第三章 患者来院部屋
第三章 患者来院部屋
狼の腹から取り出された石は、銀色のトレーの上に並んでいた。
小石ではなかった。
奈津は、処置の片づけをしながら、なるべくそちらを見ないようにした。
見なくても、石がトレーに当たったときの音が耳に残っている。
医師は驚かなかった。佐和も驚かなかった。
「今回は少なかったですね」
そんな会話までしていた。
少ないのなら、普段はどのくらい入っているのだろう。
考えたところで、奈津はやめた。
狼は処置を終え、病室へ移った。運ばれていく途中で、奈津に片手を上げた。
「ありがとな」
「……お大事に」
何と返せばいいかわからず、いつもの言葉が出た。
狼の口から人間の言葉が出ることにも、自分がそれに返事をしていることにも、まだ慣れなかった。
*
佐和が医師と話している間、奈津は廊下に立っていた。
ここは、何なのだろう。
面接を受けた病院。自分で選び、前の職場を辞めてまで来た病院。
それは間違いなかった。
壁に時計があり、廊下の端には消火器がある。手すりも、病室の入口の表示も、見慣れたものだった。
その手すりの上に、額に入った絵が並んでいた。
見学のときには、子供向けの飾りだと思って通り過ぎた。
丸い林檎。
山盛りの金貨。
大きな肉の塊。
そして、赤い頭巾をかぶった女の子。
奈津は最後の絵を見て、眉を寄せた。
ほかの額には、小さな札が付いている。
『お好きなものをお聞かせください』
赤い頭巾の絵にも、同じ札があった。
小児科なら、可愛らしいと思ったかもしれない。
今は、あまり可愛らしく見えなかった。
「それ、患者さんが描いたんですよ」
後ろから声がした。
振り返ると、朝に挨拶した看護師が立っていた。確か、高梨さんだった。
「気分転換に。描くのが好きな方もいらっしゃるので」
「好きなもの、なんですか」
「そうみたいです」
高梨は奈津の視線を追い、赤い頭巾の絵を見た。
「ああ、それは一度、食堂に飾ったんですけどね。食事のときに落ち着かなくなる方がいて、こちらに移しました」
奈津は返事をしなかった。
理由は、聞かなくても少しわかった。
*
ナースステーションへ戻ると、佐和が別の患者に呼ばれた。
「三崎さん、ここで少し待っていてください。説明の途中になってしまって、ごめんなさいね」
「はい」
一人になって、奈津は棚を見た。
普通の物品の隣に、妙なものがあった。
透明な袋に入った、銀色の櫛。
先端に星の付いた棒。
小さな瓶には、淡い金色の粉が入っている。ラベルには『飛散注意』と書かれていた。
奈津は瓶に顔を近づけたが、触らなかった。
その隣には、布でできた長い袋がある。
『尻尾用・大』
大があるなら、小もあるのだろう。
引き出しを確認すると、本当にあった。
奈津はそっと閉めた。
机の端には、分厚い本が置かれていた。
深い緑色の表紙に、金色の枠。医学書とは違う、古い図鑑のような見た目だった。
両手で持ち上げると、思った以上に重い。
表紙には『来院者一覧』とだけ書いてある。
開いてみた。
一ページ目には、狼の姿が描かれていた。
二本の足で立ち、こちらを向いている。
次のページも狼だった。ただし、身体つきや毛の色が違う。
その次には、冠をかぶった女。
鼻の曲がった老婆。
腹の大きな鬼。
名前や説明はなく、絵だけが続いていた。
奈津はページを戻した。
冠の女は、見学の日に会った女性に似ていた。顔も、口元も。
けれど絵の中の女は、真っ赤な靴を履いていた。
「私も、そうだった」
奈津が顔を上げると、高梨が机の向かいに座っていた。
「その本を開いて、何回も首を傾げた。知ってる絵なのに、知ってるはずのない人がいるんだもの」
「これ、患者さんなんですか」
「ええ。姿で確認するための本です。同じ名前の方も多いから」
「さっきの狼も?」
「載っていますよ」
奈津は一ページ目を指した。
高梨は身を乗り出してから、頷いた。
「その方ですね」
「……着ぐるみでは、ないですよね」
「ええ」
「狼なのに、話していました」
「お話の中でも、話しているでしょう?」
奈津は本に目を落とした。
確かに、話している。
赤ずきんのおばあさんになりすまして、赤ずきんと会話する。
けれど、それは本の中の話だった。
「ここには、物語に出てくる方が来るんです」
高梨は奈津の顔を見ながら、ゆっくり言った。
「主に、悪役と呼ばれる方たちが」
