第十八章 戻る前に
第十八章 戻る前に
猟師の傷は、落ち着いていた。
処置のときにも、昨日ほど顔をしかめなくなった。左手の指を動かし、握って、開く。
「だいぶいいな」
猟師は自分の手を見て言った。
「痛みは、どうですか」
「動かすと、少しな」
奈津は傷の状態を確認した。
治ってきている。
そのことを喜びながら、昨日の言葉を思い出した。
戻ったら、まず戸を閉めたい。
猟師には、帰る場所で気にしていることがあった。
*
朝の申し送りで、高梨が猟師について話した。
「傷の経過がよければ、戻る時期を院長と相談します。ただ、ご本人が、戻った先でまた傷つけられることを心配されています」
森が頷いた。
「戸口のことですね」
「はい。痛みや傷だけでなく、その点も確認していきましょう」
奈津はメモを取った。
狼と狸にも、戻る先について聞いていなかった。
傷の理由を確かめるための質問は、何度もしている。
けれど、戻ることをどう思っているかは、尋ねていなかった。
午前中、童話犯罪捜査局の捜査員が二人来た。
院長が面談室へ案内し、高梨も記録を持って入った。
奈津は、患者から聞いた内容の確認で呼ばれた。
「この図は、患者さんに見せながら描いたものですね」
捜査員が、狸と猟師の位置を描いた紙を示した。
「はい。位置が違うところは、ご本人に直していただきました」
「ありがとうございます。聞き取れなかったところは、このまま未確認として扱います」
奈津は頷いた。
捜査員は院長へ向き直った。
「患者さんへの聞き取りは、体調とご本人の希望を確認してからお願いします。すでに伺っていることを、何度も話していただかないようにします」
「わかりました」
院長が答えた。
奈津は確認を終え、病棟へ戻った。
これから聞こうとしているのは、事件の詳しい経緯ではなかった。
傷が治ったあと、戻ることをどう思っているか。
その気持ちは、看護の中で聞いておきたかった。
*
狼は、ベッドの上で背中を丸めていた。
奈津が入ると、顔だけこちらへ向けた。
「今日は、何だ」
「傷の確認です」
「そのあとは?」
奈津は少し笑った。
「戻るときのことを、聞きたいと思っています」
狼は掛け物を脇へ寄せた。
「先に、こっちを頼む」
「はい」
処置を終え、奈津は物品を片づけた。
狼はゆっくり体の向きを変え、枕へ頭を戻した。
「帰る話か」
「はい。戻ることについて、気になることはありますか」
「傷が治りゃ、戻るんだろ」
「そうですね」
「なら、戻るよ」
奈津は椅子に座った。
「足音がした場所へ戻ることは、どうですか」
狼の目が、少し細くなった。
「気にならねえわけじゃない」
奈津は待った。
「でも、あそこは俺の森だ」
狼は窓の外を見た。
「知らねえ足音がしたからって、ずっとここにいるわけにもいかねえだろ」
「はい」
「ここじゃ、赤ずきんも来ねえしな」
奈津は返事をしようとして、口を閉じた。
狼はこちらを見た。
「嫌な顔をするなよ。俺の話なんだから」
「……はい」
狼はまた窓へ目を戻した。
「ただ、次は振り向く前に、少し考える」
「どうするか、決めていますか」
「まだだ」
狼は短く答えた。
「見えてねえ相手に、何ができるかもわからねえ」
奈津はその言葉を残した。
*
狸は、すぐには答えなかった。
奈津が戻ることについて尋ねると、掛け物の端を指で折った。
「舟まで、行くのかな」
「お話の続きですね」
「うん」
狸は折った布を戻した。
「背中は、よくなったし。ここも治ったら、行くんだよね」
奈津は傷のある脇腹へ目を向けた。
「戻ったとき、どの場面から始まるかは、院長に確認しましょう」
「うん」
狸は頷いたが、顔を上げなかった。
「足音のことも、気になりますか」
「そっちも」
そっちも。
奈津は、その言い方を覚えた。
狸が気にしているのは、知らない相手だけではない。
戻れば、兎がいる。
物語に書かれた続きを、狸自身も知っていた。
「両方、気になっているんですね」
狸は頷いた。
「どっちを見てればいいんだろ」
奈津はすぐに答えられなかった。
前には、兎がいる。
左には、足音のした木がある。
狸は、両方を見ようとしていた。
「そのことも、院長と一緒に考えましょう」
奈津が言うと、狸は小さく息を吐いた。
「わかった」
*
昼前、奈津は院長へ報告した。
狼は戻るつもりでいる。
知らない足音は気になるが、あそこは自分の森だと話していた。
狸は、足音だけでなく、舟へ向かう続きを心配していた。
院長は話を聞き終え、頷いた。
「戻る先への気持ちは、それぞれ違いますね」
「はい」
「猟師さんも含めて、戻る前に私からお話しします」
奈津はメモを閉じた。
「ここに、もう少しいることはできるんですか」
院長は奈津を見た。
「必要があれば、相談できます」
「傷が治っていても?」
「治ったから、今日すぐ戻らなければならないということではありません」
奈津は少し安心した。
けれど、狸がずっとここにいれば、それでよいのかはわからなかった。
狼は、自分の森へ戻ると言っている。
