第十二章 同じ言葉
# 第十二章 同じ言葉
母の家に着くと、玄関まで煮物の匂いがしていた。
「おかえり」
「ただいま」
奈津は靴を脱ぎ、鞄を置いた。
テーブルには、もう二人分の箸が並んでいる。
「作りすぎたって、そんなに?」
「一人分だけ作るの、面倒なのよ」
母は鍋の蓋を取った。
「大根、食べる?」
「食べる」
「お肉もね。座ってて」
奈津は椅子を引いた。
母が皿に煮物を盛る音を聞きながら、肩から力が抜けていくのがわかった。
*
「新しい病院、どう?」
母が尋ねた。
奈津は大根を飲み込んでから答えた。
「忙しいよ。でも、時間になったら帰れる」
「それならいいじゃない」
「給料も、前よりいい」
「へえ。よかったね」
母は素直に喜んだ。
奈津も頷いた。
「ただ、まだ慣れないことが多くて」
「どこだって、最初はそうでしょう」
「まあ、そうなんだけど」
狼のことを、どう説明すればいいのだろう。
腹に石を詰められた患者。
絵本から来る狸。
読み上げ機能で呼ばれる元ヒロイン。
奈津は箸を持ったまま考え、やめた。
「患者さんが、ちょっと変わってる」
「前のところにも、いたでしょう?」
「うん」
「じゃあ、仕事を覚えれば、そのうち慣れるわよ」
母は味噌汁を飲んだ。
奈津も椀を持った。
慣れるのだろうか。
狼の姿には、もう慣れ始めている。
でも、今日の背中の傷は、別だった。
「どうしたの」
母の声で、顔を上げた。
「疲れた?」
「少し」
「ちゃんと食べなさい。まだあるから」
母が大根の皿を押してよこした。
奈津は一つ取った。
箸で切れるくらい、柔らかく煮えていた。
*
翌日の病室で、狼は廊下の足音に顔を上げた。
奈津が入口に立つと、目が合った。
「ああ。お前か」
「おはようございます」
奈津はベッドのそばへ行った。
背中の痛みは昨日より軽く、朝食も半分以上食べていた。
それでも、誰かが廊下を通るたびに耳が動いた。
「昨夜、眠れましたか」
「少しな」
「途中で起きました?」
「誰か歩いてると、目が覚める」
狼は呼び出しのボタンを見た。
手の届くところに置いてあった。
「病院だから、歩くやつはいるよな」
「はい。夜も、看護師が回ります」
「わかってる」
狼は顔を伏せた。
奈津は背中の状態を確認し、必要なことを記録した。
傷口が落ち着いても、足音を聞かなくなるわけではない。
「あとで、また来ますね」
「ああ」
狼は頷いた。
*
数日間、ほかに同じような患者は来なかった。
院長からの連絡事項は、申し送りの用紙に残っていた。
物語で受けるはずのない傷がある場合は、経過を確認すること。
患者の言葉は、言い換えずに記録すること。
奈津はその項目を読むたびに、狼の声を思い出した。
もう、嫌なんですね。
けれど、その意味はわからないままだった。
狼の耳は、まだ足音を追っていた。
王妃は足の痛みが軽くなり、廊下を歩くようになった。
リリアは窓際で黙って過ごす時間が増えた。話しかけると返事をし、腕の傷を確認するときには、自分から袖を上げた。
病院の仕事は続いていた。
奈津も、止まって考えてばかりはいられなかった。
*
狸が戻ってきたのは、その週の準夜勤だった。
まだ十八時を少し過ぎたところで、奈津は夕食の準備を手伝っていた。
電話を受けた森が、顔を上げる。
「狸さん、来院です。熱傷と、脇腹の傷」
奈津は配膳車から手を離した。
「脇腹?」
「詳しくは、これから。三崎さん、一緒にお願いします」
二人で患者来院部屋へ向かった。
狸は横向きになっていた。
背中の毛が焼けている。
けれど、いつもと同じ姿勢ではなかった。
身体を丸め、腹の横を押さえている。
「狸さん」
奈津が声をかけると、狸は目を開けた。
「……また来た」
「どこが痛いですか」
「背中と、こっち」
押さえている手の下に、血が見えた。
森が医師に連絡を入れる。
奈津は狸のそばに残った。
「脇腹も、怪我をされたんですね」
