第四章 終わらないものは終わらない
# 第四章 終わらないものは終わらない
昼食を食べ終えたとき、奈津はまだ、自分が狼と狸の処置を手伝ったことをうまく飲み込めていなかった。
食堂では、見学の日に会った女性が、足を台に載せて食事をしていた。
高梨に聞くと、白雪姫の王妃なのだという。
そう言われても、目の前にいるのは、煮魚の骨を丁寧に外している患者だった。
「林檎は、お好きじゃないんですか」
配膳のとき、つい聞いてしまった。
王妃は奈津を見上げた。
「仕事に使うものを、休みのときまで見たい?」
「……失礼しました」
「いいのよ。新人さんは、だいたい聞くから」
王妃はそう言って、小鉢に箸を伸ばした。
*
午後には、鼻を怪我した鬼が来た。
その処置が終わらないうちに、今度は片方の靴を抱えた女が来た。
患者来院部屋へ向かう佐和について歩きながら、奈津はナースステーションを振り返った。
昼休憩から戻って以来、椅子に座っている人を見ていない。
高梨は病室を回り、もう一人の看護師は医師の処置についていた。
佐和は奈津に説明しながら、その間にも呼ばれ、電話を取り、物品を揃えている。
奈津はまだ、知らないものを尋ねることが多かった。
教える人の仕事を、むしろ増やしている。
「こんなに急に患者さんが来るのに、看護師、少なくないですか」
佐和は立ち止まり、奈津を見た。
「そう思いますよね」
「はい。入院されている方もいらっしゃいますし」
「ここは三交代なんですけど、夜勤のほうに人数を多く配置しているんです」
「夜のほうが多いんですか?」
奈津は聞き返した。
今までの病院では、夜勤は少ない人数で回すものだった。
「本当のゴールデンタイムは、子供が寝る時間ですから」
佐和は言った。
「寝る前に、一冊。もう一冊。あと一冊だけ、って」
奈津は患者来院部屋の扉を見た。
あの空のストレッチャーが、次々と埋まるところを想像する。
「……寝かしつけですね」
「ええ。ですから、準夜勤は特に多くしています。深夜も日勤より厚くして、続けて来られた方の治療と、その後のお世話をするんです」
「日中は、少ないんですか」
「夜に比べれば。ただ、最近は図書館や児童館でも読み聞かせをするところが多いでしょう。正直、日中の人手不足は否めませんね」
奈津は小さく頷いた。
ここもか。
給料が高くても、休みが多くても、結局は人が足りない。
頭の中に、聞き慣れた声が浮かんだ。
ちょっと残れる?
悪いんだけど。
三崎さんなら安心だから。
「人数については、見直しているところです。今日は初日から忙しくなってしまいましたね」
「いえ」
奈津は首を振った。
今は、目の前の仕事を覚えなければならない。
患者来院部屋の中から、女の声がした。
「この靴、捨てないでよ!」
「捨てませんから。まず、足を見せてくださいね」
佐和は扉を開けながら答えた。
*
時計を見る余裕ができたのは、午後四時半を過ぎてからだった。
奈津のメモには、まだ終わっていないことが並んでいた。
狸の処置後の様子を確認すること。
狼の点滴の残量を見ること。
入院した患者の荷物を整理すること。
物品の補充も残っている。
記録は、ほとんど手をつけられていなかった。
奈津は椅子に座り、端末を開いた。
そこへ、見覚えのない看護師が何人も入ってきた。
「お疲れさまです」
「今日は昼から来てるんですね」
「うん。狸さん、背中。あと、二〇四に新しい方」
高梨が答える。
出勤した看護師たちは、鞄を置くと、それぞれ患者の一覧を確認し始めた。
一人が奈津を見て、笑顔を向けた。
「三崎さんですね。準夜勤の森です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「初日から濃い顔ぶれでしたね」
奈津は曖昧に笑った。
顔ぶれは、確かに濃かった。
佐和が隣に立った。
「三崎さん、残っていることを教えてもらえますか」
奈津はメモを差し出した。
「すみません。まだ、こんなに」
「はい。では、森さんにお願いします」
奈津は顔を上げた。
「……全部ですか?」
「ええ。私からも、今日の経過をお伝えしますので」
森はメモに目を通した。
