↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おとぎ話の、そのあとで。  作者: もちむぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/24

第二章 再入院の患者さん

第二章 再入院の患者さん


「その日のうちに、ですか」


 奈津が聞き返すと、隣の看護師は頷いた。


「もちろん、毎回ではありませんけれど」


 それはそうだろうと思ったが、あまり安心はできなかった。


 傷が治って退院した人が、その日のうちに同じ傷で戻る。どんな生活をしているのだろう。


「ご自宅で、また怪我をされるということでしょうか」


「患者さんが戻られる場所で、ですね」


 院長が答えた。


「生活環境も含めて、少し特殊な事情を抱えている方々なんです」


 奈津はメモに『再入院多い』と書いた。


 暴力を受けている人なのか。それとも、危険のある仕事に就いているのか。


 いずれにしても、傷を治すだけでは解決できない問題があるのだろう。


「退院支援も、看護師が担当するんですか」


「医師やほかの職員と協力して行います。ただ、私たちにも変えられない事情がありまして」


 院長はそこで言葉を切った。


「詳しくは、現場でご説明することになります。勤務をお願いする前に、実際の患者さんをご覧いただく時間を設けますので」


 奈津は頷いた。


 特殊な事情。


 その言葉は気になった。それでも、患者の事情が複雑なこと自体は、今の病院でも珍しくなかった。


「見学してから、お返事をしてもよろしいですか」


「もちろんです」


 返事はすぐだった。


「こちらからも、条件を書面でお渡しします。ご不明な点は、いつでもお尋ねください」


 机の上に置かれた書類を、奈津は両手で受け取った。


     *


 見学の日、病棟は妙に静かだった。


「今日は、落ち着いていますね」


 案内してくれたのは、面接にも同席していた看護師だった。


 名札には『佐和』とあった。


「日によって、随分違うんです」


 佐和は足を止めて、病室の扉を軽く叩いた。


 返事を待ってから中に入る。


「見学の方をご案内してもよろしいですか」


「ええ。どうぞ」


 窓際のベッドに、年配の女性が座っていた。両足に包帯を巻き、膝に本を置いている。


 奈津が名乗ると、女性は顔を上げた。


「新しい看護師さん?」


「まだ、見学です」


「そう。ここは忙しいわよ」


 奈津は少し笑った。


「そう伺いました」


「でも、この人がいれば大丈夫」


 女性は佐和を見た。


 佐和は「買いかぶりですよ」と答え、足の痛みを尋ねた。女性の表情がわずかに変わると、すぐに姿勢を直すのを手伝った。


 慣れた動きだった。


 隣のベッドは空いていた。向かいの患者は、布団を鼻のあたりまで引き上げて眠っていた。


 結局、奈津が挨拶をしたのは、その女性だけだった。


 病棟の設備を見て、記録の方法を聞き、勤務表も見せてもらった。


 希望休が、きちんと入っていた。


「夜勤の次の日に、日勤が入ることはないんですね」


「ありませんよ」


 佐和は不思議そうに奈津を見た。


「眠れなくなってしまうでしょう」


 奈津は勤務表に目を戻した。


 当たり前のことを、当たり前のように言う人だった。


     *


 採用の連絡を受けてから、奈津は今の病院に退職を申し出た。


 師長は困った顔をした。


「急ね」


 奈津には、急ではなかった。


 けれど、自分が求人票を眺めていた夜のことを、師長は知らない。


「引き継ぎの期間は取ります」


「勤務のことで不満があるなら、相談してくれたらよかったのに」


 奈津は口を開きかけた。


 相談したことなら、あった。


 業務が終わらないことも、負担が偏っていることも。そのたびに、みんな大変だから、今だけだからと言われてきた。


「……もう、決めましたので」


 それ以上は言わなかった。


 退職の日まで、仕事は普段どおりに続いた。


 最後の勤務でも、奈津は入院を受け持った。記録を終えて、更衣室で制服を脱ぐ。


 空になったロッカーを見て、ようやく辞めるのだと思った。


 扉を閉める音が、いつもより大きく聞こえた。


     *


 初出勤の朝、奈津は新しい制服の袖に腕を通した。


 ポケットの位置が少し違う。いつもの癖でペンを差そうとして、空振りした。


 更衣室を出ると、佐和が待っていた。


「おはようございます。眠れました?」


「少し、早く目が覚めました」


「最初の日ですものね。今日は私と一緒に動いてください」


 ナースステーションには、すでに何人かの職員が集まっていた。


 挨拶をすると、一人ずつ名前を教えてくれた。奈津は忘れないよう、頭の中で繰り返した。


 申し送りが始まる。


「二〇一号室、両足の熱傷の方。夜間、疼痛の訴えがあり、処方どおり鎮痛薬を使用しています」


 見学の日の女性だろう。


 奈津はメモを取った。


「二〇三号室は、朝方に退院されました。今のところ、戻られていません」


 戻られていない。


 その言い方が気になったが、誰も聞き返さなかった。


 申し送りが終わると、奈津は佐和と一緒に物品の場所を確認した。


 ガーゼ。手袋。点滴のセット。


 使い慣れたものが並んでいるのを見て、少し安心する。


 知らない職場でも、できることはある。


 そう思ったところで、電話が鳴った。


 受けた看護師が、短くやり取りをして受話器を置く。


「再入院です。腹部の創傷。石が残っています」


「二〇三、空いてますね」


 佐和が答えた。


「はい。さっき退院したばかりなので」


 奈津は二人を見た。


「今朝、退院された方ですか?」


「そうです」


 佐和は処置に必要なものを揃え始めた。


「傷口の状態を見てから、先生が処置を決めます。三崎さんは、こちらを一緒に準備してください」


 奈津は頷き、手袋の箱を取った。


 石が残っているということは、転倒したのだろうか。砂利の上で、傷口を開いてしまったのかもしれない。


 廊下の向こうで、車輪の音がした。


「来られましたね」


 佐和と一緒に入口へ向かう。


 ストレッチャーを押す職員の姿が見えた。その上の患者は、布団の中で大きく身体を丸めていた。


「お帰りなさい。早かったですね」


 佐和が声をかける。


「俺だって、戻りたくて戻ったんじゃねえよ」


 低い、かすれた声が返ってきた。


 奈津は患者の顔を見ようと、一歩近づいた。


 布団から出ていた腕に、濃い毛が生えていた。


 手袋かと思った。


 けれど、その先の指には黒い爪があり、手首から腕まで毛が続いていた。


 患者が顔を上げる。


 長い鼻先。


 尖った耳。


 奈津は足を止めた。


 狼だった。


 見間違いかと思って、もう一度見た。


 やはり、狼だった。


「三崎さん」


 佐和に呼ばれても、すぐには返事ができなかった。


 狼が奈津を見た。


「新入りか」


「……はい」


 なぜか、挨拶だけはできた。


「悪いな。朝から」


 狼はそう言って、腹を押さえた。


 佐和が布団を少しめくる。腹に巻かれた包帯に、血がにじんでいた。


 奈津の目が、そこに止まる。


 傷がある。


 痛がっている。


 それは、わかった。


「先生を呼んできます」


「お願いします」


 奈津は踵を返した。


 医師がどこにいるかは、さっき教わっていた。


 数歩進んでから、足が止まる。


 振り返ると、佐和が狼に話しかけていた。


「今日は、どちらでした?」


「赤ずきん」


「ああ。では、お腹ですね」


 奈津は手に持っていた手袋の箱を見下ろした。


 求人票には、そこまでは書いていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。