第十四章 途中の声
第十四章 途中の声
休みの日、奈津は図書館へ行った。
病院の本棚で見たもの以外にも、赤ずきんとかちかち山を探してみたかった。
休日まで病院のことを考えなくてもいい。
そう思ったが、家で洗濯物を畳んでいる間にも、狸の言葉が浮かんだ。
兎は、止まっていた。
なのに、足音がした。
考えるだけでは何も増えないので、出かけることにした。
*
児童書の棚の近くに、読み聞かせの案内があった。
十一時から。
時計を見ると、あと十分だった。
奈津は本を探す手を止めた。
扉の開いた小部屋に、親子が入っていく。床には小さなマットが敷かれ、前方に椅子が一つ置かれていた。
「参加されますか」
係の人に声をかけられ、奈津は少し迷った。
「大人だけでも、いいですか」
「もちろんです。後ろのお席へどうぞ」
奈津は礼を言って入った。
壁際の椅子に座る。
子供が三人、前に並んでいた。母親の膝に座っている子もいた。
絵本を持った女性が、笑顔で表紙を見せた。
「今日は、赤ずきんです」
奈津は鞄を膝に置き直した。
*
読み手の声は、穏やかだった。
赤ずきんが、祖母の家へ向かう。
母親に、道草をしないよう言われる。
子供の一人が、すぐに尋ねた。
「道草って、草?」
女性は本から顔を上げた。
「途中で、別のことをしてしまうことね」
「お花を取るの?」
「そう。お花を取ったり、遊んだり」
子供が頷く。
女性は、止めていたページへ目を戻した。
奈津はその短いやり取りを聞いていた。
今、赤ずきんは止まっているのだろうか。
母親の話を聞きながら、同じ姿勢で待っているのだろうか。
奈津は前に座る子供の後頭部を見た。
質問があれば、読む人は答える。
絵をよく見たい子がいれば、ページを持ったまま待つ。
読み聞かせが中断することは、何も特別ではなかった。
狼が出てきた。
読み手は少し声を低くした。
「どこへ行くんだい」
子供が母親の腕を掴んだ。
「怖い」
「大丈夫よ」
母親が小さな声で言った。
その隣の子が、狼の絵を指した。
「この狼、嫌だ」
奈津の指が、鞄の持ち手の上で止まった。
女性はページをこちらへ向けたまま答えた。
「赤ずきんが心配だね。どうなるか、見てみようか」
読み聞かせが続いた。
奈津は膝の上へ目を落とした。
嫌だと言ったのは、狼ではなかった。
物語を聞いている子供だった。
*
その絵本では、最後に狼が森へ逃げていった。
腹を切られる場面はあったが、石は詰められなかった。
奈津は、表紙の絵を覚えた。
病院の狼に見せれば、自分の話かどうかわかるだろうか。
けれど今日の狼が、二〇三号室の患者と同じとは限らない。
別の患者になることもあると、高梨は言っていた。
読み聞かせが終わると、子供たちは前へ集まった。
「狼、もう来ない?」
「この本のお話は、ここでおしまい」
女性が答えた。
奈津は椅子から立った。
出口へ向かいながら、もう一度振り返る。
絵本は、閉じられていた。
*
児童書の棚へ戻り、同じ本を探した。
背表紙の題名を一つずつ読む。
赤ずきんは何冊もあったが、さっきの表紙は見つからなかった。
その代わり、かちかち山を三冊見つけた。
椅子に座って、順に開く。
狸が婆さんにしたことも、兎が狸にすることも、書き方が違った。
辛子を塗る場面のある本と、短く済ませている本。
最後に狸が謝る本もあった。
奈津は脇腹を切られる場面を探した。
この三冊には、なかった。
ほっとするには、三冊では少なすぎた。
棚には、まだ本が残っていた。
*
翌日、奈津は申し送りのあと、森に図書館で聞いたことを話した。
「え? 図書館に行ったの?」
森が顔を上げた。
「はい。昨日、休みだったので」
「狼さんや狸さんのために?」
「……気になって」
森は少し目を丸くし、それから笑った。
「三崎さんって、意識高い系看護師だったんだあ」
「違いますよ」
奈津は思わず答えた。
「そんなつもりでは」
「休みの日に調べに行くなんて、私にはできないな」
奈津は返事に迷った。
患者のために何かしなければ、と思って出かけたわけではなかった。
