第十三章 知らない赤ずきん
第十三章 知らない赤ずきん
狸は、声を覚えていた。
「女だったと思う」
院長に尋ねられ、そう答えた。
「声に、聞き覚えは?」
「ある気もする。でも、誰だって言われたら、わからねえ」
奈津は聞いたとおりに記録した。
「兎の声ではなかったんですね」
「あいつの声は、知ってる」
狸は脇腹をかばい、少し身体を動かした。
「でも、あのときは薬が嫌だって思ってたから、何か変なことを聞いたのかもしれねえ」
「薬が嫌だと思っていた?」
「前にも塗られてるからな。何が起きるかは、わかってるんだよ」
院長は頷いた。
「今、思い出せることは、それで全部ですか」
「ああ」
「ありがとうございます。今日は休んでください」
奈津は狸の掛け物を整えた。
背中の火傷と、脇腹の切り傷。
同じ身体にあるのに、できた理由は違うらしかった。
*
翌朝、職員の間で二件の経過を確認した。
狼は、赤ずきんに声をかける前。
狸は、兎に薬を塗られる前。
周囲の動きが止まった間に、後ろから声をかけられ、傷を負った。
言われたのは、同じ言葉だった。
「もう、嫌なんですね」
読み上げられた記録を聞き、奈津は用紙に目を落とした。
同じ相手なのだろうか。
それとも、同じ言葉が、別々の物語に入ったのだろうか。
「読んでいる人が、お話を付け足すことはありますよね」
奈津が尋ねると、院長は頷いた。
「あります。書かれたとおりに読まれるとは限りません」
「例えば、子供が怖がるから、狼が逃げたことにするとか」
「そうですね」
「反対に、もっと怖いことを付け足したら?」
院長は少し考えた。
「それで結末や傷が変わることもあります」
奈津は記録を見た。
「同じ人が赤ずきんとかちかち山を読んで、同じ言葉を付け足した可能性は、あるんでしょうか」
「現時点では、除外できません」
「止まっている間に聞こえたというのは?」
「そこは確認が必要ですね。読み手が話を離れて何か言ったのか、物語の続きとして語ったのか。こちらからは、その場の様子が見えませんから」
奈津は頷いた。
電話に出た人が、誰かに話しかけた。
その言葉が、狼や狸には聞こえたのかもしれない。
けれど、声が聞こえたことと、切り傷ができたことは、別に考えなければならなかった。
「傷も、その人が語った内容だったのかもしれないんですね」
「可能性としては。ただ、まだ読み手も本も特定できていません」
院長は二件の記録を閉じた。
「患者さんの証言は残しつつ、わかっていることと、推測を分けておきましょう」
*
二〇三号室では、狼が狸を見ていた。
「兎を疑ったのか」
「最初はな」
「目の前にいたんだろ」
「だから、違うって言ってる」
奈津が入ると、狸がこちらを向いた。
「お前、兎が刃物を持つ話、読んだことあるか」
「私は、ありません」
「だろ」
「でも、私が知らない本もあると思います」
狸は眉を寄せた。
「俺も知らねえ」
狼が鼻を鳴らした。
「俺だって、婆さんも赤ずきんも食わずに、追い払われたことがある」
「それなら、いいじゃねえか」
「腹が減ったままだぞ」
「腹を切られるより、ましだろ」
「それはそうだ」
狼は頷いた。
奈津は狸の痛みを確認しながら聞いていた。
同じ名前のお話でも、必ず同じことが起きるわけではない。
患者自身が、初めて経験する筋書きもある。
「いつもと違う本に呼ばれたときは、わかるんですか」
狼は少し考えた。
「話が違ってくりゃ、わかる」
「始まったときには?」
「森は森だしな」
狸も頷いた。
「兎は兎だったよ」
奈津はメモを取った。
途中まで同じなら、最初には気づかない。
自分が知っている話と違うからといって、それだけで物語の外から襲われたと決めることはできなかった。
*
午後、奈津は休憩室の本棚を見た。
以前、高梨が、患者の話を確かめたいときに読む本があると教えてくれた。
絵本もあれば、挿絵の少ない厚い本もあった。
赤ずきんを二冊、テーブルへ持っていく。
一冊は、狼が逃げて終わっていた。
もう一冊には、石を腹に詰める場面があった。
