第二章 再入院の患者さん
第二章 再入院の患者さん
「その日のうちに、ですか」
奈津が聞き返すと、隣の看護師は頷いた。
「もちろん、毎回ではありませんけれど」
それはそうだろうと思ったが、あまり安心はできなかった。
傷が治って退院した人が、その日のうちに同じ傷で戻る。どんな生活をしているのだろう。
「ご自宅で、また怪我をされるということでしょうか」
「患者さんが戻られる場所で、ですね」
院長が答えた。
「生活環境も含めて、少し特殊な事情を抱えている方々なんです」
奈津はメモに『再入院多い』と書いた。
暴力を受けている人なのか。それとも、危険のある仕事に就いているのか。
いずれにしても、傷を治すだけでは解決できない問題があるのだろう。
「退院支援も、看護師が担当するんですか」
「医師やほかの職員と協力して行います。ただ、私たちにも変えられない事情がありまして」
院長はそこで言葉を切った。
「詳しくは、現場でご説明することになります。勤務をお願いする前に、実際の患者さんをご覧いただく時間を設けますので」
奈津は頷いた。
特殊な事情。
その言葉は気になった。それでも、患者の事情が複雑なこと自体は、今の病院でも珍しくなかった。
「見学してから、お返事をしてもよろしいですか」
「もちろんです」
返事はすぐだった。
「こちらからも、条件を書面でお渡しします。ご不明な点は、いつでもお尋ねください」
机の上に置かれた書類を、奈津は両手で受け取った。
*
見学の日、病棟は妙に静かだった。
「今日は、落ち着いていますね」
案内してくれたのは、面接にも同席していた看護師だった。
名札には『佐和』とあった。
「日によって、随分違うんです」
佐和は足を止めて、病室の扉を軽く叩いた。
返事を待ってから中に入る。
「見学の方をご案内してもよろしいですか」
「ええ。どうぞ」
窓際のベッドに、年配の女性が座っていた。両足に包帯を巻き、膝に本を置いている。
奈津が名乗ると、女性は顔を上げた。
「新しい看護師さん?」
「まだ、見学です」
「そう。ここは忙しいわよ」
奈津は少し笑った。
「そう伺いました」
「でも、この人がいれば大丈夫」
女性は佐和を見た。
佐和は「買いかぶりですよ」と答え、足の痛みを尋ねた。女性の表情がわずかに変わると、すぐに姿勢を直すのを手伝った。
慣れた動きだった。
隣のベッドは空いていた。向かいの患者は、布団を鼻のあたりまで引き上げて眠っていた。
結局、奈津が挨拶をしたのは、その女性だけだった。
病棟の設備を見て、記録の方法を聞き、勤務表も見せてもらった。
希望休が、きちんと入っていた。
「夜勤の次の日に、日勤が入ることはないんですね」
「ありませんよ」
佐和は不思議そうに奈津を見た。
「眠れなくなってしまうでしょう」
奈津は勤務表に目を戻した。
当たり前のことを、当たり前のように言う人だった。
*
採用の連絡を受けてから、奈津は今の病院に退職を申し出た。
師長は困った顔をした。
「急ね」
奈津には、急ではなかった。
けれど、自分が求人票を眺めていた夜のことを、師長は知らない。
「引き継ぎの期間は取ります」
「勤務のことで不満があるなら、相談してくれたらよかったのに」
奈津は口を開きかけた。
相談したことなら、あった。
業務が終わらないことも、負担が偏っていることも。そのたびに、みんな大変だから、今だけだからと言われてきた。
「……もう、決めましたので」
それ以上は言わなかった。
退職の日まで、仕事は普段どおりに続いた。
最後の勤務でも、奈津は入院を受け持った。記録を終えて、更衣室で制服を脱ぐ。
空になったロッカーを見て、ようやく辞めるのだと思った。
扉を閉める音が、いつもより大きく聞こえた。
*
初出勤の朝、奈津は新しい制服の袖に腕を通した。
ポケットの位置が少し違う。いつもの癖でペンを差そうとして、空振りした。
更衣室を出ると、佐和が待っていた。
「おはようございます。眠れました?」
「少し、早く目が覚めました」
「最初の日ですものね。今日は私と一緒に動いてください」
ナースステーションには、すでに何人かの職員が集まっていた。
挨拶をすると、一人ずつ名前を教えてくれた。奈津は忘れないよう、頭の中で繰り返した。
申し送りが始まる。
「二〇一号室、両足の熱傷の方。夜間、疼痛の訴えがあり、処方どおり鎮痛薬を使用しています」
見学の日の女性だろう。
奈津はメモを取った。
「二〇三号室は、朝方に退院されました。今のところ、戻られていません」
戻られていない。
その言い方が気になったが、誰も聞き返さなかった。
申し送りが終わると、奈津は佐和と一緒に物品の場所を確認した。
ガーゼ。手袋。点滴のセット。
使い慣れたものが並んでいるのを見て、少し安心する。
知らない職場でも、できることはある。
そう思ったところで、電話が鳴った。
受けた看護師が、短くやり取りをして受話器を置く。
「再入院です。腹部の創傷。石が残っています」
「二〇三、空いてますね」
佐和が答えた。
「はい。さっき退院したばかりなので」
奈津は二人を見た。
「今朝、退院された方ですか?」
「そうです」
佐和は処置に必要なものを揃え始めた。
「傷口の状態を見てから、先生が処置を決めます。三崎さんは、こちらを一緒に準備してください」
奈津は頷き、手袋の箱を取った。
石が残っているということは、転倒したのだろうか。砂利の上で、傷口を開いてしまったのかもしれない。
廊下の向こうで、車輪の音がした。
「来られましたね」
佐和と一緒に入口へ向かう。
ストレッチャーを押す職員の姿が見えた。その上の患者は、布団の中で大きく身体を丸めていた。
「お帰りなさい。早かったですね」
佐和が声をかける。
「俺だって、戻りたくて戻ったんじゃねえよ」
低い、かすれた声が返ってきた。
奈津は患者の顔を見ようと、一歩近づいた。
布団から出ていた腕に、濃い毛が生えていた。
手袋かと思った。
けれど、その先の指には黒い爪があり、手首から腕まで毛が続いていた。
患者が顔を上げる。
長い鼻先。
尖った耳。
奈津は足を止めた。
狼だった。
見間違いかと思って、もう一度見た。
やはり、狼だった。
「三崎さん」
佐和に呼ばれても、すぐには返事ができなかった。
狼が奈津を見た。
「新入りか」
「……はい」
なぜか、挨拶だけはできた。
「悪いな。朝から」
狼はそう言って、腹を押さえた。
佐和が布団を少しめくる。腹に巻かれた包帯に、血がにじんでいた。
奈津の目が、そこに止まる。
傷がある。
痛がっている。
それは、わかった。
「先生を呼んできます」
「お願いします」
奈津は踵を返した。
医師がどこにいるかは、さっき教わっていた。
数歩進んでから、足が止まる。
振り返ると、佐和が狼に話しかけていた。
「今日は、どちらでした?」
「赤ずきん」
「ああ。では、お腹ですね」
奈津は手に持っていた手袋の箱を見下ろした。
求人票には、そこまでは書いていなかった。