「背中じゃなかった」
「え?」
「痛くなったのが。あいつは、背中に塗るはずだろ」
狸は顔をしかめた。
奈津はそれ以上、尋ねなかった。
「先生が来られます。先に、傷を見てもらいましょう」
狸は頷いた。
*
処置を終えた狸は、ひどく疲れていた。
背中の火傷に加え、脇腹に切り傷があった。
奈津が姿勢を整えると、狸は短く息を吐いた。
「辛子、まだだったんだ」
奈津は手を止めずに聞いた。
「兎が持ってきた。薬だって」
「はい」
「俺が背中を向けたところで、止まった」
奈津は狸を見た。
「物語が、ですか」
「ああ。兎が、手を伸ばしたまま」
森が近くの椅子を寄せた。
「少し、お話を聞いても大丈夫ですか」
狸は頷いた。
奈津はメモ帳を出した。
「いつも、そうなると待つんだ。兎も動かねえし」
狸は目を細めた。
「なのに、誰かが歩いてきた」
「どちらから?」
森が尋ねた。
「後ろ。兎は、こっちにいた」
狸は手を少し動かした。
「木の葉を踏んだ音がした。それから、声」
奈津の指が、ペンを握り直した。
「何と言っていましたか」
狸は少し黙った。
思い出している間、廊下を台車が通った。
「もう、嫌なんですね」
奈津は狸の顔を見た。
森も、動かなかった。
狸が二人を見比べる。
「何だよ」
「その言葉を、言われたんですね」
森が確認した。
「ああ。何のことだと思った。兎は何も言ってねえのに」
「相手の顔は、見えましたか」
「見ようとしたら、痛くなった」
狸は脇腹へ目を落とした。
「転んだと思ったんだ。でも、こんなところ、普通に転んで切れねえだろ」
森は頷いた。
「院長にも来ていただきます。今は、痛みはどうですか」
「さっきよりは、まし」
「話していて、つらくなったら止めてくださいね」
奈津は聞いた言葉を、そのまま書いた。
もう、嫌なんですね。
昨日まで、狼の記録にしかなかった一文だった。
*
院長が来るまでの間、奈津はナースステーションへ戻った。
佐和が患者の一覧を見ていた。
「狸さん、どうでした?」
「背中の火傷と、脇腹の切り傷です」
奈津は経過を伝えた。
「兎が薬を塗る前に、物語が止まったそうです。その間に、後ろから誰かが来て」
佐和は顔を上げた。
「狼さんと、同じように?」
「はい」
奈津はメモ帳を開いた。
「声も、同じです」
佐和が文字を見た。
しばらくして、静かに頷いた。
「院長には?」
「森さんから、連絡しています」
「わかりました。私も、あとで狸さんの様子を見ますね」
電話が鳴った。
佐和が受話器を取る。
奈津はメモ帳を閉じられなかった。
*
狼と狸。
違う物語だった。
一人は赤ずきんを見つけたところ。
一人は兎に薬を塗られるところ。
読み聞かせが止まって、待っていた。
後ろの足音。
同じ声。
同じ言葉。
二人とも、ここを退院した患者だった。
奈津は患者の一覧に目を向けた。
何度も来る者は多い。
退院したことがあるだけなら、ほとんどの患者が当てはまる。
それでも、二人が並んでいた病室の様子が浮かんだ。
お腹を切られる狼。
兎に背中を焼かれる狸。
互いの行動に文句を言い、痛かったと繰り返していた。
奈津は、その会話の続きを思い出そうとした。
「三崎さん」
佐和の声で顔を上げる。
「王妃様が、お薬について確認したいそうです」
「あ、はい」
奈津はメモ帳を閉じた。
今、行くところがある。
話を聞き、確認して、必要なことをする。
それは、いつもと同じだった。
ただ、狸の脇腹を傷つけた誰かは、まだどこかにいる。
奈津は病室へ向かいながら、二〇三号室の前を通った。
狼が起きていた。
こちらを見る。
「今、誰か来たか」
奈津は足を止めた。
「狸さんです」
狼の耳が動いた。
「背中か」
奈津は、すぐに答えられなかった。
狼が身体を少し起こす。
「……ほかも、やられたのか」
奈津は頷いた。
狼は、廊下の奥を見た。
それから、自分の呼び出しのボタンを手元へ寄せた。