猟師には、助ける相手がいる。
同じ理由で、三人を引き止めることはできなかった。
*
午後、猟師は院長と話した。
奈津も同席し、必要なことを記録した。
「戻ることについて、今はどうお考えですか」
院長が尋ねると、猟師は左腕を見た。
「使えるようになったら、戻りたい」
「戸口のことは、気になっていますか」
「ああ」
猟師は頷いた。
「だが、戸を閉めれば済むとも思っとらん」
奈津は顔を上げた。
「ほかにも入口があったかもしれん。そもそも、俺が見落としただけかもしれん」
猟師は院長を見た。
「誰だったかわかるまで待っていたら、いつ戻れる?」
院長は少し間を置いた。
「今の段階では、お約束できません」
「そうだろうな」
猟師は帽子へ手を伸ばした。
「なら、傷がよくなったら戻るよ」
院長は頷き、戻る前に確認することを説明した。
奈津は記録を取りながら、猟師の右手を見ていた。
帽子をつかんだ指が、縁を強く押していた。
気にしていないわけではない。
それでも、戻りたいと話している。
*
院長が病室を出たあと、奈津は猟師に尋ねた。
「戻るときに、私たちから確認しておきたいことはありますか」
猟師はしばらく考えた。
「もし、また来たら」
「はい」
「同じ話を、最初からしなくてもいいようにしてくれ」
奈津は猟師を見た。
「腕が痛いときに、あれこれ思い出すのは、なかなか骨が折れる」
「記録は残しています。次に担当する人にも、わかるようにしておきます」
「それは助かる」
猟師は帽子を膝へ置いた。
「戻る前に、もう一度、俺にも見せてもらえるか。間違っているところがあったら、言うよ」
「はい。図も、一緒に確認しましょう」
猟師は頷いた。
*
ステーションへ戻ると、佐和が物品の数を確認していた。
奈津は猟師との話を伝えた。
「また来たとき、最初から説明しなくてもいいようにしてほしい、と」
「そうでしたか」
佐和は手を止めた。
「三崎さん、たくさん聞きましたものね」
「はい」
奈津は自分のメモを見た。
「同じことを、何度も確認しています」
「必要な確認もありました。でも、次は記録を読んでから聞けますね」
佐和は物品を棚へ戻した。
「患者さんが話してくださった分は、こちらで持っておきましょう」
奈津は頷いた。
聞いて、書いた。
そのあと、その記録を誰がどう使うかまでは、あまり考えていなかった。
犯人へ近づくために集めた言葉は、患者がまた来たときのためにも残せた。
*
鬼は、翌日の診察で戻る時期を決めることになった。
「やっとか」
夕方の確認に入った奈津へ、鬼が言った。
「まだ、明日の状態を見てからです」
「わかってる。みんな、それを言う」
鬼は腹を撫でた。
前ほど顔をしかめなくなっていた。
「戻る前に、気になることはありますか」
「飯」
「お食事ですか」
「向こうへ戻ったら、ここみたいに時間になると出てくるわけじゃねえからな」
奈津は笑った。
「ここでも、もっと食べたいとおっしゃっていましたね」
「それとこれとは、別だ」
鬼は真面目な顔で答えた。
奈津が記録していると、鬼は少し声を落とした。
「猟師は、戻るのか」
「ご本人は、戻りたいと話されています」
「そうか」
鬼は掛け物へ目を落とした。
「わかる相手でも、会いたくねえときはあるけどな」
奈津はペンを止めた。
「一寸法師ですか」
「ああ」
鬼は頷いた。
「俺だって、また飲むのかと思うと、少し嫌になる」
奈津は鬼を見た。
鬼は自分の腹へ手を置いたまま、続けた。
「小せえのを見て、やめときゃいいんだが」
「そう思っても、同じことになるんですか」
「話が進むと、そうなることがある」
鬼は顔を上げた。
「まあ、腹が治ってから考えるさ」
*
退勤前、奈津は三人の記録に、戻ることについて話した内容を加えた。
狼は、自分の森へ戻る。
狸は、兎と足音のした場所の両方を気にしている。
猟師は、傷がよくなれば二人を助けに戻りたい。
同じような傷があるからといって、同じことを望んでいるわけではなかった。
奈津は猟師の記録を開き直した。
足音。
床板。
腕の痛み。
動いた扉。
次に来る人が、どこまで確認済みかわかるように整理する。
その途中で、高梨が机のそばに来た。
「三崎さん、少し見てもらえますか」
手には、以前の来院記録があった。
「似た経過ですか」
「まだ、そうとは言えません。ただ、気になる記載があって」
高梨は一か所を指した。
奈津は画面へ目を近づけた。
『本人、物語が止まっている間に負傷したと話す』
その下に、患者の言葉が残されていた。
『戸を開けろと言われた』
奈津は高梨を見た。
「誰が言ったかは?」
「この記録では、わかりません」
奈津は、患者の名前を確認した。
赤ずきんではなかった。
かちかち山でもない。
『七匹の子やぎ』
猟師は、開いた戸口の向こうから足音を聞いた。
この患者には、戸を開けろと呼ぶ声があった。
奈津は記録の先を読んだ。
「院長へ報告して、捜査局にも確認してもらいましょう」
高梨が言った。
奈津は頷き、来院日を確かめた。




