第二十章 粉のついた袖
第二十章 粉のついた袖
高梨は、子やぎの記録を最後まで確認した。
白い粉について、詳しい記載はなかった。
着替えの際に衣服を預かり、汚れを落としたことは残っている。
「何の粉だったかまでは、調べていませんね」
奈津は頷いた。
「お話に出てくる粉かもしれないですしね」
「そうですね。付いていたことと、傷との関係は、別に考えましょう」
高梨は記録を閉じた。
「佐和さんにも、当時のことを確認してみます。その内容も、院長から捜査局へ伝えてもらいましょう」
奈津はメモへ目を落とした。
戸を開けていない。
服の前に、白い粉。
気にはなったが、それだけで何かがわかるわけではなかった。
*
翌朝、猟師はシャツのボタンに苦戦していた。
右手だけで留めようとして、布がずれる。
奈津が声をかけると、少し困った顔をした。
「これが、なかなかな」
「お手伝いしてもいいですか」
「頼む」
奈津は布を寄せ、ボタンを留めた。
左腕の袖は、処置のためにゆったりしたものへ替えていた。
「戻るときには、自分の服を着たい」
「お預かりしている服ですね」
「ああ。あれのほうが、動きやすい」
「傷に当たらないか、確認しておきます」
奈津は最後のボタンを留めた。
猟師は右手で胸元を撫でた。
「ありがとう。こういうのが、一番困るな」
道具を使えるか。
物語へ戻れるか。
そんな話の前に、朝、自分の服を着られるかという困りごとがあった。
奈津は袖のしわを直した。
*
猟師の服は、袋に入れて保管されていた。
奈津は高梨と一緒に取り出した。
左の袖に裂け目があり、血の染みが残っている。
「このまま着るのは、難しいですね」
高梨が言った。
「修繕できるか、確認しましょう」
奈津は袖を広げた。
裂け目の周りに、細かな白いものが付いていた。
布の毛羽かと思った。
けれど、濃い色の袖の上に、粉のようなものが残っている。
「高梨さん、ここ」
高梨が顔を近づけた。
奈津は触らずに、袖の端を持った。
「子やぎさんの記録にも、粉がありましたよね」
「はい。ただ、同じものかはわかりません」
高梨は、服を広げていた手を止めた。
「このまま、院長へ報告しましょう。捜査局に確認してもらうので、粉を払ったり、服を洗ったりせずに置いておきます」
奈津は頷いた。
猟師の家には、粉を使う場面があっただろうか。
考えたが、思い当たらなかった。
*
院長は服を見て、奈津と高梨から経緯を聞いた。
「まず、ご本人に確認しましょう。来院前から付いていた可能性もあります」
「はい」
「服の修繕は、確認が済むまで待ってください。捜査局へ連絡します」
院長は袖の裂け目へ目を向けた。
「服を調べてもらうことについては、猟師さんにも説明して、了承をいただきましょう」
「わかりました」
高梨が答えた。
奈津は猟師の病室へ戻った。
*
奈津が服のことを伝えると、猟師は右手で顎を撫でた。
「粉か」
「心当たりはありますか」
「その日は、粉を触っていないな」
猟師は少し考えた。
「婆さんの家には、あったかもしれんが」
「どこかに、腕をついたりしましたか」
「寝台の縁には触れた。戸を開けるときも、手を使った」
奈津は頷いた。
それだけでは、いつ付いたかわからない。
「捜査局で、服を確認してもらいたいと院長からお話がありました。お預かりしてもよいでしょうか」
猟師は自分の左腕を見た。
「傷のところに、付いていたんだな」
「裂け目の周りには、見えました」
「そうか」
猟師は頷いた。
「調べてもらって構わんよ。切られたときに付いたのか、そのあと俺がどこかへ触れたのか。何かわかるなら、頼む」
「ありがとうございます。確認が終わったら、お返しします」
「直すのは、そのあとでいい」
「はい」
「わかったことは、俺にも教えてくれ」
奈津は頷いた。
「お伝えします」
*
昼前、佐和と一緒に狸の寝具を替えた。
狸は椅子に座り、二人の手元を見ていた。
「服も、直してもらえるの?」
奈津は顔を上げた。
「どうしました?」
「猟師が言ってた。袖が破れてるから、直せるか聞いてくれるって」
「確認しています」
「僕のも、穴がある」
狸は自分の脇腹を指した。
入院時に着ていた服は、着替えと一緒にしまってあった。
「戻る前に、見ておきましょうか」
「うん」
佐和が枕を置き直した。
「着ていたものがあると、安心しますものね」
狸は頷いた。
奈津が服を取り出すと、脇腹のあたりに裂け目があった。
佐和がそばへ来た。
「傷のところですね」
「はい」
奈津は布を広げた。
狸の服には、白い粉は見えなかった。
何も付いていないことを確かめようとしている自分に、少し戸惑った。
服を出したのは、狸がまた着られるようにするためだった。
奈津は裂け目の大きさを確認した。
「こちらも、直せるか聞いてみますね。先に、院長に確認してもらいます」
「お願い」
狸は、ほっとした顔をした。
*
部屋を出たあと、佐和が言った。
「三崎さん、粉が気になりますか」
奈津は佐和を見た。
「……顔に出ていました?」
「服を、よく見ていたので」
佐和は使った寝具をまとめた。
