第十五章 刺した相手
第十五章 刺した相手
鬼の足が、ストレッチャーの端から少しはみ出していた。
掛け物の下で、膝を曲げている。
「伸ばしていただいても大丈夫ですよ」
佐和が声をかけると、鬼は眉を寄せた。
「伸ばすと、腹に響く」
「では、そのままで」
奈津は病室の扉を押さえた。
頭の角が、扉の上に当たりそうだった。
鬼は入る直前に顎を引いた。その動きには慣れているようだったが、すぐに腹へ手を戻した。
「ここは、もっと広くならねえのか」
「ご不便をおかけします」
「いや、あんたに言っても仕方ねえか」
鬼は天井を見た。
「建てたやつに言っといてくれ」
奈津は、誰に伝えればよいのか考えてしまった。
*
奈津は退勤時間まで、受け入れを手伝うことになった。
鬼は質問に答えられた。顔色や呼吸の状態を確認しながら、佐和が痛む場所を尋ねる。
「腹だ」
「特に痛いのは、どのあたりですか」
鬼の大きな手が、腹の上を動いた。
「このへん。あと、こっちもだ」
指す場所が、一か所ではなかった。
「一寸法師に、刺されたんですね」
「ああ」
鬼は目を閉じた。
「小さいからって、浅い傷だと思うなよ」
奈津は記録する手を止めた。
「あいつは、中に入って刺すんだ」
「……お腹の中に?」
「飲み込んだんだよ」
鬼は、しまったという顔をした。
「それで、あちこち刺された」
奈津は一寸法師の話を思い出した。
小さな体。
針の刀。
鬼に飲み込まれても、腹の中から抵抗する。
絵本では、鬼が降参すれば次の場面へ進む。
そのあとも腹が痛いということまでは、考えたことがなかった。
「昔っから、刺すところが的確なんだ」
鬼がぼやいた。
「同じ方に、前にも?」
「俺の話じゃ、あいつが来る」
奈津は頷いた。
鬼にとっては、初めて会う相手ではない。
「今日は、いつもより痛かったんですか」
「痛いのは、いつも痛えよ」
鬼は目を開けた。
「今日は、吐き出したあとも治まらなかった」
佐和が頷き、確認を続けた。
奈津は次に必要な物品を手元へ寄せた。
まず、今の痛みと体の状態。
声について尋ねるのは、そのあとだった。
*
院長の診察が終わり、鬼のそばには担当の看護師が残った。
今後の観察について申し送りを済ませ、奈津は使わなかった物品を片づけた。
「腹が痛いのに、腹を見せろって言うんだな」
鬼が言った。
「見ないと、わからないこともありますから」
「そうだろうけどよ」
鬼は掛け物を胸の下まで引き上げた。
「治すほうも、大変だな」
奈津は少し意外に思いながら、空の袋をまとめた。
「今は、少し楽になりましたか」
「さっきよりは」
「よかったです」
「よくはねえ。まだ痛え」
「はい。さっきより楽になったのは、よかったです」
鬼は奈津を見た。
それから、小さく鼻を鳴らした。
「細けえな」
*
片づけを終えると、奈津は鬼に尋ねた。
「疲れていなければ、一つだけ、お話のことを聞いてもいいですか」
「何だ」
「一寸法師が来る前に、誰かが読んでいる声は聞こえましたか」
鬼は少し考えた。
「来る前だったか、来てからだったか。そこまでは覚えてねえな」
「そうですか」
「話が進んでるのは、わかる」
狼も、似たことを言っていた。
ずっと耳元で話しているわけではない。
けれど、次に何をするかわかるときがある。
「刺されたときは、どうでしたか」
「どうって?」
「声が聞こえたのか、一寸法師の姿が見えたのか……」
鬼は奈津を見つめた。
「腹の中のやつが、見えるか?」
「……見えませんね」
「入る前は見たぞ。小せえのが、刀を構えてた」
奈津は頷いた。
「それを、飲み込んだんですね」
「何度も言わなくていい」
「すみません」
鬼はため息をつき、腹を押さえ直した。
「あいつが入って、それから痛くなった。吐き出したら、刺されるのは止まった」
奈津はその順番を覚えた。
「そりゃ、顔を見ながら刺されたわけじゃねえけどな」
鬼は続けた。
「あの状況で、ほかに誰が刺すんだ」
「はい」
奈津は答えた。
見えていないから、相手がわからないとは限らない。
鬼は一寸法師を見ていた。
飲み込んだことも覚えていた。
痛みが始まり、吐き出したあとには、新たに刺されなくなった。
狼と狸にも、何か確かめられる順番があるだろうか。