読み聞かせが止まった森。
そこで聞こえた声。
なぜ、あんな傷ができたのか。
気になったから、本を探しに行った。それだけだった。
けれど、狼と狸に会わなければ、かちかち山を三冊並べて読むこともなかっただろう。
「子供が、狼の絵を見て“嫌だ”って言ったんです」
奈津は、昨日聞いたことに話を戻した。
森は頷いた。
「怖かったんでしょうね」
「はい。それで、誰が嫌だと思っていたのか、私、物語の中の人のことしか考えていなかったなって」
奈津はメモを開いた。
「聞いていた人の言葉が、入ることもあるんでしょうか」
「どうだろう。読む人が“そうだね、嫌だね”って答えることもありますね」
森は少し考えた。
「そのまま語り方を変えることだって、あると思います」
「そういう言葉が、登場人物には別の声として聞こえるのか……そこが、わからなくて」
「院長にも、聞いてみましょう」
奈津は頷いた。
同じ台詞を聞いたから、同じ相手。
そう考えることはできる。
でも、同じ人が同じ本を読むとき、いつも同じ筋書きになるとは限らない。
聞いている子供が、途中で口を挟む。
読み手が、それに答える。
ページにない声が、いくつもあった。
森は廊下のほうを見てから、少し声を落とした。
「言っちゃ悪いけど、狼さんは赤ずきんやお婆さんを食べてるでしょう。狸さんは、お婆さんを死なせてるし」
奈津は森を見た。
「悪いことをして、お仕置きされてるわけじゃない? 傷はちゃんと治すけど、私たちが休みの日まで、そこまでする必要はあるのかなって」
森の手元には、次に使う処置の物品が揃っていた。
狼の痛みを聞き、狸の寝具を直すときも、この人は丁寧だった。
治療をしたくないという話ではなかった。
奈津は何も言わなかった。
「まあ、三崎さんが気になるなら、それは自由だけどね」
森はそう付け足し、トレーを持って病室へ向かった。
奈津はメモを閉じた。
生活するために働いている。
その気持ちは、今も変わらない。
前の職場なら、休みの日に患者のことを調べに行くなんて、考えもしなかった。帰ったあとは、できるだけ仕事から離れたかった。
なのに昨日は、自分から図書館へ行った。
看護師として、そうするべきだと思ったのではない。
純粋に、知りたかった。
ただ、森の言葉は残った。
狼も狸も、悪いことをしている。
それは、物語に書かれている。
でも、今回の切り傷まで、そのお仕置きなのだろうか。
そう言われれば済むようで、どこか違う気がした。
奈津は以前、佐和に言われたことを思い出した。
物語は読まれるためにある。
たとえ、その中で誰かが傷ついても、意味がある。
それなら、この傷にも何か意味があるのだろうか。
今は、その傷が物語の一部だったかどうかさえ、わかっていなかった。
*
昼前に時間ができ、奈津は院長へ報告した。
院長は話を聞き、確認できていない点を一緒に整理した。
聞き手の言葉が、どこまで物語へ届くのか。
中断中に聞こえる声と、場面が再開する合図を、患者はどう区別しているのか。
読み手が言葉だけでなく、新たな人物を語り足した場合はどうなるのか。
「例えば、“そこへ女の人が来ました”と読まれたら」
奈津が尋ねる。
「その人が現れるんでしょうか」
「筋書きとして語られれば、現れることはあります」
「誰かが物語に入ったんじゃなくて、そこで作られた人かもしれないんですね」
「それも、考えられます」
院長はメモを取った。
「ただ、それだけでは、お二人が聞いた足音と傷の経過を説明しきれていません。読み手に確認できればいいのですが」
「どこで読まれたか、わからないんですよね」
「はい。患者さんも、読む人の顔を見ているわけではありませんから」
院長は、狼と狸の記録へ目を戻した。
「詳しいことはまだ分かりませんが、童話犯罪捜査局に連絡を入れておきましょう」
「捜査局……ですか」
「物語の中で起きた事件を調べる機関です。今回の傷が、もともとの筋書きによるものか、誰かが干渉したものか。その点も含めて、確認をお願いしましょう」
