第十章 いつもの傷
第十章 いつもの傷
「寝られましたか」
処置の準備をしながら、奈津は狼に尋ねた。
「少しな」
「よかったです」
「よくねえよ。起きたら、もう森だった」
狼は天井を見た。
「婆さんの家まで歩いて、それから、またここだ」
奈津は返事をせず、医師に渡す物品を確認した。
昼前には、服を着ていた。
寝ると言い、狸にいびきを指摘され、笑っていた。
その腹が、また傷ついている。
今朝の退院前の診察に立ち会ったので、余計にはっきり違いがわかった。
「三崎さん、こちらお願いします」
「はい」
佐和に呼ばれ、奈津は狼のそばへ回った。
狼は目を閉じた。
「今度は、ゆっくり寝かせてくれ」
「痛みが落ち着いたら、休んでください」
「狸、まだいるか」
「いらっしゃいます」
「じゃあ、あいつにも言っといてくれ。寝言は小さく、って」
奈津は少し笑った。
狼も、口の端をわずかに上げた。
*
処置のあと、狼を二〇三号室へ運んだ。
狸はベッドの上で身体を起こしていた。
「早いな」
狼が顔を向ける。
「俺もそう思う」
「せっかく静かになると思ったのに」
「悪かったな」
奈津と佐和で姿勢を整えると、狼はすぐに目を閉じた。
狸が何か言いかけたが、やめた。
佐和が点滴を確認し、奈津は荷物を床頭台の下に置く。
袋の口から、畳んだ服が見えていた。
今朝、狼が着ていた服だった。
「眠れそうですね」
奈津が小声で言うと、狸は頷いた。
「寝言、言うなって言っとけよ」
「狸さんにも、同じことを頼まれました」
「俺は、そんなに言ってない」
狸はそう答えたあと、狼を見た。
それから、テレビの音を一つ下げた。
*
翌週、狸が退院した。
背中の状態を医師が確認し、奈津は佐和と一緒に説明をした。
狸は途中で何度も頷き、最後に尋ねた。
「兎が、今度こそ本当の薬だって言ったら?」
奈津は顔を上げた。
「ここにいる間なら、先に看護師に聞いてください」
佐和が答えた。
「物語の中で、とは言ってねえよ」
狸は少し不満そうだったが、納得したらしかった。
狼はまだ入院していた。
狸が荷物を持って立つと、ベッドから片手を上げた。
「今度こそ、俺が静かに寝られる」
「ああ。好きなだけ寝ろ」
「お前も、薬はよく確かめろよ」
「わかってる」
狸は扉へ向かい、途中で振り返った。
「腹、掻くなよ」
「お前も看護師か」
奈津は二人を見て笑った。
狸を送り出したあと、空いたベッドを整えた。
戻ってこないでほしい。
そう思った。
戻ってきたら、また同じように迎えるのだろうとも思った。
*
その日の午後、入院中の患者を見て回っていると、ヘンゼルとグレーテルの魔女が声をかけてきた。
「あなた、家を持ってる?」
「借りています」
「そう」
魔女は少し考えた。
「じゃあ、壁を食べられたら、大家さんにも謝らないといけないのね」
奈津は持っていたトレーを置いた。
「うちの壁は、お菓子ではないので」
「それは知ってるわ」
魔女は真面目な顔で言った。
「食べられる壁にしたことはないでしょう」
「ないです」
「雨が降ると、大変なのよ」
「溶けるんですか」
「湿気るの。窓なんか、曇るだけじゃ済まないわ」
奈津は魔女を見た。
「それ、初めて聞きました」
「書かれてないもの」
魔女は枕に頭を戻した。
「私の家で起きることは、あの子たちが来た日のことばかり。ほかの日だって、あるのに」
奈津は頷いた。
窓から、薄い光が入っていた。
「今日は、お昼ご飯、食べられましたね」
「ええ。柔らかかったから」
「厨房に伝えておきます」
魔女は頷き、目を閉じた。
奈津は食事の量を記録した。
物語に書かれていない今日のことだった。