「ありがとうございました。ゆっくり休んでください」
「あんたも帰るんだろ」
奈津は顔を上げた。
「はい」
「さっき、廊下で聞こえた。時間だって」
鬼は目を閉じた。
「帰れるときに帰っとけ。俺は、まだ帰れねえんだから」
*
ナースステーションへ戻ると、佐和が時計を見た。
「三崎さん、ありがとうございました。あとは大丈夫ですよ」
「はい」
奈津は借りていたペンを返した。
「鬼さんにも、帰るように言われました」
「そうですか」
佐和は笑った。
「それは、早く帰らないとですね。あ、では少しだけ。院長から、捜査局へ連絡したと伺いました」
佐和が言った。
「狼さんと狸さんのことですね」
「ええ。担当の方が決まったら、こちらへ聞き取りに来るそうです」
「患者さんにも、お話を聞くんですか」
「必要があれば。ただ、治療や休息を優先して、院長と相談しながら進めるそうです」
奈津は頷いた。
「鬼さんにも、声のことを少し聞きました。ご本人が話してくださった範囲ですが」
「それも記録しておけば、確認するときに役立ちますね」
奈津は端末の前に座った。
受け入れを手伝った分の記録を終え、それから狼と狸について書いたメモを開いた。
近くに聞こえた声。
足音。
切り傷。
どれも気になって、聞くたびに書き足していた。
けれど、それぞれが起きた順番を、十分に確かめていなかった。
声を聞いてから、痛くなったのか。
先に痛みがあり、振り返ろうとしたところで声を聞いたのか。
足音は、その前か、あとか。
奈津は新しいページに、短く書いた。
『傷ができる前後の順番を確認する』
明日、勤務の中で聞けばいい。
メモを閉じると、佐和はもう次の業務へ戻っていた。
奈津は挨拶をして、ステーションを出た。
*
その夜は、帰りに買った惣菜を食べた。
図書館で借りた本は、鞄から出して机に置いた。
開こうと思えば、開ける。
けれど風呂から上がると、眠かった。
奈津は翌日の服を用意し、目覚ましを確認した。
鬼の腹の中で、一寸法師が刀を振るう場面が浮かんだ。
あの大きな体の中に、自分の指ほどの人間がいる。
それを飲み込むほうもどうかと思うが、鬼に言えば、また何度も言うなと怒られるだろう。
奈津は明かりを消した。
本は、閉じたままにした。
*
翌日、狼の処置が終わったあと、奈津は尋ねた。
「昨日の続きなんですが、今、少し大丈夫ですか」
「昨日より痛くねえからな」
狼は横向きになったまま答えた。
奈津は椅子を寄せた。
「傷ができたときのことを、順番に確かめたいんです」
「順番?」
「足音と、声と、痛みです。どれが先だったか、覚えていますか」
狼はすぐには答えなかった。
奈津も、メモを開いたまま待った。
「……足音だな」
「はい」
「赤ずきんが来たのかと思った」
奈津は顔を上げた。
「そのとき、赤ずきんは見えましたか」
「見えてねえ。だから、見ようとした」
狼は肩を少し動かし、やめた。
「後ろからだったんだよ」
「振り返ったんですか」
「振り返ろうとした。そこで、痛くなった」
奈津は書いた。
足音。
振り返ろうとする。
背中の痛み。
「声は、そのあとですか」
狼は掛け物の端を見ていた。
「近かったのは、覚えてる」
「はい」
「でも、先だったかは……」
言葉が止まった。
奈津は、書きかけたペンを置いた。
「そこは、覚えていないで大丈夫です」
「考えても、はっきりしねえ」
「はい。今は、わからないと残しておきます」
狼はこちらを見た。
「それでもいいのか」
「順番が違うと、考えることも変わるので」
狼は少し黙ってから、頷いた。
「じゃあ、そこはわからねえ」
奈津はそのまま書いた。
*
狸は、ベッドの上で昼食の献立を見ていた。
「今日、魚だって」
奈津が声をかける前に言った。
「そうですね」
「骨、あるかな」
「来てから、一緒に確認しましょうか」
「うん」
狸は紙を脇へ置いた。
傷の状態を確認したあと、奈津は狼にも尋ねたことを話した。
「足音と、痛くなったときの順番なんですが」
狸の顔から、少し笑みが消えた。
「兎は、止まってたよ」
「はい。そこは、前に教えていただきましたね」
「うん」
「足音がしてから、脇腹が痛くなったんですか」
狸は自分の脇腹を見た。
「足音がしたから、そっちを見た」
