第十七章 戸口の向こう
第十七章 戸口の向こう
森が残した記録には、狸の言葉が三つあった。
『兎じゃない』
『兎は前にいた』
『あっちから来た』
最後の言葉のあとに、狸が左側を指したことも書かれていた。
奈津は申し送りのあと、森に尋ねた。
「左って、ベッドの左側ですか」
「そう。処置中だったから、そのときは痛いほうを指しているのかなと思ったんだけど」
森は自分の脇腹に手を当てた。
「傷の話をしていたから、どっちの意味だったのかまでは聞いていないの」
「ありがとうございます。あとで確認してみます」
「うん。狸さん、同じ話を何度もしてるから、知っていることだったらごめんね」
「いえ。私には、指して教えてくれたことはなかったです」
森は少し安心したように頷いた。
同じことを話していても、そのときの姿勢や動きまで同じとは限らない。
奈津は記録を閉じた。
*
狸は朝食を終え、窓の外を見ていた。
奈津が声をかけると、こちらを向いた。
「今日、雨かな」
「曇っていますね」
「舟は、雨だと嫌だね」
奈津は一瞬、返事に迷った。
狸は窓へ目を戻した。
「晴れていても、嫌だけど」
奈津はベッドのそばへ寄った。
「傷の痛みは、どうですか」
「昨日より、いい」
必要な確認を終えてから、森の記録について尋ねた。
「足音がしたほうを、森さんに教えてくださったんですね」
「うん」
「左側だったそうですが、お話の中でも左から聞こえたんですか」
狸は自分の左側を見た。
「そう。こっち」
「兎さんは、どちらに?」
狸は前を指した。
「そこにいた」
奈津は椅子を少し動かした。
「私が兎さんの位置だとすると、足音は、あちらですか」
狸は頷き、窓のほうを指した。
「木があった。こっちからは、見えなかった」
「一本ですか。それとも、何本か」
「何本も。でも、近いところに太いのが一本あって」
狸は両手を広げた。
「このくらい……もっとかな」
途中で左手を下ろした。
奈津はすぐに尋ねた。
「響きました?」
「ちょっと」
「無理に動かさなくて大丈夫です」
狸は頷いた。
奈津はメモに、小さな丸を描いた。
「狸さんがここ。兎さんが前。太い木が、左側」
狸に見せると、身を乗り出しかけてやめた。
奈津は紙を近づけた。
「うん。でも、木はもう少し前」
奈津は丸を描き直した。
「ここですか」
「そう」
狸は紙を見ていた。
「足音は、その向こう」
*
足音の主は、狸のすぐそばを歩いていたとは限らなかった。
近くに感じた声と、木の向こうから聞こえた足音。
それを一人のものとして考えてよいのかも、まだわからない。
奈津はメモを閉じようとして、狸の視線に気づいた。
「何か、違いますか」
「兎は、こっちを見てた」
狸が言った。
「ずっと?」
「止まってる間は」
奈津は紙を開き直した。
「兎さんの顔が、狸さんのほうを向いていたんですね」
「うん」
狸は掛け物をつまんだ。
「だから、動いたらわかるよ」
奈津は顔を上げた。
兎ではない。
狸は、ただそう思っているのではなかった。
見ていたから、そう話していた。
「書いておきますね」
狸は頷いた。
*
午前中の処置が終わるころ、高梨が奈津を呼んだ。
「猟師さんの件で、院長から確認してほしいことがあります」
奈津は手を洗い、ステーションへ戻った。
高梨の手元には、猟師の記録が開かれていた。
「左腕を、どこに置いていたか。戸口に対して、体がどちらを向いていたか。負担にならない範囲で聞いてください」
「はい」
「傷ができたときの位置を、もう少し確認したいそうです」
奈津は狸に見せた紙を思い出した。
「絵にしても、大丈夫でしょうか」
「患者さんが説明しやすければ。上手な絵でなくていいですよ」
高梨は笑った。
奈津は、自分が描いた丸を見た。
上手な絵には、ならないと思った。
*
猟師はベッドに腰を下ろしていた。
左腕をかばいながら、右手で帽子の内側を確かめている。
「何か入っていましたか」