*
狼の二度目の退院は、奈津が休みの日だった。
翌日、患者の一覧から名前がなくなっているのを見て知った。
「昨日、お帰りになりましたよ」
高梨が教えてくれた。
「三崎さんによろしく、って」
「そうですか」
「傷も、問題ありませんでした」
奈津は頷いた。
昼前には、新しい鬼が来た。
午後には、王妃の処置があった。
来院者一覧を開き、患者の顔と見比べる。以前なら一人で探せなかったページも、今はすぐに開けるようになっていた。
夕方、申し送りの準備をしていると、電話が鳴った。
高梨が受話器を取る。
「はい。……狼さんですね」
奈津は記録の途中で顔を上げた。
「ええ。わかりました」
高梨が電話を置いた。
「来院です。二〇三にいた狼さん」
奈津は席を立った。
佐和が別の病室で処置をしていたので、森と一緒に患者来院部屋へ向かった。
いつもの狼だった。
ストレッチャーの上で、身体を丸めている。
「狼さん」
奈津が近づくと、狼は目を開けた。
「……新しい看護師」
「三崎です」
「覚えてる」
声が小さかった。
奈津は狼の手を見た。
腹を押さえていない。
片方の腕が、身体の後ろへ回っていた。
「どこが痛いですか」
「背中」
森が反対側から声をかける。
「傷を確認しますね。無理に動かなくて大丈夫です」
二人で掛け物をずらした。
狼の背中に、血がにじんでいた。
毛の間にある傷は、細く、長かった。
奈津は腹にも目を向けた。
服に血はついていない。
「お腹は、痛くないんですか」
「そっちは、大丈夫だ」
狼の呼吸を見ながら、奈津は聞いた。
「今日は、赤ずきんではなかったんですか」
「赤ずきんだよ」
森が医師に連絡を入れた。
奈津は狼のそばに残った。
猟師が腹を切る。
中にいた赤ずきんと祖母を助ける。
それから、石を詰める。
覚えている順番を、頭の中でたどる。
背中に、この傷をつける場面はなかった。
「違う絵本だったんでしょうか」
狼は首を動かしかけ、顔をしかめた。
「まだ、婆さんの家にも行ってねえ」
奈津は狼を見た。
「森にいたんですか」
「ああ。赤ずきんを見つけたところだった」
狼は息を整えてから続けた。
「声をかけようとしたら、あの子が動かなくなった」
「動かなく?」
「花を摘もうとして、手を伸ばしたまま。風も止まった」
奈津は森の中に立つ女の子を思い浮かべた。
「たまにあるんだ。そういうときは、待ってりゃ続く」
狼が目を閉じた。
「だから、待ってた」
医師が入ってきた。
奈津は場所を空け、確認できたことを伝えた。
狼が低く呻く。
今は、傷の処置が先だった。
奈津は必要なものを取りに行き、戻った。
扉のところに、佐和が立っていた。
「どうしました?」
「背中に傷があります。お腹ではなくて」
佐和は狼へ目を向けた。
奈津は続けた。
「赤ずきんを見つけたところで、物語が止まったそうです。その間に、背中を傷つけられたと」
佐和は黙って聞いていた。
「先生が今、診てくださっています」
「わかりました。私も入りますね」
佐和が手袋を取った。
奈津も処置室へ戻った。
狼は、天井のほうを見ていた。
「自分で転んだんじゃねえよ」
誰に向けたのかわからない声だった。
奈津はそばへ行った。
「はい」
「待ってたら、後ろで足音がした」
奈津の手が、一瞬止まった。
「赤ずきんは、まだ目の前にいた。動かないままで」
狼の目がこちらへ動く。
「振り返る前に、切られたんだ」
奈津は狼の背中を見た。
猟師に出会うよりも前。
祖母の家へ行くよりも前。
物語が進むのを待っている狼を、誰かが傷つけた。
その傷は、いつもの物語がつけたものではなかった。