「高梨さんから、子やぎさんの記録のことを聞きました」
「猟師さんの袖にも、白いものが付いていたんです。捜査局で確認してもらうことになりました」
「そうでしたか」
佐和は手を止めた。
それから、寝具を持ち直した。
「何かわかるといいですね」
「はい」
二人はリネン庫へ向かった。
奈津は歩きながら尋ねた。
「子やぎさんの粉は、どのあたりに付いていたか覚えていますか」
「前のほうです」
佐和は答えた。
「胸元から、袖にかけて。着替えのときに払ったので」
「たくさんですか」
「薄くです。真っ白になるほどではありませんでした」
奈津は頷いた。
「そのことも、院長へ伝えておきます」
「お願いします」
佐和はリネン庫の扉を開けた。
「狼さんが、粉を付けていましたからね」
「はい。足を白くするんですよね」
「ええ」
佐和は寝具を所定の場所へ置いた。
奈津は、閉まっていた戸を思い出した。
「でも、子やぎさんは戸を開けなかったんですよね」
佐和は振り返った。
「そう話していました」
「どうやって付いたんでしょう」
「物語のどの時点で付いたかも、わかりませんから」
奈津は頷いた。
今の話だけでは、決められなかった。
*
午後、猟師の服について、院長から共有があった。
猟師の了承を得て、服は童話犯罪捜査局へ引き渡すことになった。
袖の白いものが何なのか、子やぎの衣服に付いていた粉と関係があるのか、確認を依頼する。
「子やぎさんの衣服は、すでに汚れを落としています。当時の記録と、佐和さんから聞いた内容も、一緒に伝えます」
奈津は申し送りの内容を書いた。
狸の服についても報告した。
院長は、そちらも修繕をいったん待ち、捜査局に確認すると答えた。
捜査員が来るまで、二人の服はそれぞれ分けて保管する。
奈津は、着替えの準備についても申し送った。
調べてもらっている間にも、患者は服を必要としていた。
*
夕方、狸が服のことを尋ねた。
「直せそう?」
「直す前に、捜査局で確認してもらうことになりました。お預かりしても大丈夫ですか」
奈津は、傷をつけた相手を調べるために、服も確認したいと伝えた。
狸は自分の脇腹を見た。
「これを着ていたから?」
「はい」
「わかった。終わったら、返してね」
「もちろんです」
狸は椅子からベッドへ移ろうとして、少し顔をしかめた。
奈津がそばへ寄ると、佐和も病室へ入ってきた。
「急がなくて大丈夫ですよ」
佐和が狸の背中へ手を添えた。
奈津は足元を確かめ、座る位置を整えた。
狸がベッドへ腰を下ろす。
「ここを持って」
佐和は狸の手を、安定したところへ導いた。
「そう。一つずつ。急ぐと、かえって痛いでしょう」
奈津は掛け物を持ったまま、手を止めた。
佐和が顔を上げた。
「どうしました?」
「いえ」
奈津は掛け物を広げた。
「大丈夫です」
狸が横になり、楽な姿勢を確かめる。
佐和は枕を少し動かした。
いつもの、丁寧な手つきだった。
*
子供のころ、奈津は祖母の家で転んだことがある。
膝を擦りむき、泣きながら玄関へ戻った。
靴を脱ごうとしても、うまくできなかった。
祖母はしゃがみ、奈津の足を支えた。
片方の靴を脱がせ、もう片方へ手を伸ばす。
一つずつ。
急ぐと、かえって痛いでしょう。
さっきの佐和の言葉を聞いた瞬間、その玄関が浮かんだ。
何年も思い出していなかったのに、靴の色まで覚えていた。
*
退勤前、佐和はステーションで書類を揃えていた。
奈津は迷ってから、声をかけた。
「佐和さん」
「はい」
「さっき、狸さんに言っていたことなんですが」
佐和が顔を上げた。
「一つずつ、急ぐとかえって痛いって」
「ええ」
「私の祖母も、同じことを言っていたんです」
佐和の指が、書類の端に置かれたままになった。
奈津は少し笑った。
「転んで、靴を脱げなかったときに。急に思い出して」
佐和は奈津を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「おばあさまも、そうおっしゃったんですね」
「はい」
「よく、見てくださっていたんでしょうね」
奈津は頷いた。
祖母は、泣いている奈津を叱らなかった。
先に靴を脱がせ、傷を洗ってくれた。
「そうですね」
佐和は書類を机へ置いた。
「三崎さん、今日はもう終わりですか」
「はい」
「では、気をつけて帰ってくださいね」
「お先に失礼します」
奈津がステーションを出るとき、佐和はまだ、こちらを見ていた。
*
更衣室で鞄を開けると、借りた絵本が入っていた。
返却するつもりで持ってきて、そのままになっていた。
奈津は表紙へ手を置いた。
祖母は、絵本を読むのが上手だった。
同じ話でも、奈津が何か言えば、そこから少し違う話になった。
狼が怖いと言えば、怖い声をやめてくれた。
もう一人いたら助かるのに、と言えば、祖母は考えてくれた。
奈津は鞄を閉じかけ、手を止めた。
誰かを、話に足そうとしたことがあった。
祖母と二人で。
ただ、その誰かが何をしたのかは、すぐには思い出せなかった。
奈津は絵本を鞄へ戻した。
今日の佐和の言葉で思い出したのは、転んだ日のことだけではなかった。




