第十一章 後ろの声
第十一章 後ろの声
狼の背中の処置が終わった頃には、外は暗くなっていた。
腹には、新しい傷がなかった。
服を脱ぐと、以前の処置の跡が見えた。奈津が最後に見たときと、ほとんど変わらない。
背中だけが違っていた。
医師は傷の状態を説明し、今夜は入院して経過を見ると伝えた。
狼は頷いた。
「また、二〇三か」
「空いていますからね」
森が答えた。
「今日は、お腹を下にしないで、背中も、だから横向きがいいですかね」
「わかった」
狼は、いつもより口数が少なかった。
*
病室へ移ってから、院長が来た。
奈津は狼のそばにいた。
「痛みは、少し落ち着きましたか」
「ああ」
「何があったか、お聞きしてもよろしいですか。つらければ、途中でやめますので」
狼は目を開けた。
「言っただろ。後ろから切られた」
「はい。その前のことを、覚えている範囲で」
院長は椅子に座った。
狼は天井を見ていたが、やがて顔を少しこちらへ向けた。
「赤ずきんを見つけたんだ」
奈津は手元のメモに目を落とした。
処置室で聞いたところからだった。
「花を摘もうとして、手を伸ばしてた。それで、止まった」
「読み聞かせが、中断したんですね」
狼が頷く。
「待ってりゃ、そのうち動くからな。俺も、そこにいた」
「周りは、どうでしたか」
「静かだった。葉っぱも動かねえ。鳥も鳴かねえ」
狼は一度、唇を舐めた。
奈津が水を飲むか尋ねると、少し欲しいと言った。
姿勢を確認し、飲むのを手伝う。
狼は二口飲んで、顔を戻した。
「そしたら、後ろで落ち葉を踏む音がした」
院長は黙って聞いていた。
「猟師かと思った。でも、まだ婆さんの家にも行ってねえんだ。早すぎるだろ」
「振り返りましたか」
「振り返ろうとした」
狼の指が、掛け物の上で動いた。
「その前に、声がした」
奈津は顔を上げた。
院長が尋ねる。
「何と言っていました?」
狼は眉間に皺を寄せた。
「もう、嫌なんですね」
病室の時計が、小さく鳴った。
「……って」
奈津は狼を見た。
「何が嫌なのか、わかりますか」
「俺に聞くなよ」
狼は奈津へ目を向けた。
「俺にだって、わからねえ」
「すみません」
奈津はすぐに答えた。
狼は目を閉じた。
「何の話だって思ったんだよ。そうしたら、背中が痛くなった」
「声に、聞き覚えはありませんでしたか」
院長が聞いた。
狼は少し考えてから、首を小さく振った。
「わからねえ。急だったし、聞いたことあるような、ないような」
「姿は?」
「見てねえよ。痛くて、倒れたから」
それから先は、あまり覚えていなかった。
赤ずきんの赤い頭巾が、地面の近くに見えた気がする。
次には、患者来院部屋にいた。
狼はそこで話を止めた。
院長は礼を言った。
「今夜は、休んでください。何か思い出したら、教えていただけますか」
「思い出さなかったら?」
「そのときは、覚えていることだけで大丈夫です」
狼は頷いた。
*
病室を出てから、奈津は院長に聞いた。
「こういうことは、今までにもあったんですか」
「物語にない傷で来られる方は、まったくいないわけではありません」
院長は答えた。
「退院後の転倒などもあります。ただ、今回のように、物語の途中で誰かに傷つけられたというお話は、確認が必要です」
奈津はメモを見た。
止まった森。
後ろの足音。
もう、嫌なんですね。
「本の内容が違う可能性は?」
「ご本人の記憶と、こちらで確認できる情報を照らし合わせます」
院長は病室へ目を向けた。
「まず、職員の間で共有します。来院時の傷だけでなく、何があったかも聞いてください。患者さんを何度も問い詰めることには、ならないように」
「はい」
奈津は頷いた。
院長が去ったあとも、メモを持ったまま立っていた。
読まれた話の結末が違う。
そういうことなら、少しは理解できた。
狼が逃げる絵本もあると聞いていたし、狸が受ける傷も、いつも同じではなかった。
けれど、今回の狼は、まだ誰も食べていなかった。
赤ずきんに声をかけるところまでしか進んでいない。
その場にいるはずのない誰かが、後ろから来た。
奈津はメモ帳を閉じた。
*
ナースステーションで経過を伝えると、佐和は静かに聞いていた。
「声を、かけられたんですね」
「はい。“もう、嫌なんですね”と」
森が記録の画面を開いた。
「その言葉も、残しておきましょう」
奈津は頷き、入力した。
短い一文だった。
入力してみると、何のことを言っているのか、ますますわからなかった。
痛いのが嫌なのか。
森で待っているのが嫌なのか。
相手は、狼が嫌だと思っている何かを、知っていたのだろうか。
「三崎さん」
佐和に呼ばれ、顔を上げた。
「次の方に、引き継げるようになっていますか」
時計を見る。
もう、交代の時間だった。
「あ、はい。あと、狼さんの痛みの確認を」
「森さんにお願いします。三崎さんからも、伝えておいてください」
奈津は森を見た。
森は頷いた。
「わかりました。今夜は、巡回のときにも気をつけて見ておきますね」
奈津は確認してほしいことを伝えた。
伝え終えても、椅子から立つまでに少し時間がかかった。
*
更衣室へ行く前に、もう一度、狼の病室へ寄った。
狼は目を開けていた。
「帰るのか」
「はい。森さんたちに、引き継ぎました」
「そうか」
「痛みが強くなったら、呼んでくださいね」
奈津は呼び出しのボタンを手の届くところへ置いた。
狼はそれを見た。
「新しい看護師」
「三崎です」
「覚えてるって」
奈津は少し笑った。
狼は笑わなかった。
「ここには、来ねえよな」
奈津の手が止まった。
「誰が、ですか」
「俺をやったやつ」
狼は扉を見ていた。
奈津も、つられて見た。
廊下を看護師が通った。
物品を運ぶ台車の車輪が、小さく鳴る。
いつもの音だった。
「心配なんですね」
「背中、また切られたくねえから」
「今のお話、森さんにも伝えます。夜の職員にも、共有しますね」
ここには来ません、と言いかけた。
けれど、誰が何をしたのか、まだ何もわかっていなかった。
奈津は狼の顔を見た。
「何か気になることがあったら、すぐ呼んでください」
狼はボタンを手に取った。
「わかった」
奈津は病室を出て、ナースステーションへ戻った。
もう帰るところだと知っていた森が、顔を上げる。
「どうしました?」
奈津は狼の言葉を、そのまま伝えた。
*
帰り道、奈津はいつもより周りの音を聞いていた。
自転車のブレーキ。
店の自動扉。
後ろを歩く人の靴音。
狼が聞いたのは、落ち葉を踏む音だった。
止まった森で、一つだけ動く音。
奈津は鞄の持ち手を握り直した。
スマートフォンが震え、肩が小さく動いた。
母からだった。
『今日は早い?』
奈津は歩道の端で足を止めた。
『今、帰り』
『ご飯食べに来る? 作りすぎた』
奈津は画面を見た。
作りすぎた、と言って誘われるのは、久しぶりだった。
ひとりで部屋に帰れば、また狼の言葉を考えるだろう。
『行く。何ある?』
返事はすぐに来た。
『煮物。肉もある』
奈津は少し息を吐いた。
駅へ向かう道を、途中で曲がる。
もう、嫌なんですね。
誰が、何を思って言ったのか。
まだ、わからなかった。
背後で、誰かの靴音が遠ざかっていった。