「いや。濡れていないかと思ってな」
奈津は帽子へ目を向けた。
「血がついたかもしれん」
猟師はそう言い、床頭台へ戻した。
傷の確認を終え、奈津は紙を出した。
「昨日のお話について、位置を教えていただきたいんです」
「位置?」
「猟師さんがいた場所と、扉の場所です」
奈津は四角を描いた。
「これが、お部屋だとして」
「細長い部屋だな」
「形も、違いますか」
「もう少し、こっちに広い」
奈津は線を足した。
猟師は右手の指で紙を示した。
「戸がここ。寝台は、この壁に沿っていた」
奈津はベッドらしい四角を描いた。
「狼さんが、ここですね」
「ああ。俺は、こっちに立っていた」
丸を一つ加える。
「扉には、背中を向けていたんですか」
「斜めだな。寝台のほうを見ていた」
「左腕は、どうしていました?」
猟師は少し考えた。
「掛け物に、手を伸ばしていた」
「狼さんの掛け物ですか」
「ああ。腹のあたりを見ようとして」
奈津はその位置を書いた。
猟師は紙を見ながら、眉を寄せた。
「待て。足音は、戸口だけじゃなかった」
*
奈津はペンを止めた。
「どちらからも、聞こえましたか」
「最初は外だ」
猟師は扉の外側を指した。
「それから、床を踏む音になった」
「家の中に入ったように聞こえたんですね」
「ああ」
猟師は頷いた。
「森の土を歩く音と、ここの床じゃ違う。板が鳴るからな」
奈津は図の戸口へ目を落とした。
「何歩くらいか、覚えていますか」
「そこまでは覚えとらん」
「はい」
「ただ、入ってきたと思った。だから振り向こうとした」
猟師は左腕を見た。
「その前に、ここが痛くなった」
奈津は書き足した。
外の足音。
床板の音。
腕の痛み。
振り返った先には、誰もいなかった。
「扉が動いたのは、そのときですね」
「ああ」
猟師は図の扉を指した。
「少し、戻ってきた」
「閉まるほうへ?」
「そうだ。開ききっていたのが、少しな」
奈津は頷いた。
誰かが押したのか。
通ったときに触れたのか。
あるいは、猟師が言うように風だったのか。
今の話だけでは決められなかった。
*
猟師は紙を見たまま言った。
「足音がしたとき、婆さんかと思ったんだ」
奈津は顔を上げた。
「お婆さんですか」
「ああ。家の中へ入ってきたからな」
猟師は少し困ったように笑った。
「馬鹿な話だ。婆さんは、狼の腹の中にいるのに」
奈津は何も言わずに聞いた。
「それでも、自分の家へ帰ってきた音に聞こえた」
「走っていましたか」
「いや」
猟師は首を振った。
「普通に、歩いていた」
奈津は、狼が赤ずきんだと思ったという話を思い出した。
狼には、赤ずきんが来る足音。
猟師には、祖母が家へ帰ってくる足音。
聞いた音は同じだったのかもしれない。
それぞれが、その場所に来るはずの人を思い浮かべただけなのかもしれない。
「ありがとうございました」
奈津は紙を片づけた。
猟師は帽子を手に取った。
「思い出せたら、また言うよ」
「お願いします」
*
院長は、奈津の描いた図を机に置いた。
狸の図と、猟師の図。
どちらにも、患者から見えにくい場所があった。
「足音の位置と、傷の位置が近いかどうかも、これだけではわかりませんね」
「はい」
奈津は答えた。
「ただ、猟師さんは、外から中へ入ってきたように聞こえたと」
「床の音が変わったんですね」
院長は記録へ目を通した。
「その点は、残しておきましょう」
院長は、二枚の図を並べた。
「こちらも、捜査局へ共有します。担当の捜査員が、明日こちらへ来ることになりました」
「患者さんに、お話を聞くんですか」
奈津が尋ねた。
「まず、記録と私たちからの説明を確認するそうです。そのうえで、患者さんの体調とご希望を伺って、聞き取りを進めます」
奈津は頷いた。
自分が聞いたことを、最初から患者に話し直してもらう必要はない。そのためにも、図と記録を整えておこうと思った。
高梨が、別の記録を差し出した。