その隣の本には、見覚えのない題名がある。
『狼が語る赤ずきん』
奈津は手に取った。
最初のページから、狼の言い分が始まっていた。
高梨が休憩室へ入ってきた。
「調べもの?」
「こんな話も、あるんですね」
「ありますよ。語り直したものとか、悪役の立場から書いたものとか」
「これも、読まれたら?」
「出番になります」
高梨は向かいに座った。
「ただ、その狼が二〇三の狼さんと同じとは限りません。別の患者さんになることもあるので」
奈津は本を並べた。
同じ題名なら、同じ患者。
そう簡単な話でもなかった。
「傷を負う場面だけを見て、何の本だったか確かめるのは、難しいんですね」
「絵や持ち物が手がかりになることもあります。でも、似ている本は多いですから」
高梨は、赤ずきんの表紙を一つ指した。
「昔から読まれている話ほど、違う版がたくさんあります」
奈津はページをめくった。
知らない赤ずきんが、まだ棚に何冊も残っていた。
*
休憩のあと、奈津は佐和に尋ねた。
「人間が、物語の中へ入ることはできるんですか」
佐和は手元の物品を置いた。
「どうして、そう思いました?」
「狼さんも狸さんも、後ろに誰かがいたと言っていたので。読む人が、お話の中まで入ってしまうことはないのかな、と」
「三崎さんは、絵本を読んだとき、どうでした?」
「家のテーブルにいました」
「そうですね。読むだけで、必ずその人が入るわけではありません」
「必ず、では?」
佐和は頷いた。
「迷い込んだ人間の話はあります。ただ、私も、どういう条件で起こるのかまで説明できるわけではありません」
奈津は患者来院部屋の方向を見た。
「じゃあ、人間に切られた可能性も?」
「それを確かめるには、もう少し相手のことがわからないと」
佐和は答えた。
「声だけでは、人間かどうかもわかりませんからね」
狸も狼も、人間と同じように話す。
奈津は頷いた。
「別の物語の登場人物が、入ったのかもしれないんですね」
「そういうことがあるのかも含めて、院長たちが確認しています」
佐和は物品をトレーに並べた。
「私たちが、まだ知らないこともあります」
奈津は、その手元を見た。
佐和なら、何でも知っているような気がしていた。
けれど、尋ねるだけで答えが出ることではないらしかった。
*
勤務の終わりに、奈津は二件の記録を見直した。
読み手が、筋書きを変えた。
自分たちの知らない版だった。
人間が入り込んだ。
ほかの物語の登場人物が来た。
思いついたことを並べると、どれにもわからないところがあった。
狼と狸は、動かなくなった周囲を見ている。
なのに、足音はした。
声も聞こえた。
そこへ刃物の傷が加わった。
読み聞かせが再開して、新しい場面が語られたのだろうか。
それなら、どうして赤ずきんも兎も動かなかったのだろう。
奈津は一度、ペンを置いた。
自分は、怪我をした患者を見ている。
その患者が現れる前に、何が起きたのかは見ていない。
記録を閉じる前に、狼と狸の言葉をもう一度読んだ。
もう、嫌なんですね。
短い言葉なのに、誰が言ったかも、何を指したかもわからない。
*
最後に病室へ寄ると、狼は壁の絵を見ていた。
赤い頭巾をかぶった女の子が、花籠を持っている。
「何か、わかったか」
奈津は首を振った。
「まだです。違う本だった可能性も、調べています」
狸が顔を向けた。
「次に呼ばれても、どんな話かわからねえってことか」
奈津は返事に迷った。
狼が、狸に言った。
「そりゃ、前からそうだろ」
「そうだけど」
狸は脇腹を見た。
「今までは、だいたい背中だったからな」
奈津は二人を見た。
どこまでなら、いつもの怪我なのか。
そんな基準があることを、ここへ来るまで知らなかった。
「明日も、傷を確認しますね」
「ああ」
狼は絵から目を離し、枕に頭を載せた。
奈津は病室を出た。
廊下の本棚に、患者が借りた絵本が置いてあった。
表紙には、笑った狼が描かれている。
奈津は足を止め、題名を読んだ。
この狼は、どんな結末を迎えるのだろう。
表紙だけでは、わからなかった。