奈津は頷いた。
「私たちは、引き続き傷の治療と、患者さんの状態の確認を。お話の中で気になることがあれば、無理に聞き出さず、話してくださった範囲で記録してください」
「わかりました」
奈津は、昨日の小部屋を思い出した。
自分には読み手も、子供たちも見えていた。
狼には森しか見えない。
同じ時間に起きていることでも、見えるものが違っていた。
*
午後、狼の傷の確認に入った。
背中の状態は落ち着いていた。
狼は奈津の顔を見て言った。
「今日は、何を聞くんだ」
奈津は手を止めた。
「まず、痛みです」
「それは、さっきよりましだ」
「ありがとうございます」
必要な確認を終えてから、奈津は尋ねた。
「少しだけ、物語の声について聞いてもいいですか」
狼は頷いた。
「知ってることならな」
「誰かがお話を読んでいる声は、いつも聞こえるんですか」
「ずっと耳元で喋ってるわけじゃねえよ」
狼は考えるように目を細めた。
「でも、次に何をするか、わかるときがある。呼ばれるときも」
「読む人が、途中で別の人と話したら?」
「知らねえ。何か聞こえることはあるけど、俺の話じゃなきゃ、いちいち気にしてねえから」
奈津は頷いた。
「この前の声は、いつもと違いました?」
狼は答えようとして、口を閉じた。
しばらく考え、掛け物へ目を落とす。
「近かった」
「近い?」
「ああ。すぐ、後ろにいたみたいだった」
奈津はその言葉を書いた。
狼は続けた。
「でも、本当にいたかって言われても、見てねえからな」
「はい」
奈津はメモを閉じた。
「ありがとうございます」
狼は、こちらの手元を見ていた。
「違う本だったのか」
「まだ、わかりません」
「そうか」
狼はそれ以上聞かなかった。
*
ナースステーションへ戻ると、佐和が入院の準備をしていた。
「新しい方ですか」
「ええ。鬼さんです」
奈津は必要な物品を一緒に揃えた。
「図書館、いかがでした?」
「同じ赤ずきんでも、知らない結末でした」
佐和は頷いた。
「お話を聞く人も、途中でいろいろ言うんですね」
「子供は、思ったことをすぐ話しますから」
「はい。どの声が患者さんに届くのか、気になって」
佐和はトレーを持った。
「三崎さん、少し休めました?」
奈津は顔を上げた。
「昨日の休み」
「……洗濯はできました」
佐和は小さく笑った。
「それはよかった。でも、今度のお休みは、お好きなこともしてくださいね」
奈津は頷いた。
知りたいことが増えるたび、休みの日まで病院にいるような気分になっていた。
物語の仕組みを全部理解しなければ、看護ができないわけではない。
それでも、傷の理由がわからない患者を見ているのは、落ち着かなかった。
物語の中で傷つくことには意味がある、と言った佐和が、今は自分のために休みを使うよう勧めている。
違う話をしているのは、わかる。
物語のことと、奈津の休日のこと。
読むのをやめさせようとしているわけでも、調べるなと言っているわけでもない。
それなのに、二つの言葉を並べると、少し引っかかった。
どこまで考えるのが自分の仕事で、どこからが自分のしたいことなのだろう。
奈津は答えを出せないまま、佐和のあとを歩いた。
*
退勤前、奈津は新しく聞いたことを記録した。
『声が近かった。すぐ後ろにいたように感じた』
その下に、患者は姿を確認していないことも残した。
物語に書かれた人物だったのか。
その場で語り足された人物だったのか。
外から入ってきた誰かだったのか。
昨日より考えられることは増えた。
けれど、犯人の顔には近づいていなかった。
奈津は端末を閉じた。
患者来院部屋の扉が開き、鬼を運ぶストレッチャーが廊下へ出てきた。
「今日は、何のお話でしたか」
看護師が鬼に尋ねた。
「一寸法師だ」
鬼は短く答えた。鬼が言葉を続けた。
「あいつは昔っから、小せえくせに刺すところが的確なんだよ」
奈津は思わずそちらを見た。
鬼は腹を押さえていた。
今日の患者には、傷をつけた相手の名前があった。
狼と狸の記録には、その欄が、まだ埋まらなかった。




