第十九章 開けなかった戸
第十九章 開けなかった戸
記録に残っていた患者は、七匹の子やぎのうちの一匹だった。
来院したのは、三か月前。
右前脚に切り傷があった。
奈津は高梨と一緒に、経過を読んだ。
『母親が出かけたあと、戸の外から声がした』
『いつもの狼の声とは違った』
『物語が止まっている間に負傷したと話す』
その先には、処置と傷の経過が記されていた。
傷は治り、子やぎは元の物語へ戻っている。
「三か月前にも、あったんですね」
奈津が言うと、高梨は頷いた。
「ただ、このときは、ほかの患者さんと関連づけていません」
「戸を開けろと言った相手については……」
「ここには、残っていないですね」
奈津はもう一度、患者の言葉を読んだ。
『戸を開けろと言われた』
猟師の家では、戸が開いていた。
子やぎの家では、閉まっていた。
そこまではわかる。
けれど、その声が同じ相手のものだったかは、わからなかった。
*
「このときの担当は、佐和さんですね」
高梨が記録の名前を確認した。
佐和は、まだ病室にいた。
奈津は時計を見た。
退勤時刻を過ぎていた。
「明日、聞いてみましょう」
高梨が言った。
「院長には、私から伝えておきます」
「はい」
奈津はメモに患者名と来院日を書いた。
前なら、そのまま佐和を待っていたかもしれない。
今も、続きを知りたかった。
それでも、子やぎは今この病棟にいるわけではない。
明日聞くことで困る理由は、なかった。
奈津は挨拶をして、ステーションを出た。
*
帰り道、携帯電話で七匹の子やぎを検索しようとして、やめた。
物語の筋なら、覚えている。
母やぎが出かける。
狼が戸を叩く。
声や足を確かめた子やぎたちは、最初は戸を開けない。
狼が工夫を重ね、やがて家の中へ入る。
知りたいのは、その筋書きではなかった。
傷を負った子やぎが、何を聞き、何をしたのか。
それは、本を読んでもわからない。
奈津は携帯電話を鞄へ戻した。
*
翌朝、佐和は記録を読むと、小さく頷いた。
「覚えています」
奈津は椅子を寄せた。
「戸の外から、知らない声がしたと話していました。ただ、そのときは狼の声が変わったのかもしれないと考えていました」
「声を変えるお話ですものね」
「ええ。子やぎさんも、狼ではないかと気にしていました」
佐和は記録を少し下へ送った。
「でも、この方は、戸を開けていません」
奈津は顔を上げた。
「開けなかったんですか」
「はい。私が聞いたときは、そう答えていました」
記録には、短い一文があった。
『開扉を否定』
奈津は、その下の傷の記載を見た。
「では、傷は……」
「戸のそばへ行ったときに、痛くなったと」
佐和は答えた。
「相手を見たか尋ねると、首を振っていました」
奈津は猟師の図を思い出した。
入ってきたように聞こえる足音。
振り返った先には、誰もいない。
子やぎの家では、戸さえ開いていなかった。
*
佐和は、覚えていることと記録に残っていることを分けて話した。
子やぎは、ほかのきょうだいが動かなくなったと話していた。
そこで、戸を叩く音がした。
いつもの狼とは違う声で、開けるように言われた。
子やぎは母やぎの言いつけを守り、戸を開けなかった。
戸口へ近づいたあと、右前脚に痛みを感じた。
「きょうだいが止まっていたことは、ここにも残っています」
佐和が画面を指した。
「ただ、戸を叩いた回数や、声の言葉までは確認していません」
「はい」
「思い出したつもりで、付け足さないほうがいいですね」
奈津は頷いた。
聞き直したくても、子やぎはここにいない。
三か月前の会話を、今の疑問に合わせて詳しくすることはできなかった。
*
院長は、四人分の記録を確認した。
狼。
狸。
猟師。
子やぎ。
奈津は佐和から聞いたことを報告した。
「戸を開けていないという点は、記録にもあります」
「はい」
院長は子やぎの記録へ目を戻した。
「閉まった戸の近くで傷に気づいた。ただ、戸のどちら側から傷つけられたかまでは、わからないんですね」
「そうです」
奈津は、戸の外に誰かがいると決めていたことに気づいた。
外から声がした。
戸を叩く音がした。
それでも、傷をつけたものまで外にあったとは限らない。
「ほかの入口については、記録がありません」
佐和が言った。
「窓や、戸の隙間も」
院長は頷いた。
「今は、確認できていない点として残しましょう」
院長は、子やぎの記録を手元へ寄せた。
「この件も、捜査局へ追加で伝えます。三か月前から同じようなことが起きていた可能性がありますから」
「子やぎさんにも、お話を聞くんでしょうか」
奈津が尋ねた。
「必要があれば、捜査局が方法を検討します。私たちは、当時の記録と、覚えていることを正確に伝えましょう」
佐和は頷いた。
「わかりました」
奈津はメモを開いた。
戸が開いていたことは、猟師の傷を説明する手がかりになると思っていた。
けれど、閉まった戸のそばでも、似たことが起きている。
猟師が戸を閉めればよいと、簡単には言えなくなった。
*
