第十六章 猟師の傷
第十六章 猟師の傷
翌朝、鬼は食事のトレーを見ていた。
奈津が挨拶をすると、顔を上げるより先に言った。
「増えた」
「よかったですね」
「少しだぞ」
奈津はトレーを見た。
昨日より量が増えていた。
「お腹は、どうですか」
「昨日より、ましだ」
鬼は箸を持った。
「これなら、もっと食える」
「まず、今のお食事を召し上がってください」
「食ったら、増えるか」
「食べたあとの状態も確認します」
鬼は奈津の顔を見た。
「ここの看護師は、みんな同じことを言うな」
奈津は笑った。
同じことを伝えられているなら、その点はよかった。
*
午前中は、いつもの仕事が続いた。
検温。
処置の準備。
寝具の交換。
呼ばれて病室へ行き、戻る途中で別の患者に声をかけられる。
狼は傷の痛みが軽くなっていた。
狸は昼食の献立を気にしていた。
「今日は、骨のないやつかな」
「お魚かどうか、確認してきますね」
「魚じゃなくても、いいんだけど」
狸はそう言いながら、献立表を見た。
傷をつけた相手がわからなくても、傷は治っていく。
奈津は、そのことに少し安心した。
理由がわかるまで、治療が止まるわけではない。
昨日より眠れる。
昨日より動ける。
そういう変化は、ちゃんと見ていればわかった。
*
昼前、患者来院部屋から連絡が入った。
佐和が電話を受け、近くにいた高梨へ声をかけた。
「赤ずきんの猟師さんです。腕に傷があるそうです」
奈津は物品を揃える手を止めた。
高梨が立ち上がった。
「三崎さん、一緒に来てもらえますか」
「はい」
奈津はトレーを持ち、あとを追った。
猟師。
狼の腹を切り、赤ずきんと祖母を助ける人。
その人にも、治療が必要になるのだと思った。
*
猟師は椅子に座っていた。
帽子を膝に置き、右手で左の前腕を押さえている。
袖には血がにじんでいた。
高梨が名乗り、状態を確認した。
猟師は落ち着いて答えていたが、左手を動かそうとすると顔をしかめた。
「狼にやられたんですか」
高梨が尋ねた。
「いや」
猟師は首を振った。
「あいつは、寝ていた」
奈津は袖からのぞく手を見た。
高梨はそれ以上、相手について聞かなかった。
出血と痛みを確認し、院長へ連絡する。
奈津は必要な物品を渡した。
誰が傷をつけたかより先に、確かめることがあった。
*
診察のあと、猟師は病室へ移った。
左腕には処置がされ、掛け物の上に置かれていた。
傷は一本だった。
狼の背中や狸の脇腹にある傷と、似ているようにも見えた。
けれど、奈津には同じものだと判断できなかった。
切り傷というだけなら、この病院にはいくつもある。
猟師の帽子を床頭台へ置くと、本人が尋ねた。
「狼も、ここへ来ているのか」
「はい。入院されています」
「あいつもか」
猟師は左腕へ目を落とした。
「腹を切ったのは、俺じゃないぞ」
奈津は顔を上げた。
「まだ、切っていないんだ」
「お話の、その前だったんですか」
「ああ。婆さんの家に入って、寝ている狼を見つけたところだ」
奈津は椅子へ座った。
「今、少しお話を伺っても大丈夫ですか」
「構わんよ」
猟師は右手で帽子の向きを直した。
「腹を切れば、二人を助けられる。いつもなら、そうなる」
奈津は頷いた。
「ところが、そこで止まった」
*
猟師がいたのは、祖母の家の中だった。
ベッドには狼が寝ていた。
大きないびきが聞こえていたが、場面が止まると、それも途切れた。
「眠っているだけなら、胸が動くだろう」
猟師は言った。
「それまで、いびきに合わせて掛け物が動いていた。それが、ぴたりと止まった」
「猟師さんは、動けたんですか」
「ああ」
奈津はメモを取った。
狸の話では、兎が止まっていた。
今度は、狼が止まっている。
「待っていれば、また進むことはある。だから、そのまま待っていた」
猟師は少し眉を寄せた。