奈津は、開いた本を閉じられなかった。
「……どうして、怪我をするんですか」
高梨は少し考えた。
「三崎さん、赤ずきんのお話の終わりは、覚えています?」
「猟師が来て、お腹を切って……」
言いながら、奈津は銀色のトレーを思い出した。
石。
狼の腹。
さっき自分が手伝った処置。
「その怪我です」
高梨が言った。
奈津は椅子を引き、座った。
*
佐和が戻ってきたとき、奈津は来院者一覧を膝に載せたままだった。
「高梨さんから、少し聞きました?」
「……はい」
少し、で済む内容ではなかった。
「驚かせてしまいましたね」
「見学のときには……」
「患者さんのことを詳しくお話しする前に、病棟に呼ばれてしまって。あの日は、説明が足りませんでした」
佐和は奈津の隣に椅子を寄せた。
「不安なことは、遠慮なく聞いてください」
奈津は本を机に置いた。
何から聞けばいいのかわからない。
考えていると、今さら一つ、気になった。
「さっき、救急車の音がしませんでしたよね」
「ええ。救急車では来られないので」
「じゃあ、どうやって?」
佐和が答える前に、机の電話が鳴った。
高梨が受話器を取る。
「はい。……わかりました」
電話を置くと、椅子から立ち上がった。
「急患です。背部の熱傷」
「三崎さん、一緒に来てもらえますか」
佐和に言われ、奈津も立った。
「ストレッチャーを取ってきます」
「では、こちらです」
案内されたのは、玄関とは反対側の廊下だった。
突き当たりの両開きの扉に、『患者来院部屋』と書いてある。
佐和が扉を開けた。
倉庫のような部屋を想像していた奈津は、その広さに驚いた。
ストレッチャーが何台も、間隔を空けて並んでいる。
白いシーツ。きちんと畳まれた薄い掛け物。
窓はなかった。
患者を運び込むための別の入口も、見当たらない。
奈津は手前のストレッチャーに向かい、横のレバーを見た。高さを調整する仕組みは、以前使っていたものと同じようだった。
奥で、何かが鳴った。
寝返りを打つときのような、シーツの擦れる音だった。
顔を上げる。
二台向こうのストレッチャーに、誰かがいた。
奈津は瞬きをした。
今、見たときには、空だった。
茶色い毛に覆われた身体が、横向きに丸まっている。
丸い耳。
太い尻尾。
狸だった。
その背中の毛が広い範囲で焼け、皮膚が赤く露出していた。
「……熱い」
狸が、かすれた声を出した。
奈津は思わず近づいた。
「動かないでください」
言ってから、佐和を振り返る。
「さっき、誰も……」
「ええ。今、来られました」
佐和は狸の顔を覗き込み、声をかけた。
「病院ですよ。お名前、言えますか」
「……狸だ」
「はい。お話は、かちかち山ですね」
狸は小さく頷いた。
佐和が高梨に連絡を入れ、医師を呼ぶよう頼んだ。奈津は言われるまま、ストレッチャーの車輪の固定を外した。
狸が顔をしかめる。
「辛子は、塗るなよ」
「塗りません」
佐和の答えは、きっぱりしていた。
「ここでは、お薬を使います」
狸の肩から、少しだけ力が抜けた。
*
医師に狸を引き継いでから、佐和は奈津を廊下の端へ連れていった。
「物語を、誰かが声に出して読むんです」
佐和は説明した。
「お母さんやお父さんが、お子さんに。幼稚園の先生が、園児に。図書館の読み聞かせもありますね」
「そのたびに、あの人たちが……」
「出番に呼ばれます。そして、傷ついた方が、あの部屋に来られるんです」
奈津は窓の外を見た。
道路を、子供を乗せた自転車が走っていく。
普通の朝だった。
どこかの家で、誰かが絵本を開いている。
子供は、続きを待っている。
その続きを、さっきの狸は背中に負っていた。
「治って退院しても、また読まれたら?」
「また、来られることがあります」
面接で聞いた話が、ようやくつながった。
同じような傷。
退院した、その日のうちに。
奈津は額に手を当てた。
「……それで、再入院が多いんですね」
「はい」
佐和は頷いた。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて処置室の中から、狸の声が聞こえた。
「本当に、辛子じゃないだろうな」
「違いますよ」
医師が答える。
奈津はそちらを見た。
狼の次は、狸。
机の上には、まだ何十ページもある図鑑が置いてある。
初日の午前中は、まだ終わっていなかった。