「捜査局から依頼された来院記録の確認ですが、最近のものには、同じような経過は見つかっていません。理由がはっきりしない傷については、もう少し前も確認します」
「お願いします」
奈津は猟師の図を見た。
部屋へ入ってきた。
そう聞こえたのに、振り返った先には誰もいない。
狼と狸のときは、森だった。
木の向こうへ隠れることも、遠ざかることもできそうに思えた。
けれど、猟師がいたのは家の中だ。
「窓も、確認したほうがいいでしょうか」
奈津が尋ねると、院長は頷いた。
「次に話す機会があれば。ただ、今日は何度も聞いていますから、急がなくて大丈夫です」
奈津はメモに書いた。
窓。
部屋の奥。
ほかの出口。
知りたいことは増えるが、患者の一日は、それだけのためにあるわけではなかった。
*
午後、猟師は少し眠った。
鬼は廊下を歩き、ステーションの前で足を止めた。
「猟師が来たんだってな」
奈津は顔を上げた。
「はい」
「狼か」
「狼さんではないそうです」
「じゃあ、誰にやられた」
「まだ、わかっていません」
鬼は眉を寄せた。
「わからねえのに、治せるのか」
「今は、傷の状態を見ながら治療しています」
「そうか」
鬼は自分の腹へ手を当てた。
「俺のも、あいつが刺したところを全部見たわけじゃねえしな」
奈津は頷いた。
鬼は少し考え、それから言った。
「でも、相手がわからねえのは、嫌だな」
奈津は鬼を見た。
「戻ったときに、誰から離れりゃいいのか、わからねえだろ」
鬼はそれだけ言い、廊下を歩いていった。
*
退勤前、奈津は猟師の病室へ寄った。
起きていれば、痛みを確認するつもりだった。
猟師はベッドの背を少し上げ、帽子を膝に置いていた。
「よく眠れましたか」
「ああ」
猟師は頷いた。
「戻る夢を見た」
「お話の中へですか」
「婆さんの家だ」
奈津は左腕の位置を確認した。
「痛みで、目が覚めました?」
「いや。そこまでは痛まん」
猟師は帽子の縁を指でなぞった。
「さっき聞かれたせいかもしれんな。戸口が出てきた」
奈津は顔を上げた。
「夢だから、本当にそうだったかは、わからんぞ」
「はい」
「だが、少し気になってな」
猟師は奈津を見た。
「あの家の戸は、下が擦るんだ」
「床にですか」
「ああ。開けるときに、少し持ち上げる。俺が入ったときも、そうした」
奈津は、机の上に描いた図を思い出した。
「そのままでは、開きにくいんですね」
「全部閉まっているときはな」
猟師は右手を少し上げた。
「だから、誰かが入ってきた音がしても、おかしくないと思ったのかもしれん。俺が開けたままにしておいたから」
奈津はメモを出した。
猟師が開けた扉。
そのあとに聞こえた、外から中へ移る足音。
振り返ったときには、少し閉まるほうへ動いていた。
奈津が書いていると、猟師が言った。
「夢では、閉めようとしていた」
「猟師さんが?」
「ああ」
猟師は帽子から手を離した。
「戻ったら、まず戸を閉めようと思ってな」
奈津はペンを止めた。
猟師は、その先に何も言わなかった。
赤ずきんと祖母を助けるために、戻らなければならない。
その場所で、また足音がするかもしれない。
奈津は、鬼の言葉を思い出した。
誰から離れればよいのか、わからない。
「そのことも、院長に伝えておきます」
猟師は頷いた。
「頼むよ」
*
ステーションへ戻り、奈津は猟師の話を高梨へ伝えた。
扉の構造については、本人の記憶として。
閉めようとしていたことは、夢の中の出来事として。
そして、戻ったら戸を閉めたいと話していたことも残した。
高梨は記録を読み、頷いた。
「戻るときのことも、相談しないといけませんね」
「はい」
奈津は猟師の病室のほうを見た。
傷が治れば、元の話へ戻れる。
これまでは、そのことをよい知らせとして聞いていた。
けれど猟師は、戻った先の戸口を気にしていた。
奈津はメモを閉じた。
治ったあとのことも、聞いておかなければならなかった。