「見たんですね」
「木があった。木の向こうだった」
奈津はメモを取った。
「誰かの姿は?」
狸は首を横に振った。
「見えなかった。それで、兎のほうに戻ろうとしたら、痛かった」
「戻ろうとしたとき」
「うん。でも……」
狸は指先で、掛け物をつまんだ。
「そのとき切れたのか、先に切れてたのかは、わかんない。動いたから、痛くなったのかも」
奈津は頷いた。
痛みに気づいた瞬間が、傷のできた瞬間とは限らない。
自分はそこも、一つにして聞いていた。
「教えてくださって、ありがとうございます」
狸はまだ脇腹を見ていた。
「兎なら、前にいたんだよ」
「はい」
「それは、ちゃんと見た」
奈津はメモへ書き足した。
兎は、前方にいた。
姿を確認している。
*
昼食の配膳が始まると、奈津は狸の魚を一緒に確認した。
大きな骨は、取り除かれていた。
狸は箸で身を小さく分けた。
「これなら食べられる」
「ゆっくりどうぞ」
隣の病室から、鬼の声がした。
「少なくねえか」
森が答えていた。
「今日は、院長の指示でこちらの量です」
「俺の大きさ、見ただろ」
「見ましたよ」
「なら、わかるだろ」
狸が箸を止めた。
「鬼、来たんだ」
「昨日、入院されました」
「鬼も、お腹?」
「はい」
狸は自分の食事を見た。
「じゃあ、今日は仕方ないね」
隣では鬼が、まだ量について話していた。
奈津は狸の手元に水を置き、廊下へ出た。
*
午後、奈津は院長に、二人へ確認した内容を伝えた。
院長はメモを読み、狼と狸の違いを確かめた。
「狼さんは、振り返る前に痛みがあった。狸さんは、足音のするほうを見たあと、向きを戻すときに痛みに気づいたんですね」
「はい。ただ、狸さんは、そのとき傷ができたとは言い切れないと」
「動いて初めて痛むこともありますからね」
奈津は頷いた。
「今まで、声と足音と傷を、まとめて考えていました」
院長はメモを机に置いた。
「近くで声がしたから、その人が切った。そう考えたくはなります」
「はい」
「でも、患者さんが話していることと、私たちがそこから考えたことは、分けて残しましょう」
奈津は自分のメモを見た。
狼が、赤ずきんだと思ったこと。
狸が、兎を見ていたこと。
姿を確認していない相手。
聞こえた声の順番は、不明。
書き直してみると、空いているところがいくつもあった。
「同じ相手かどうかも、まだわからないんですね」
「ええ」
院長は答えた。
「似ている点はあります。ただ、お二人の話を、無理に同じ形に揃える必要はありません」
奈津は頷いた。
*
夕方、鬼の病室へ入ると、鬼は目を開けていた。
「飯は、まだか」
「もう少しかかります」
「昼から長えな」
奈津は腹の状態と、痛みを確認した。
鬼は質問に答えたあと、奈津の胸元のペンを見た。
「今日は、俺には聞かねえのか」
「お話のことですか」
「ああ」
「今日は、大丈夫です」
「そうか」
鬼は少しだけ顎を上げた。
「小さいのが飲まれたら、普通は困るだろ」
奈津は鬼を見た。
「一寸法師ですか」
「あいつは、困る前に刺すんだ」
奈津は笑いそうになり、口元を引き締めた。
鬼は気づいたらしかった。
「笑っていいぞ。俺だって、他人の腹なら笑う」
「でも、ご本人は痛いですよね」
「だから、俺は笑ってねえだろ」
「はい」
奈津は掛け物を直した。
「お食事が来たら、また伺います」
「今度は増えてるか」
「確認してきます」
鬼は満足そうに頷いた。
増やせるとは言っていない。
そのことは、確認したあとで伝えることにした。
*
退勤前、奈津は狼と狸の記録を見直した。
確認できたことを書き、わからないところも残した。
傷をつけた相手の名前は、今日も埋まらなかった。
けれど、狼が後ろを見ようとしたことと、狸が木の向こうを見たことは、別々に書けた。
奈津は端末を閉じた。
廊下では、食事を終えた鬼が森に尋ねていた。
「明日は、もっと食えるか」
「明日の状態を見てからですね」
「それ、昼にも聞いたぞ」
「お腹は、昼と比べてどうですか」
少し間があった。
「……ましだ」
「それはよかったです」
「また、それか」
奈津は通り過ぎながら、鬼と目が合った。
鬼は片手を上げた。
「帰れよ」
「はい。お大事に」
今度は、立ち止まらずに挨拶ができた。