「そこで、足音がした」
奈津のペンが止まった。
「どちらからですか」
「後ろだ。俺が入ってきた戸口のほう」
「姿は見えましたか」
「いや」
猟師は首を振った。
「振り向く前に、腕が痛くなった」
奈津は、狼の記録を思い出した。
後ろからの足音。
振り返ろうとしたところで、背中の痛み。
「痛くなってから、後ろを見たんですね」
「ああ。誰もいなかった」
「扉は、開いていましたか」
「開いていた。俺が入ったときのままだ」
猟師は包帯を見た。
「血が出ているのに気づいて、傷を押さえた。あとは、ここへ来た」
奈津は書き終え、顔を上げた。
「その間に、声は聞こえましたか」
猟師は少し考えた。
「何か言っていた気はする」
「言葉は、覚えていますか」
「いや。腕のほうに気を取られていた」
奈津は頷いた。
聞こえたかもしれない。
内容は、覚えていない。
そのまま残した。
*
ステーションへ戻ると、高梨が記録を確認していた。
奈津は、猟師から聞いたことを伝えた。
「狼さんと狸さんの話に、似ているところがあります」
高梨はメモへ目を通した。
「中断中。足音。相手の姿は見ていない」
「はい」
「院長にも共有しましょう」
奈津は頷いた。
高梨は椅子から立ち上がりかけ、もう一度メモを見た。
「狼さんに聞くのは、少し待ってくださいね」
「はい」
「この猟師さんが、その狼さんのお話の人かどうかも、まだ確認できていませんから」
奈津は、自分がすぐに二人を結びつけていたことに気づいた。
赤ずきんの狼。
赤ずきんの猟師。
同じ話の名前でも、同じ場面にいたとは限らない。
「わかりました」
奈津は答えた。
*
午後、院長の机に三人分の記録が並んだ。
狼。
狸。
猟師。
院長は猟師の記録を読み、傷の位置を確認した。
「傷だけで、同じ相手によるものとは言えません」
奈津は頷いた。
「ただ、話が止まっている間に足音を聞き、その前後で傷に気づいている。そこは、重なっていますね」
「はい」
奈津は頷いた。
院長は猟師の記録へ目を戻した。
「猟師さんの件も、童話犯罪捜査局へ知らせます。お二人との関連があるか、調べてもらいましょう」
それから、高梨へ向き直った。
「捜査局から、似た経過の患者さんがほかにいなかったか、確認を依頼されています。最近の来院記録からお願いします」
「わかりました」
高梨が答えた。
「はい」
奈津は、机に並んだ記録を見た。
狼は、赤ずきんと祖母を食べた。
狸は、婆さんを死なせた。
悪いことをして、お仕置きされている。
森の言葉が、まだ頭に残っていた。
けれど、猟師は二人を助ける人だ。
その猟師が、助ける前に傷つけられていた。
悪役ではないのに、なぜ。
奈津は猟師の記録へ目を戻した。
狼と狸の傷も、本当にお仕置きだったのだろうか。
傷つけた相手も、理由もわからないまま、物語の中で何をしたかだけで納得しかけていた。
今回の傷まで、そのお仕置きなのか。
あのときも、違う気がしていた。
猟師の腕に巻かれた包帯を思い出すと、その説明では、もう納得できなかった。
「三崎さん?」
高梨に呼ばれ、奈津は顔を上げた。
「戻りましょうか」
「はい」
奈津は自分のメモを持った。
まだ、誰がやったのかはわからない。
ただ、猟師が傷つけられたことは、これまでの二人の傷についても考え直す理由になった。
*
遅い休憩で食堂へ行くと、森が先に座っていた。
「猟師さん、入ったんだって?」
「はい」
「狼さんに噛まれたの?」
「狼さんは、寝ていたそうです」
奈津は向かいへ座った。
「お話が止まっている間に、足音がして、そのあと腕の傷に気づいたと」
森の箸が止まった。
「狸さんたちと、同じ?」
「似ています。でも、まだわかりません」
「そうなんだ」
森は弁当へ目を戻した。
奈津も蓋を開けた。
卵焼きを一つ食べてから、口を開いた。