「狸さんの確認から行きますね。物品は、そのあとで」
「記録も、まだ終わっていなくて」
「処置の時間と、お薬を使った時間は?」
「それは、入れています」
「じゃあ、あと必要なことを教えてください」
奈津は狸の様子や、狼が訴えていた痛みについて説明した。
森は短く確認し、メモを取った。
その顔を、奈津はつい見てしまった。
嫌そうではなかった。
時計が、日勤の終わる時刻を指した。
「はい。あとは引き受けました。お疲れさまでした」
森が言った。
奈津は端末とメモを交互に見た。
「でも、私がやったことの記録は、私が書いたほうが」
「今、教えてもらった分はこちらで追記します。誰から引き継いだかも書きますから」
森は椅子を引いた。
「終わらないものは終わらないですよ。一日で病院を閉めるわけじゃないんですから」
そう言って笑った。
「記録なんて、一行よ」
「一行?」
「いつもの処置で、問題なければね。何か変わっていたら、それはちゃんと残すけど」
森が画面を開く。
時刻、処置、患者の反応。
必要なことが、短く並んでいた。
奈津は、記録を書くために言い回しを考え、別の用紙にも同じ内容を書き直していた夜を思い出した。
ここでは、次の人が読んでわかれば、それで先に進んでいた。
*
「帰っていいんですか」
廊下へ出てから、奈津はまた聞いた。
佐和は少し笑った。
「面接のときにも、聞かれましたね」
「はい。でも、こんなに残っているので」
「そのために、交代するんです」
更衣室へ向かう途中、奈津は掲示板を見た。
勤務表。連絡事項。物品の置き場所を変更したという紙。
前の病院では、その何倍も掲示物があった。
「委員会の担当は、いつ決まるんですか」
「委員会?」
「感染とか、安全とか。あと、看護研究も」
「ああ。必要な話し合いは勤務中にしますけど、三崎さんに何かを割り当てる予定はありませんよ」
「研究は?」
「今のところ、ありません」
「研修は……」
「こちらで必要な技術は、勤務の中で覚えてもらいます。今日は十分、勉強されたでしょう?」
奈津は頷いた。
狼の腹から石が出てくるところを見た。
空のストレッチャーに狸が現れた。
確かに、覚えることは多かった。
「書類も、少ないんですね」
「患者さんは、治してもらえさえすれば満足なの」
佐和は病室のほうを見た。
「それで次に、食事だとか、眠れないだとか、隣の方がうるさいだとか。そういうお話になるんです」
奈津もつられて振り返った。
狼の部屋から、声がした。
「腹が鳴っただけだろ!」
「それがうるさいのよ!」
佐和は小さく息をつき、笑った。
「ほら。元気になってきましたね」
*
制服を脱いでいる間も、奈津は何かを忘れている気がしていた。
記録を残した。
物品も補充していない。
けれど、そのことは全部伝えた。
引き継いだ人は、頷いた。
それなのに、帰ることに後ろめたさがあった。
ロッカーを閉め、更衣室を出る。
ナースステーションでは、準夜勤の看護師たちが働いていた。
森がこちらに気づき、片手を上げる。
「お疲れさまでした。また明日」
「……お疲れさまでした」
ちょっと残れる、とは言われなかった。
玄関を出ると、外はまだ明るかった。
奈津は足を止めた。
病院では、まだ仕事が続いている。
自分の残した仕事も、その中にある。
でも、自分は帰っている。
狼が話すことも、狸が突然現れることも、不思議だった。
それと同じくらい、終業時間に帰れることが、不思議だった。
鞄の中で、スマートフォンが震えた。
母からだった。
『新しいところ、どうだった?』
奈津は画面を見つめ、返事を打った。
『忙しかった。でも、もう帰ってる』
送ってから、もう一言付け足す。
『夜勤もある。夜のほうが忙しいんだって』
すぐに返事が来た。
『そら病院やもんね』
奈津は玄関を振り返った。
母が想像している病院とは、たぶん随分違う。
けれど、中では患者が治療を受けている。
看護師が働き、次の看護師が引き継ぐ。
書類も、会議も、ずっと少ない。
それでも、病院は動いていた。
奈津はスマートフォンを鞄にしまった。
今日は、帰りに食材を買える。
そのことに気づいて、ようやく歩き出した。




