼。犬に噛まれた鬼。猿に引っかかれた鬼。雉につつかれた鬼」
奈津は、病室のベッドを思い浮かべた。
そこに、鬼。
隣も鬼。
向かいも鬼。
包帯を巻いた角が、枕の上に並んでいる。
「ほかの読み聞かせもあったから、どの鬼が私の読んだ話から来たかまでは、わからなかったけどね」
高梨は肩をすくめた。
「ちょうど先生が鬼の処置をしていてね。“昨日から桃太郎が多いなあ”って」
「言ったんですか?自分も読んだって」
「言った。“ごめんなさい、私も一冊”って」
「それで?」
「“じゃあ、そこのガーゼ取って”って言われた」
奈津は、思わず笑った。
笑ってから、少し困った顔になった。
「でも、鬼は痛かったでしょうね」
「そうね」
高梨も、今度は笑わずに頷いた。
「だから、次からは最後まで確かめてから選ぶようになった。でも、甥っ子は桃太郎が好きでね。遊びに来ると、持ってくるの」
佐和が口を開いた。
「この病院の、新人ナースあるあるですね」
「佐和さんも、よく相談されるでしょう」
「ええ。“読んでしまったんですけど”って」
奈津は、鬼に占領された病室をもう一度想像し、苦笑いした。
*
高梨が更衣室へ向かったあと、奈津は佐和に尋ねた。
「ここで働いていたら、絵本を読みづらくなりませんか」
「なるでしょうね。患者さんの顔を知っていますから」
「子供に読んでって頼まれても、どうしようって思いそうです」
佐和はしばらく考えていた。
ナースステーションの窓から、朝の光が入っている。
「それでも、物語は読まれるためにあります」
やがて、佐和が言った。
「たとえ物語の中で誰かが傷ついても、そこに意味があるんですよ」
奈津は昨日買った絵本を思い出した。
嘘をついた木こりは、斧を失った。
それを読んだ子供が、嘘をつくことについて考えるかもしれない。
桃太郎なら、怖い相手に立ち向かうことを。
赤ずきんなら、知らない相手の言葉を信じてしまうということを。
同じ話でも、聞く人によって、心に残るところは違うのだろう。
「患者さんが痛いから、もう誰も読まないでください、とは言えないんですね」
「ええ」
佐和は静かに頷いた。
「私たちは、来られた方を治します」
奈津はメモ帳を開いた。
昨日のページには、処置の手順や物品の場所が書いてある。
その下に、空白があった。
何かを書こうとして、やめた。
今の話は、一行にまとめられなかった。
病室から、呼び出しの音がした。
「狼さんですね」
佐和が立ち上がる。
奈津も続いた。
二〇三号室の扉を開けると、狼が身体を起こしていた。
「腹、痛みますか」
「いや。腹が減った」
奈津は少し笑った。
「朝ご飯、もうすぐです」
「肉は?」
「献立を見てきますね」
狼は不満そうに鼻を鳴らした。
奈津はその顔を見ながら、今日は本屋へ寄らずに帰ろうと思った。
まだ信じきれないことは、たくさんある。
けれど、目の前の狼をもう一度傷つけてまで、確かめたいとは思わなかった。