「猟師さんは、悪役じゃないですよね」
森が顔を上げた。
「赤ずきんと、お婆さんを助ける人ですよね」
「うん」
「なのに、同じような傷ができていて」
奈津は箸を置いた。
「狼さんたちの傷も、お仕置きとは違うのかもしれないと思って」
森はすぐには答えなかった。
しばらく考え、それから頷いた。
「そうね。猟師さんは、何もしていないところだものね」
「はい」
「この前のは、物語にある傷の話と、一緒にしちゃったかな」
森は水を飲んだ。
「狼さんのお腹を切ったのは猟師さんだけど、背中を切った人は、わかってないんだよね」
奈津は頷いた。
「狸さんの脇腹も、かちかち山の本では見つかりませんでした」
「そうだったね」
森は少し黙った。
「狸さん、処置するときに、兎がやったんじゃないって何度か言ってたの」
奈津は森を見た。
「三崎さんが聞いたときだけじゃなくて。あれも、残しておいたほうがいい?」
「お願いします」
「わかった。覚えている範囲で書くね」
奈津は頷いた。
森は、狼と狸の治療を丁寧に続けていた。
その人が聞いた言葉には、奈津のメモにないものもある。
一人で何度も聞きに行かなくても、確かめられることはあった。
*
夕方、猟師の病室へ行くと、本人は窓の外を見ていた。
奈津が声をかけると、こちらを向いた。
「二人は、どうなるんだろうな」
「赤ずきんと、お婆さんですか」
「ああ」
猟師は頷いた。
「俺は、まだ助けていない」
奈津は椅子を寄せた。
物語が止まっている。
そう聞けば、傷つけられずに待っていられるようにも思える。
けれど、この猟師には、狼の腹の中にいる二人が残されていた。
「戻ったら、続きをするんですね」
「そのために、腕を治してもらわんとな」
猟師は包帯の巻かれた腕を見た。
「右手で道具は持てる。だが、片手じゃ、やりにくい」
奈津は頷いた。
「痛みは、さっきと比べてどうですか」
「少し楽だ」
必要な確認をしながら、奈津は猟師の話を聞いた。
助ける前に傷つけられた。
そのために、助けに戻るのが遅れている。
猟師を傷つけた誰かは、そこまで考えていたのだろうか。
それとも、そんなことは関係なかったのだろうか。
奈津には、まだわからなかった。
*
確認を終え、奈津は立ち上がった。
猟師が呼び止めた。
「そういえば、戸口のことで一つ思い出した」
奈津は振り返った。
「誰もいなかったが、音はしたんだ」
「足音ですか」
「いや。足音のあとだ」
猟師は右手で、小さく押す動作をした。
「扉が、動いた。蝶番が鳴った」
奈津はメモを開いた。
「振り返ったときに?」
「ああ。風で動いたのかもしれん。そこまでは、わからんが」
「はい」
奈津は書き留めた。
姿は見ていない。
声の言葉も、覚えていない。
それでも、猟師が振り返った先では、開いていた扉が動いていた。
*
退勤前、奈津は新しく聞いたことを記録した。
扉が動き、蝶番の音がした。
風によるものか、誰かが触れたのかは不明。
その下に、猟師の言葉を残した。
『俺は、まだ助けていない』
奈津はしばらく、その一行を見ていた。
物語に書かれた傷なら、続きを知っていることがある。
鬼は一寸法師を吐き出す。
猟師は狼の腹を切り、二人を助ける。
けれど、今回の傷が、その続きを妨げていた。
狼と狸が悪いことをしたかどうかとは、別のところで何かが起きているのかもしれない。
奈津は端末を閉じた。
廊下へ出ると、夕食のトレーを下げる森とすれ違った。
「猟師さん、全部食べられたよ」
「よかったです」
「右手で食べられるから、そこは助かったって」
奈津は頷いた。
今は、食べて、眠って、傷を治す。
猟師が続きをするために、ここでできることはあった。
新しく聞いたことも、院長へ報告しておこうと思った。捜査局へ伝える内容が、また一つ増えた。