その日の昼前、鬼が元の物語へ戻ることになった。
院長の診察を終え、必要な説明も済んでいた。
奈津が部屋へ入ると、鬼は床頭台の上を確かめていた。
「忘れ物ですか」
「何か持ってきたかと思ってな」
そこには、水の入ったコップしかなかった。
「お預かりしたものは、ありませんでした」
「そうか」
鬼は腹へ手を置いた。
「ここで食った分は、持って帰れるな」
奈津は笑った。
「お腹は、苦しくないですか」
「ちょうどいい」
鬼は立ち上がった。
来たときのように、腹を押さえてはいなかった。
廊下へ出る前に、扉の上を見て顎を引く。
「建てたやつには、言ったか」
奈津は一瞬、何の話かと思った。
鬼が角を指した。
「ああ……扉ですね」
「忘れてたな」
「伝えておきます」
鬼は笑った。
「次までに、広くなってるといいが」
奈津は鬼のあとを歩いた。
また来ることを、本人も考えている。
それでも、今日は戻っていく。
*
患者来院部屋の前で、鬼は足を止めた。
「猟師は、まだか」
「はい。もう少し、傷の経過を確認します」
「そうか」
鬼は奈津を見た。
「あいつには、ここで飯が出るうちに、ちゃんと食っとけと言っといてくれ」
「伝えます」
「狸にもな」
奈津は頷いた。
鬼は扉へ向き直った。
奈津は、角が当たらないように十分に開けた。
「お大事に」
「ああ。世話になった」
鬼が部屋へ入る。
奈津は見送りを終え、廊下へ戻った。
鬼にとって、戻る先は怖さのない場所ではない。
それでも、自分で戻ると言った。
猟師も同じように話していた。
止めることだけが、患者のためになるわけではなかった。
*
午後、猟師の傷を確認した。
奈津が鬼からの言葉を伝えると、猟師は少し笑った。
「よく食う人だったのか」
「お食事の量を、気にされていました」
「体が大きいからな」
猟師は左手をゆっくり開いた。
「俺は、出してもらった分で足りているよ」
奈津は傷の確認を終え、椅子に座った。
「戻るときの戸口について、院長から改めてお話があります」
「何か、わかったのか」
「似た経過の患者さんの記録が見つかりました。ただ、同じ相手によるものかは、まだわかっていません」
猟師は奈津を見た。
奈津は、院長と確認した範囲で続けた。
「戸を閉めていても、傷に気づいた方がいました」
猟師の目が、床頭台の帽子へ向いた。
「閉めればいいってものじゃないんだな」
「はい。閉めれば防げるとは、今は言えません」
猟師はしばらく黙っていた。
奈津も待った。
「わかった」
猟師は言った。
「戻る前に教えてもらえて、よかったよ」
*
夕方、狸が奈津を呼んだ。
「鬼、帰った?」
「はい」
「お腹、治ったんだね」
「戻ってよいと、院長が判断しました」
狸は頷いた。
奈津が鬼の言葉を伝えると、少し笑った。
「ちゃんと食べてるよ」
「そうですね」
狸は空になった食器を見た。
それから、奈津へ目を戻した。
「僕も、帰る日を決めるの?」
「傷の状態を見て、院長と相談します」
「そっか」
狸は掛け物を整えた。
「まだ、決めてない?」
「はい」
狸は小さく頷いた。
奈津はその顔を見て、もう少しだけ病室に残った。
「戻ること、今も気になっていますか」
「うん」
「昨日と、同じですか」
狸は考えた。
「鬼が帰ったから、僕もそろそろかなって」
奈津は椅子を寄せた。
「鬼さんと、同じ日に戻る必要はありません」
「そうなんだ」
「狸さんの傷と、狸さんのお話を確認して決めます」
狸は掛け物から手を離した。
「じゃあ、院長にも、まだ気になるって言う」
「はい。私からも伝えておきます」
*
退勤前、高梨が古い記録の確認を続けていた。
奈津は子やぎの記録を、もう一度開いた。
母やぎに言われたとおり、戸を開けなかった。
狼ではないかと思い、声を確かめようとした。
そのあと、傷に気づいた。
物語の中で、子やぎは悪役ではない。
猟師も、そうだ。
狼と狸だけを見ていたときには、お仕置きという説明がつきそうに思えた。
けれど、四人の記録を並べると、傷つけられた理由はますますわからなくなった。
奈津は、画面の下へ目を移した。
来院時の所見が続いていた。
右前脚の傷。
袖の裂け目。
衣服の汚れ。
その中に、短い記載があった。
『衣服の前面に白色の粉が付着』
奈津は指を止めた。
七匹の子やぎでは、狼が足を白くする。
その粉かもしれない。
物語にあるものなら、不思議ではない。
ただ、子やぎは戸を開けていなかった。
「高梨さん」
奈津は隣へ声をかけた。
「この粉について、ほかに記録はありますか」
高梨が画面をのぞき込んだ。
「付着した場所や、衣服をどう扱ったかですね。記録を確認して、院長へ伝えましょう」
奈津は椅子を引いた。
「捜査局にも?」
「はい。傷と関係があるかどうかは、そちらで調べてもらいます」
奈津は頷いた。
戸の外から聞こえた声。
開けなかった戸。
それでも、子やぎの服には粉がついていた。
奈津は、その一行をメモへ写した。気になったことを、報告から落とさないためだった。




